山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.10


第10回 秋葉原駅〜妻戀神社〜神田神社(神田明神)〜湯島聖堂〜聖橋〜ニコライ堂〜筋違見附門跡〜
      神田青果市場発祥の地〜柳森神社〜玄武館跡〜種痘所跡〜お玉稲荷〜弁慶橋跡〜十思公園〜
      宝田恵比寿神社〜長崎屋跡〜石町時の鐘(鐘撞堂跡)・夜半亭(与謝蕪村居住地跡)〜神田駅

                                                      H28年5月19日

 10:00、JR秋葉原駅に7名が集合、晴天の下、まずは妻戀神社へ。駅前の中央通りを上野方面に向かって歩き、末広町交差点で蔵前橋通りを左に、そして妻恋坂交差点を右に折れ、すぐの左の細い道に入る。この坂が妻恋坂で、上ったところの右手に妻戀神社がある。

「妻戀神社」
 この神社の創建年代等については不詳であるが、日本武尊が東征のおり、三浦半島から房総へ渡るとき大暴風雨に会い、この時、妃の弟橘媛が身を海に投げて海神を鎮めたため、嵐が収まり、尊の一行を救った。
 その後、東征を続ける尊が湯島の地に滞在したので、郷民は尊の妃を慕われる心をあわれんで尊と妃を祭ったのがこの神社の起こりと伝えられる。
 後に、稲荷明神(倉稲魂命)が合祀され、江戸時代には「妻戀稲荷」と呼ばれ、関東惣社と名のり王子稲荷神社と並んで参詣人が多かったという。特に神社で授ける宝船の絵を枕の下に敷いて眠るとよい初夢を見ると云われ、年末には多くの参詣人で行列ができたという。

 妻戀神社を出て、その先の清水坂を下り、蔵前橋通りを横切り、少し先を左に折れると神田神社(神田明神)だ。

「神田神社(神田明神)」
 天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村(現在の大手町1丁目付近、将門首塚の隣)に入植した出雲系の氏族が、大己貴命(大国主命)を祖神として祀ったのに始まるとされる古社。
 江戸城増築に伴い慶長8年(1603)に神田台へ、さらに元和2年(1616)に現在に地移され、江戸総鎮守として尊崇された。現在の場所は江戸城の北東の方向にあたり、この場所に移されたのは江戸城の鬼門封じといわれている。
 祭神は、大己貴命(大国主命)少彦名命平将門であるが、平将門は朝敵だというので、明治維新後祭神から外されが、戦後昭和59年(1984)になって祭神に復帰した。
 神田神社が正しい名称だが、神田明神の方が知られている。江戸三大祭・日本三大祭の神田祭が有名で、日本のビジネスの中心地、大手町・丸の内を氏子地域に持ち、企業参拝も多く、男性・商売の縁結びをもたらす、都心の仕事運では外せない神社でもある。

 神田神社を出て、本郷通りを右に、そしてすぐの湯島聖堂前交差点を左りに折れると左手が江戸時代の最高教育機関の中心、湯島聖堂である。

「湯島聖堂」
 聖橋の北側、湯島聖堂から東京医科歯科大附属病院にかけての一帯は、徳川幕府の官学の拠点で当時の最高学府だった「昌平坂学問所」が置かれていたところ。
 この学問所は、徳川五代将軍綱吉が儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の儒学者林羅山の私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移し、幕府直轄の学問所とし、孔子の故郷の地名にちなんで昌平黌(しょうへいこう)と名付けられ、寛政9年(1797)寛政の改革の一環で、「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」と名を改められた。
 現在の大成殿は関東大震災後に寛政時代の旧制を模し、再建された鉄筋コンクリートの建物で、築地本願寺を手がけた伊藤忠太の設計である。
 大成殿の前に立つ入徳門は、寛政11年(1799)に徳川11代将軍家斉が建てたもので、この門と左右に続く塀と水屋は、この一帯に残る唯一の江戸期の建物である。
 湯島聖堂構内に飾られている世界最大の孔子像は、昭和50年(1975)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたものである。

 湯島聖堂を出て、神田川に架かる聖橋を渡り少し行くと右手に、日本最大のビザンチン様式の教会、ニコライ堂がある。

「聖橋」
 関東大震災後の復興事業の一環で、昭和2年(1927)に完成した。大半が鉄橋だった震災後の橋梁のなかで、この橋は鉄筋コンクリート製だったため話題となった。設計は、後に日本武道館京都タワーを手がけた建築家の山田守である。
 この美しいアーチの橋は、駿河台のニコライ堂と湯島の湯島聖堂の二つの聖堂を結ぶことから、一般公募で聖橋と名付けられた。

「ニコライ堂」
 明治17年(1884)から7年の歳月をかけて建設された日本ハリスト正教の教会で、半球形のドーム屋根を持つビザンチン様式で建てられた教会としては日本最大のもので、高さ38m、ドームの直径は15mである。
 ニコライ堂とは、この堂を建てたニコライ大司教の名前をとった呼称で、正式名称は「日本ハリスト正教会東京復活大聖堂」。
 ニコライはロシア正教の大司教で、ロシア帝国領事館付きの司祭として文久元年(1861)に来日。日本人警官がロシア皇太子に斬りつけた大津事件では、明治天皇とロシア皇帝の間を取り持って事件の解決に寄与した人物である。
 建物は設計がロシア人のシチュールボク、工事監督は、鹿鳴館の設計で知られるジョサイア・コンドルである。
 写真右の変わった形の十字架は、八か所の端があることから「八端十字架」といい、「ロシア十字架」ともいわれているが、スラブ系の教会で広く使われているので、こう呼ぶのはあまり適当ではないという。

 ニコライ堂見学後、本郷通りを下りすぐの交差点を左折し新坂を下り、淡路町二丁目交差点を左折、外堀通りの神田郵便局前交差点を右折し、JR中央線のレンガ造りの高架に沿って少し行ったところが筋違見附門跡である。

「筋違見附門跡」
 筋違(すじかい)門は、寛永13年(1636)加賀百万石の三代藩主・前田利常が築いた。筋違の名称は、江戸城から上野寛永寺に続く御成道と、日本橋から始まり、本郷方面へと続く中山道がちょうど交差する場所なのでこう呼んだのだという。この筋違橋門を抜けて外濠の内に入ると広大な広場が現れる。ここは、中仙道をはじめ8方向に道が変則的に交差することから、八ッ小路(八辻ヶ原とも)と言われていた。
 現在は、レンガ造りの高架の脇に「御成道」と記した説明板が立っているだけである。

 また、レンガ造りの高架に沿った歩道の少し広くなったところに、「万世橋駅舎基礎」が埋め込まれている。このレンガ基礎は万世橋駅舎の後、交通博物館をも支えるものとして、約100年近くにわたり、役目を果たしてきたという。

 外堀通りへ戻り南へ歩き、淡路町交差点を左折、靖国通り沿い(右側)に江戸の三大市場のひとつ「神田青果市場発祥の地」と記した標柱が立っている。

「神田青果市場発祥の地」
 神田青物市場は、江戸時代初期、神田周辺の名主だった河津五郎太が、野菜を売る「菜市」を開いたのが始まりという。
 明暦の大火(1657年)のあと、江戸の市街は再編成され、神田の市場は大規模に編成された。
 この場所は神田川や日本橋川の水運と各地からの道が集まる交通の要衝でもあったため、「ヤッチャ場」こと青果市場は大いに活況を見せたのである。
 この市場は昭和3年(1928)、秋葉原に移転し、現在は大田区に移転している。




 靖国通りを更に須田町方面(西)に歩き、須田町交差点を左折し、万世橋の袂にある「肉の万世」で昼食。その後、万世橋は渡らず神田川に沿って歩く。

「万世橋」
 江戸時代には少し上流に筋違橋があり、ここにあった筋違見附を明治5年に取り壊した時に出た石材を再利用して万世橋を建築した。
 当初は萬世橋(よろずよばし)と命名されたが、次第に現在の「まんせいばし」という呼び方が定着したようである。
 現在の橋は、関東大震災後の昭和5年(1930)に架け替えられたものである。






 JRのガードをくぐるとすぐ左手に「おたぬきさん」のおやしろ柳森神社がある。

「柳森神社」

 柳森神社は一名を土手下稲荷という。たいがいの神社は高台に鎮座して参道の石段を上って参拝するが、ここは石段を下って参拝するのだ。
 室町時代の長禄2年(1457)、太田道灌公が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する神社である。
 「おたぬきさん」の名前は、境内社の福寿社に由来する。福寿社には江戸幕府5代将軍の徳川綱吉の母・桂昌院が信仰していた福寿神(狸)の像が祀られている。「たぬき=他に抜きんでる」ということから、立身出世や勝負事、金運向上にご利益があるとして信仰を集めている。
 椙森神社烏森神社と共に江戸三森の一社と呼ばれた。

 柳森神社を参拝後、神田川沿いを進み昭和通りを右折、岩本町交差点を似木斜めに細い道に入った左手が、千葉玄武館道場のあった所だ。現在はマンション建設中で、標識などは何もない。

「玄武館道場」
 北辰一刀流の創始者で、神道無念流齋藤弥九郎鏡心明智流桃井春蔵とともに、幕末三剣豪といわれた千葉周作が開いた剣術道場。
 門弟の中には勝海舟坂本竜馬などのほか、酒豪にして剣豪という平手造酒もいたという。

 昭和道りへ戻り右に(南)行き、東松下町交差点を左に、そして岩本町三丁目交差点を右に折れた道路沿いに、江戸に誕生した日本最初の伝染病予防施設、お玉ヶ池種痘所跡の石碑が立っている。

「お玉ヶ池種痘所跡」
 天然痘は、伝染力が強く死亡率も高い病気で、予防法や治療法も確立していなかった江戸時代は死に至る病「疱瘡」の名で恐れられていた。
 この頃イギリスの外科医ジェンナーが種痘法を開発したが、鎖国日本での本格的な導入は、ジェンナーの発見から50年以上経た嘉永2年(1849)、外国事情に詳しかった佐賀藩主、鍋島正直がオランダから輸入させた痘苗を藩内に広めたのが始まりである。
 安政5年(1858)伊藤玄朴大槻俊斎ら江戸の蘭学者たちが資金を出し合って、勘定奉行の川路聖謨の屋敷に「種痘所」をつくり、江戸町民にも種痘勧告がなされた。
 のちに、種痘所は東京医学校となり、東京帝国大学医学部となった。東京大学医学部発祥の地である。

 このすぐ先の狭い道を右に折れた右側に、お玉ヶ池跡に建つお玉稲荷がある。

「お玉稲荷」
 
その昔、この地は谷田川の流れがあり、桜ヶ池と呼ばれる池があった。その畔にあった茶店の看板娘お玉が、池に身を投げたという。
 里人たちは彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池と呼ばれていたこの池をお玉ヶ池と呼ぶようになり、またお玉稲荷を建立して彼女の霊を慰めたという。
 江戸の初めには不忍池よりも大きかったといわれるが、徐々に埋め立てられ、江戸時代の半ばには姿を消したという。








 お玉稲荷と、水天宮通りを挟んで反対側の道路に、弁慶橋跡の説明板が立っている。

「弁慶橋跡」
 弁慶橋は、ここに流れていた藍染川に架かっていた橋で、江戸の大工棟梁弁慶小左衛門が架けたもので、明治18年(1885)川は埋立てられたが、この橋は小左衛門の名作というので、明治22年(1889)に廃材を利用して、清水谷から赤坂見附の方へ出るところに、同じ橋の名で架設され、古風な江戸の面影を残して明治・大正時代の名所となった。

 水天宮通りを小伝馬町方面(南)に暫らく歩き、小伝馬町交差点の一本手前の道を右に折れたところに十思公園がある。

「十思公園」
 この辺りは、江戸時代には有名な伝馬町の牢屋があったところである。牢屋敷はもとは常盤橋門外にあったが、延宝5年(1677)にこの地へ移され、明治8年(1875)に市ヶ谷刑務所ができるまで約200年にわたって続いた。
 安政の大獄で牢送りとなった吉田松陰はこの地で処刑されて、園内には吉田松陰終焉之地碑や吉田松陰顕彰碑、辞世の碑など吉田松陰に関する碑、乃木希典の書による忠魂碑などが立っている。
 また、園内には江戸時代に時を知らせた鐘が石町(現在の日本橋室町)から移されている。「石町時の鐘」は江戸で最古のものであるが、火災などで破損し,現在の鐘は宝永8年(1711)に改鋳されたものである。

 十思公園をでて、身延別院の前を通って、江戸通りに出て右折、すぐの角を左に折れ二本目の道を右に曲がった先の右手に、べったら市で知られる宝田恵比寿神社がある。

「宝田恵比寿神社」
 宝田恵比寿神社は、徳川家康江戸入府以前は宝田村の鎮守社だったといい、江戸城拡張により村の移転を命ぜられ、現大伝馬町へ遷座、当地は金銀為替、駅伝、水陸運輸と重要な役割を担い大変賑わったという。
 また御神体の恵比寿神は、運慶作と伝えられ、徳川家康から下賜されたもだといい、日本橋七福神の恵比寿神となっています。
 尚、東京の風物詩である恒例のべったら市(毎年10月19日)は、商売繁盛を願う商家にとって欠かせない行事となっている。
 ちなみに大根の浅漬けを「べったら漬け」というのは、その昔、若者が市の混雑を利用し、「べったらだー べったらだー」と呼びながら浅漬け大根を参詣に来た女性の着物の袖になすりつけてからかったことが語源だとか。




 江戸通りに戻り左折、昭和通を横切り、中央通との交差点の右手前に長崎屋跡の説明板が立っている。

「長崎屋跡」
 江戸時代、ここは長崎屋という薬種店があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の定宿になった。長崎からの随行の人々は、商館長のほか、通訳、学者などが賑やかに行列して江戸にやって来た。
 商館長に随行したオランダ人の医師の中には、ツンベルクシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周平賀源内はじめ日本人の医者、蘭学者が訪問し、長崎以外における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名になった。

 江戸通りから中央通りを神田方面へ1つ目角の北都銀行東京支店脇の道に、「石町時の鐘 鐘撞堂跡」と、並んで「夜半亭−与謝蕪村居住地跡−」の説明板が立っている。

「石町時の鐘 鐘撞堂跡」
 時の鐘は、江戸時代から本石町三丁目に設置された、時刻を江戸市民に知らせる時鐘である。徳川家康とともに江戸に来た辻源七が鐘つき役に任命され、代々その役を務めた。鐘は何回か鋳直されたが、宝永8年(1711)に製作された時の鐘が十思公園内に移されて残っている。

「夜半亭−与謝蕪村居住地跡−」
 夜半亭は、元文2年(1737)俳諧師早野巴人(はやの・はじん=1676-1742)が「石町時の鐘」のほとりに結んだ庵である。「夜半ノ鐘声客船ニ至ル」という唐詩にちなみ、巴人も「夜半亭宋阿(そうあ)」と号した。
 この夜半亭には、多くの門弟が出入りしたが、なかでも「宰町(さいちょう)」と号していた若き与謝蕪村(1716-1783)は内弟子として居住し、日本橋のこの地で俳諧の修行に励んだ。
 寛保2年(1742)巴人の没により、江戸の夜半亭一門は解散し、蕪村は江戸を離れて常総地方などを歴訪後、京都を永住の地と定めた。
 やがて、俳諧師としての名声を高め、画業においても池大雅と並び称されるほどになった蕪村は、明和7年(1770)巴人の後継者に推されて京都で夜半亭二世を継承した。


 中央通りを神田駅前まで歩き解散。


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