江戸三十三観音霊場めぐり

その1

 生涯大学30期文化Aクラス有志による、江戸三十三観音めぐりをすることにした。平成27年1月28日に第一番札所の浅草「浅草寺」よりスタートする。

第一番札所   金龍山 浅草寺


   宗派     聖観音宗
   札所本尊  聖観世音菩薩
   お前立本尊 聖観世音菩薩(慈覚大師円仁作)
   開基 勝海上人(生没年不詳)
   中興開山 慈覚大師円仁(794〜864)

 浅草寺の縁起は、飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が宮戸川(隅田川駒形付近)に漁にでたところ、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。郷司・土師中知(はじのなかとも)に示したところ、聖観世音菩薩様であることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を寺に改め、礼拝供養に生涯を捧げた。
 大化元年(645)、勝海上人がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の掟は厳守されている。
 浅草寺は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁(794〜864、浅草寺中興開山・比叡山天台座主3世)が来山し、お前立のご本尊を謹刻された。
 この浅草寺も昭和20年3月の戦災で、国宝の本堂観音堂及び五重塔などほとんどの堂塔が失われ、昭和33年本堂、昭和35年風雷神門(雷門)、昭和39年宝蔵門(旧仁王門)、昭和48年五重塔が落慶し、旧状に復した。

 なお、浅草寺は坂東三十三観音札所第十三番でもあり、浅草七福神の大黒天でもある。
東京都台東区浅草2-3-1
  
   

 浅草寺をお詣りし御朱印を頂いて、第二番札所清水寺に向かう。国際通り方面に出て、公園六区入口交差点で国際通りを横切り、合羽橋交差点を左に曲がるとすぐ右手に清水寺がある。浅草寺よりおよそ0.8km。

 合羽橋の辺りは土地が低く、すぐ水が出て住民は難渋した。そこでこの地で合羽商を営んでいた喜八は、私財を投じて掘割を作り、住民を救った。その良心に心を打たれた河童達が、夜ごとに工事をして喜八を助けたという言い伝えが残っている。その堀割に清水寺は清水橋という太鼓橋を架けて上野寛永寺と浅草寺への通路とした。その橋の欄干に喜八がいつも合羽を干していたので合羽橋の名が生まれたという。
 喜八は、文化11年(1814)に没し、合羽屋川太郎として近くの曹源寺(通称かっぱ寺)に葬られた。
 合羽橋は、調理器具・食器・厨房設備などを扱う道具専門の問屋街で、厨房用品一切に係わる専門店は、その総数が170店以上に及ぶという。


第二番札所   江北山 宝聚院 清水寺(せいすいじ)


   宗派     天台宗
   札所本尊  千手観世音菩薩
   創建 天台宗総本山比叡山延暦寺座主の慈覚大師(貞観6年864年寂)
   中興開山 権大僧都法印慶円(慶長9年1604年寂)
   東京都台東区松が谷2-25-10

 清水寺の縁起は、淳和天皇の天長6年(829)、天下に疫病が大流行すると、わがことのように悲しまれた天皇は、天台宗の総本山比叡山延暦寺の座主であった慈覚大師に疫病退散の祈願をご下命された。慈覚大師は、京都東山の清水寺の観音さまにならって、みずから一刀三礼して千手観音一体を刻まれ、武蔵国江戸平河(今の千代田区平河)の地に寺を開いてお祀りしたので、さしもの疫病の猛威もたちどころにおさまったという。
 慶長年中、慶円法印が比叡山正覚院の探題豪感僧正の協力を得て中興され、徳川家康の入府で江戸城の修築のため馬喰町に移 り、さらに明暦3年(1657)の振袖火事の後、現在地に再興された。 『江戸名所図会』にも清水寺観世音菩薩として掲出されている。
 

 参拝後、ご朱印を頂き、第五番札所大安楽寺へ向かう。合羽橋通りを北へ歩き、合羽橋北交差点を左に折れ、親疎通りを進み昭和通りに出て右折し地下鉄入谷駅へ。ここから地下鉄日比谷線で小伝馬町まで移動、地上に出たところに大安楽寺がある。清水寺から入谷駅までおよそ1.0km。

第五番札所   新高野山  大安楽寺


   宗派  高野山真言宗
   御本尊 弘法大師
   札所本尊 十一面観世音菩薩
   創建 明治8年 山科俊海大僧正、大蔵喜八郎、安田善治郎
   東京都中央区日本橋小伝馬町3-5

 大安楽寺は、小伝馬町牢屋敷の刑場の跡に建立されたお寺で、明治の初年、高野山の山科俊海和尚がここを通りかかり、伝馬町牢獄跡と知り、一寺を建立して勤王の志士の慰霊、刑死者の霊を弔うことを発願し、明治8年に一寺を建立、高野山から弘法大師像を勧請して本尊として祀った。
 建立に際して、大倉財閥創業者の大倉喜八郎と安田財閥の創業者安田善次郎が多額の資金を出したことから、二人の名前をとって大安楽寺と名づけたと言われている。
 大正12年(1923)の関東大震災による火災で堂宇は焼失、昭和4年(1929)に現在の規模で再建されたという。高野山の準別格本山である。
 大安楽寺のある辺りは江戸時代に伝馬町牢屋敷の在った所で、慶長年間から明治8年まで270年にわたって数十万人の囚人を収容した。
 安政5年9月から同6年12月までの1年3ヶ月の期間、即ち安政の大獄では、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等五十余人が収容され、そのほとんどが処刑された。
 境内には、吉田松陰などの勤皇の志士達処刑者の慰霊と平和祈願の為に建てられた「延命地蔵尊」がある。日展審査員横江嘉純氏の作で、台座に山岡鉄舟筆の「為囚死群霊離苦得脱」と京都泉涌寺長老椋本龍海大僧正筆の「為戦歿殉難諸霊菩提」の鋳物の扁額がはめられている。
 

 参拝後、ご朱印を頂き、第三番札所大観音寺へ向かう。人形町通りを人形町に向かって歩き、人形町交差点を越えてすぐの右手に大観音寺がある。大安楽寺からおよそ0.8km。

第三番札所   大観音寺


   宗派 聖観音宗
   御本尊 聖観世音菩薩
   札所本尊 聖観世音菩薩
   創建 年代不詳 明治13年この地に移築
   東京都中央区日本橋人形町1-18-9

 大観音寺の創建年代は不詳だが、明治13年当地に移築したといわれる。本尊の鉄観音像は、北条政子が井戸から掘り出した古鐵の正観音の御髻から霊験を得て、鎌倉の扇ヶ谷に創建した新清水寺の本尊だったが、1258年(正嘉2年)1月17日の火災により寺は焼失、鉄観音像の行方もわからなくなっていた。
 江戸時代になって鎌倉の「鉄(くろがね)ノ井」から頭だけが掘り出され、明治維新までは、「鉄ノ井」の前にあった鉄観音堂に安置されていたが、明治の神仏分離令による廃仏毀釈の流れの中、由比ヶ浜に捨てられるところを、船で東京深川の御船蔵前に運ばれ、明治9年、この地の仮堂に安置されたとされている。鉄観音像は、頭部のみの像で、1.7メートルの鋳鉄製である。
 現在の大観音寺は、昭和17年に創建された。昭和27年、天台宗から聖観音宗に改宗されている。
 

 参拝後、ご朱印を頂き、第四番札所回向院へ向かう。人形町駅より地下鉄都営浅草線で東日本橋駅まで移動、東日本橋駅より、靖国通りへ出て右折、両国橋を渡ると間もなく右手に回向院がある。東日本橋駅からおよそ0.8km。

第四番札所   諸宗山 無縁寺 回向院


   宗派  浄土宗
   御本尊  阿弥陀如来
   札所本尊 馬頭観世音菩薩
   創建  明暦3年(1657年)
   東京都墨田区両国2-8-10

 回向院は、明暦3年(1657)の江戸大火(振袖火事)の犠牲者の冥福を祈るため老中松平伊豆守などの進言により、四代将軍家綱が増上寺第二十三世遵誉大僧正に命じ、万人塚を築いて貴賤の区別なく焼死者を葬り、塚の上に銅の地蔵尊を安置し、法界無縁塚と名づけたのが初めだという。
 その後、天災地変の江戸の犠牲者に併せて牢病死者も埋葬されている。本堂の左方の一角には、それらの供養塔が建立されている。
 境内の奥の方に、江戸時代に大名屋敷を専門に狙った窃盗犯である「鼠小僧次郎吉」の墓がある。
 また、回向院は大相撲とも縁のある寺院で、江戸時代の勧進相撲の興行を機に、旧両国国技館が完成する明治42年(1909)まで、回向院で行われてきたという。境内には、昭和11年(1936)相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のために建立した「力塚」があり、時折近隣の相撲部屋から力士が参拝に来る姿が見掛けられるという。
 
  
鼠小僧次郎吉」の墓         慈母観音像                力   塚            

 参拝後、ご朱印を頂き、両国駅まで歩き、地下鉄都営大江戸線にて月島まで移動し、「もんじゃ焼」の昼食を摂り、解散。

 JR上野駅公園口に10:00に集合。改札付近はお花見客で混雑している。まずは東京文化会館の脇を抜けて、六番札所の寛永寺清水観音堂へ。上野公園の桜が満開とあって花見がてらの参拝客が多い。

第六番札所   東叡山 寛永寺 清水観音堂


   宗派  天台宗
   札所本尊 千手観世音菩薩
   創建  慈眼大師天海大僧正 寛永8年(1631年)
   東京都台東区上野公園1-29

 清水観音堂は、寛永寺の諸堂のひとつで、京都東山の清水寺を模した舞台造りのお堂で、寛永八年(1631)天海大僧正により建立された。また、御本尊も清水寺より恵心僧都(えしんそうず)作の千手観音像を迎え秘仏として祀られている。
 初めは擂鉢山(現東京文化会館西側の岡)に建てられたが、元禄7年(1694)9月に現在の地に移された。
 上野の山に現存する創建年次の明確な最古の建造物であり、重要文化財に指定されている。
  

 参拝後、ご朱印を頂き、十番札所の浄心寺へ。お花見客がいっぱいの上野公園を通り抜け、精養軒の脇から池之端に出て、水月ホテル鴎外荘の角を左に折れ、不忍通りを右に暫らく歩く。千駄木二丁目交差点を左折し根津神社の前を通って、本郷通りを右に折れるとすぐに十番札所の浄心寺がある。ここの桜も満開だ。清水観音堂よりおよそ2.2km。



第十番札所   湯濤山 常光院 浄心寺


   宗派  浄土宗
   御本尊  阿弥陀如来
   札所本尊 十一面観世音菩薩
   開山  還蓮社到誉文喬和尚 元和2年(1612年)
   東京都文京区向丘2-17-3

 浄心寺は、元和2年(1612年、徳川2代将軍秀忠の頃)に畔柳助九郎氏が大旦那となり、還蓮社到誉文喬和尚を開山上人とし、湯島妻恋坂付近に創建された。その後、八百屋お七の振り袖火事として知られる江戸の大火(1717年)により焼失し、現在の地に移転した。
 札所本尊の十一面観世音菩薩は、子育桜観音とも呼ばれ、本尊の脇侍である。
 
 

 参拝後、ご朱印を頂き、八番札所の清林寺へ。本郷通りを駒込方面に少し歩き、向丘二丁目交差点を右に折れると間もなく左手に八番札所の清林寺がある。浄心寺よりおよそ0.4km。

第八番札所   東梅山 花陽院 清林寺


   東梅山 花陽院 清林寺
   宗派  浄土宗
   御本尊  阿弥陀如来
   札所本尊 聖観世音菩薩
   開山  観誉龍脱和尚(観誉祐祟上人) 文明15年(1483)
   東京都文京区向丘2-35-3

 清林寺は、文明15年(1483)神田四軒町に、後に鎌倉光明寺住職を務めることになる観誉龍脱和尚(観誉祐祟上人)によって開山された。その後焼失し永く無住が続いしたが、天暦和尚が中興、慶長18年(1613)神田柳原へ移転、慶安元年(1648)現在地へ移転した。
 寺の名は、徳川家康が江戸に入った時に、二祖台蓮社光誉上人が家康から天下栄の松・万年の竹・相生の東梅の三鉢の鉢植えを頂いた事からつけられたとの事である。
 
 

 参拝後、ご朱印を頂き、九番札所の定泉寺へ。向丘二丁目交差点に戻り、本郷通りを右に折れ、駒本小学校前交差点を過ぎると間もなく左手に九番札所の定泉寺がある。清林寺よりおよそ0.5km。

第九番札所   東光山 定泉寺


   東光山 定泉寺
   宗派  浄土宗
   御本尊  阿弥陀如来
   札所本尊 十一面観世音菩薩
   開山  定蓮社定誉随浪和尚 元和7年(1621)
   東京都文京区本駒込1-7-12

 定泉寺は、太田道灌の矢場跡があったと伝えられる本郷弓町に蜂屋九郎次郎善遠が開基、増上寺十八世定蓮社定誉随浪和尚が開山となり、元和7年(1621)に創建、明暦の大火(1657年3月振袖火事)後現在地へ移転したという。
 広大な寺域に本堂・庫裏・鐘楼・山門が建てられた。鐘楼に掛けられた鐘は駒込の名鐘の一つと称されるものであったという。しかし、東京大空襲により堂宇は消失したが、昭和27年(1952)本堂が再建され、鈴鹿市白子本町にある終南山悟真寺という浄土宗知恩院派のお寺から十一面観世音菩薩像を迎えたとのことである。
  

 参拝後、ご朱印を頂き、次に順が飛んでいるが、二十三番札所の大圓寺が近くにあるのでそこへ向かう。本郷通りを戻り、向丘高校の手前の細い路地を入ると間もなく左手にある。定泉寺よりおよそ0.5km。

第二十三番札所   金龍山 大圓寺


   宗派  曹洞宗
   御本尊  釈迦牟尼仏
   札所本尊 七観世音菩薩
   開山  上州茂林寺十二世久山正雄大和尚 慶安2年(1649)
   東京都文京区向丘1-11-3

 大圓寺は、開創は慶長2年(1597)と古く、開山は群馬県館林の茂林寺十二世久山正雄大和尚が努め、開創当初は神田柳原にあったが、慶安2年(1649)に現在地に移った。9代将軍家重公時代の老中で、出羽国庄内藩5代藩主酒井忠寄の母 東陽院殿華巖貞春大姉の帰依を受け江戸の菩提寺となった。
 江戸年間に幾度となく大火に遭い堂宇を焼失、昭和初期に新本堂が建立され観音像7体が奉安されたが、東京大空襲によりまたもや全焼してしまった。後に堂宇も復興し、七観音像も復元された。文京区の観音霊場では唯一の禅宗寺院である。
 本堂には、本尊の釈迦牟尼仏はじめ大日如来、阿弥陀如来、地蔵菩薩、弥勒菩薩、虚空蔵菩薩が祀られ十方三世一切仏(十方三世一切仏、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜)の道場となっている。
 山門を入ると突当りに小さなお堂がある。中に祀られているのは、「ほうろく地蔵」と呼ばれるお地蔵さんで、火あぶりの刑に処された「八百屋お七」を供養するために、享保4年(1719)、江戸湯島の渡辺九兵衛なる人物の寄進によって建立された。
 頭に焙烙(ほうろく)を載せたお地蔵さんは、頭痛、眼病、耳・鼻等の首から上の病気を治すご利益があるといわれ、多くの供え物でお堂の中が一杯になっていた。
 
 

 参拝後、ご朱印を頂き、十一番札所の圓乗寺へ。山門前からR17号へ出て左に進み、東京電力白山変電所を右折して浄心寺坂を下る。少し歩くと右手に「八百屋於七地蔵尊」のお堂が見えてくる。ここが圓乘寺参道の入口だ。大圓寺よりおよそ0.4km。

第十一番札所   南縁山 正徳院 圓乗寺


   南縁山 正徳院 圓乗寺
   宗派  天台宗
   御本尊  釈迦牟尼如来
   札所本尊 聖観世音菩薩
   開山  實仙法師 元和6年(1620)
   東京都文京区白山1-34-6

 圓乗寺は、圓栄法印が天正9年(1581)本郷に密蔵院として創建、元和6年(1620)實仙法師が圓乗寺と寺号を改め、寛永8年現在地へ移転したという。天和の大火の起因となった八百屋お七の舞台ともなった寺院で、現在も八百屋お七の墓所が残されている。
 お七の家は江戸有数の八百屋だったが、天和2年(1682)、大圓寺から出火した天和の大火で被災し、菩提寺である圓乗寺に非難した。その折に寺小姓の小堀左門(一説では、佐兵衛、吉三、葺二郎などがある)と恋仲になってしまう。その後、再会したい一心で、火事になればまた逢えると思い込んで放火してしまった。未遂に終わったものの、天和3年(1683)数え歳16で火あぶりの刑に処せられた。
 


 参拝後、ご朱印を頂き、七番札所の心城院へ向かう。R17号に戻り本郷方面に暫らく歩く。途中、東京大学農学部の学食で昼食を摂る事にし、校内に入るとすぐ左手に、「上野博士と忠犬ハチ公」の像が立っている。
 食後、言問い通りから東大に沿って歩いていき、旧岩崎邸庭園に寄る。圓乗寺からおよそ2.3kmだ。
旧岩崎邸見学後、湯島に出て、湯島天神を参拝、男坂の石段を下った左手が心城院だ。旧岩崎邸庭園よりおよそ0.3km。




第七番札所   柳井堂 心城院(通称 湯島聖天)


   宗派  天台宗
   御本尊  大聖歓喜天
   札所本尊 十一面観世音菩薩
   開山  天台宗喜見院第三世宥海僧正 元禄7年(1694)
   東京都文京区湯島3-32-4

 心城院は、元禄7年(1694)湯島天神別当職の天台宗喜見院第三世宥海僧正が、道真公と縁のある大聖歓喜天を湯島天神境内に奉安するため、宝珠弁財天堂として開基した。明治維新により喜見院は廃寺となり、宝珠弁財天堂を心城院と改めた。心城院には江戸名水の一つ「柳の井戸」があることから、柳井堂と称され、また聖天を祀っていることから湯島聖天とも称されている。
 当時は、湯島天神の一堂宇で「湯島の聖天さま」として尊崇を得た。この聖天様は比叡山から勧請した慈覚大師作と伝えられている。
 堂宇は、振袖火事、安政の大火、関東大震災や東京大空襲などの多くの災害にも遭うことなく、開基以来約三百年を耐えてきたが、老朽化が進んだ為、近年改修された。
 

 参拝後、ご朱印を頂き、湯島交差点に出て解散。

                                                  その2につづく

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