「北町奉行所跡」
この地域は、江戸時代には呉服橋門内と呼ばれ、文化3年(1806)から幕末まで北町奉行所が置かれていた。町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつで、今の有楽町駅前にあった南町奉行所と、ここ北町奉行所の二か所に分かれて交代で町人地の行政・司法・警察の職務を担っていた。
北町奉行所は、約2560坪あり、表門は東向きにあった。
名奉行として有名な「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元は、天保11年から14年(1840〜1843)までここで執務をしていた。
「遠山の金さん」は、老中水野忠邦が行った、倹約緊縮の引き締め政策である「天保の改革」に反対した。金さんの働きにより、寄席や浄瑠璃は廃止を免れ、床見世(屋台や露天商)も存続を許された。こうしたことから遠山金四郎には「庶民の味方」と云われてきたのであろう。
「江戸城外堀の石垣」
北町奉行所の東方、日本橋川の分流・外濠川の江戸城外堀の東側は寛永13年(1636)に築かれたが、常盤橋門跡や日本橋川の護岸の一部などに石垣が残っているが、1948年(昭和23年)に東京駅拡張工事とともに濠は埋めたてられ、今は外堀通りや交差点の名前などに名残をとどめている程度である。
写真右寄りの2段になっている4列の部分が、当時の石垣だそうである。上段中央の細い石の表面に当時の石を割った「矢穴」が見られる。
トラストタワーの歩道はかつての外堀をイメージした石積みが並び、その一部に鍛冶橋門周辺で発見された掘石垣がほぼ当時の形で積直され使用されている。
丸の内トラストタワーN館の東側を抜け、永代通りを右に、そしてすぐの呉服橋交差点を左に折れた先に一石橋の親柱と「一石橋迷子知らせ石標」が立っている。
「一石橋迷子知らせ石標」
皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期にすでに木橋としてあった。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、北橋詰近くの金座支配・後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町頭取・後藤縫殿助の屋敷があり、後藤(五斗)を二つ足して一石橋の名が付いたといわれている。
大正11年(1922)に鉄筋コンクリート花崗岩張りで、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となった。平成9年に橋本体は撤去されたが花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿を偲ばせている。
江戸時代の日本橋〜一石橋界隈は盛り場で、迷子や尋ね人が多かったようである。当時迷子は町内が責任をもつことになっており、安政4 年(1857)近隣の町名主等が世話人となり、一石橋に迷子探しの告知石碑が建立された。
正面に「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、左側に「たづぬる方」、右側に「志(し)らす類(る)方」と刻まれています。両側の上部に方形の窪みがあり、左側の窪くぼみに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、心当たりがある人はその旨を書いて右側の窪くぼみに貼った。いわば江戸庶民の告知板であった。湯島天神や浅草寺、両国橋等、往来の多い場所に同様のものがあった。
呉服橋交差点に戻り左折すると、角に建つ新呉服橋ビルの敷地内に「夢二港屋ゆかりの地碑」 がたっている。ここは、大正浪漫(ロマン)の叙情画家として名を残した竹久夢二が、東京・日本橋呉服町(現在の呉服橋交差点東角)に開いた「港屋絵草紙店」の跡地である。碑には、他万喜と彦乃と夢二の関係を思い出さずにはいられない絵と<待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ>の詩が刻まれている。
新呉服橋ビルの前を通り、日本橋交差点を左折すると江戸の交通の起点であった日本橋だ。
「日本橋」
日本橋が初めて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられている。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていた。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名である。
現在の日本橋は、石造二連アーチの道路橋として明治44年(1911)に完成したもので、橋の柱にある「日本橋」の文字は、第十五代将軍徳川慶喜の筆によるものである。
橋の中央、センターライン上にある「日本国道路元標」は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に昭和47年に柱からプレートに変更された。
・高札場跡(橋の南詰西側)
高札場とは、幕府など施政者が、法律や決まり事を庶民に知らせるために掲示した場所のことで、江戸
には大高札場が6ヶ所、小さな高札場は35か所あったという。日本橋は、人通りの多さから最も重視された
場所である。高札場跡に建つ日本橋由来の碑は、この高札場の形を模している。
・元標の広場(橋の北詰西側)
「日本国道路元標」のレプリカと「東京市道路元標」(柱)がある。
・日本橋魚市場跡(橋の北詰東側)
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする
「魚河岸」があった。なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集ま
り、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引が
あるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つであった。
この魚河岸は、大正12年の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展した。
現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和29年に日本橋魚市関係者が建立した、竜宮城に因んだ「乙姫
像」の記念碑がある。
日本橋北詰交差点を左に折れ、三越の脇を通り、日本銀行本店の前から常盤橋へ向かう。
「日本銀行本店」
江戸には貨幣鋳造機関として、金座と銀座、銭座があった。勘定奉行の支配の下で貨幣の鋳造を行う施設で、それぞれ金貨幣、銀貨幣、銅貨幣を製造していた。このうち金座があったのが日本橋本石町、現在の日本銀行本店の場所である。
日本銀行本店本館は明治29年(1896)の建物で、設計は東京駅と同じ辰野金吾。ベルギーの国立銀行をモデルにしていると云われる。重厚な雰囲気の外観は、ドーム屋根や柱の形式などにはネオ・バロック、窓はルネッサンス様式である。
本館の向かいには、日本銀行金融研究所貨幣博物館があり、古代から現代までのわが国の貨幣の歴史を中心に様々な展示がなされている。
日本銀行本店の前から外堀通りを横切り常盤橋を渡った右手が常盤橋御門跡の常盤橋公園であるが、現在、常盤橋解体修理工事中で、渋沢栄一の銅像だけが見られるだけである。
「常盤橋御門跡」
江戸城枡形門の一つで、寛永6年(1629)に築かれた。古くは浅草口・追手口とも呼ばれ、田安門(上州口)、神田橋門(芝崎口)、半蔵門(甲州口)、外桜田門(小田原口)と共に江戸五口に数えられた。江戸城外郭の正門なので大手口ともよばれていたともいわれている。
明治6年に門は撤去され、枡形石垣の一部が現存している。この石垣の保存に力を注いだのが明治の実業家の渋沢栄一である。
常盤橋は、明治10 年(1877)にそれまでの木造橋を、常盤橋御門の石垣に使われていた石を利用して、洋式2連の石造アーチ橋(通称 眼鏡橋)に架け替えられた。現存する東京最古の石橋である。この石造橋には「磐」の字を用いた「常磐橋」という名が付けられている。これは部首の「皿」が割れて縁起が悪いことからこの字にしたといわれている。
常盤橋からJRのガードをくぐり、外堀通り、日比谷通りを横切り、内堀通りにぶつかる少し手前右手に伝説の首塚「平将門塚」がある。
「平将門塚」
平将門は下総や常陸(千葉県・茨城県)で兵を起こし、天慶2年(939)には坂東(関東地方)に新政権をうち立て「新皇」を名乗った人物。この事件は「平将門の乱」(「承平天慶の乱」)と呼ばれ、翌年には藤原秀郷率いる討伐軍によって鎮圧されている。
伝承では、下総で討死した平将門の首が京でさらされ、その首を所縁の人々がもらい受け、当時の武蔵の国豊島郡平川村(皇居平河門あたり)の観音堂かたわらに埋葬したとも、怨念で京から首がこの地に飛んできたものを祀ったともいわれている。
13世紀になって首塚は荒廃し、将門の亡霊は大いに怒って江戸の民に祟り、また改めて手厚く供養したという伝説がある。
第二次大戦後、GHQが整地しようとブルトーザーを動かしたところ事故が発生、これで「将門のたたり」は真実味を増し、塚が保存されるようになった。
なお、この地は、江戸時代寛文年間、酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、山本周五郎の歴史小説「樅の木は残った」の原田甲斐の刃傷事件の舞台となったところである。
平将門塚から内堀通りに出て左折、大手門交差点から大手門をくぐり皇居東御苑へ入る。
「大手門」
旧江戸城の正門で、大名はここから登城していた。大手門の高麗門をくぐって中に入ると、枡形と呼ばれる四角く囲まれた広場になっている。
この枡形は、敵が城内にまっすぐに侵入するのを防ぐとともに、攻撃の際には兵の集合場所にもなる施設で、周囲の白壁には「狭間」という銃を撃つための穴がある。江戸城の城門の多くは、この形式であった。
慶長11年(1606)藤堂高虎の設計といわれ、寛永6年(1629)の工事のときには酒井忠世が分担し、左右の石垣は伊達政宗が築造したという。
「皇居東御苑」
皇居東御苑は、旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部を宮殿の造営にあわせて皇居附属庭園として整備されたもので,昭和43年(1968)から公開されている。
苑内は緑豊かな雑木林に日本庭園や皇室関連の施設、江戸城の遺構など歴史的な史跡も見ることができる。
・三の丸尚蔵館…宮内庁所管の美術品、絵画など貴重な品々を展示している。
・同心番所…同心が江戸城へ登城する大名の供を監視した。以前はこの番所の前に橋があり、御三家を除くすべての大名・役人はここで乗り物から降りて徒歩で本丸へ登った。
・百人番所…本丸・二の丸へ続く大手三之門を警護していた門。鉄砲百人組と呼ばれる甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の同心100人が昼夜交代で警護に当たった。
・大番所…本丸へと通じる中之門警備のための詰所で、最後の番所であり、位の高い与力・同心によって警護されていたとされる。
・松の廊下跡…元禄14年(1701)に浅野内匠守が吉良上野介に斬りつけた、「忠臣蔵」の発端となった事件で知られる。松の廊下の名は、廊下に臨む襖絵が松だったから。
・天守台(江戸城天守跡)…本丸の北端に位置している。最初の天守は1607年に完成し、このときの天守台は少し南にあった。3代将軍家光が大改修を行い、最終的な完成をみたのは1638年。このとき、現在の天守台ができた。天守は、外観5層、内部6階建てで、天守台を含めた高さが58mであり、天気が良ければ房総半島からでも見ることができたという。しかし、明暦の大火で焼失してしまい、再建策もあったが、家光の弟である保科正之(会津松平家藩主)の反対により再建は延期され、それ以後天守は建設されなかった。
皇居東御苑内を散策し大手門に戻り、内堀通りを桔梗濠に沿って歩き、江戸城に唯一残る隅櫓「辰巳櫓」を眺めながら皇居前広場(皇居外苑)へと歩く。
「辰巳櫓」
江戸城大手門の南側、内堀(桔梗濠)に臨んで建つ二層の櫓が辰巳櫓(巽櫓)だ。本丸から見て辰巳(東南)の方角にあるのでこの名がある。
江戸城には本丸の辰巳櫓と二の丸の辰巳櫓とがあり、区別するためこの櫓は「桜田二重櫓」とも呼ばれた。江戸城にはこうした櫓が32棟あったというが、現存するのは3棟(辰巳櫓、富士見櫓、伏見櫓)だけである。
この辰巳櫓のように、石垣や濠のコーナー部分に建てられた櫓を隅櫓といい、江戸城ではすべての角部分に隅櫓があったが、現在はこの辰巳櫓のほかには隅櫓は存在しない。
皇居前広場(皇居外苑)の正面に、江戸城と皇居の代表的見どころである「二重橋」が見える。
「二重橋」
皇居前広場から正門を経て宮殿へ至る濠に二つの橋が架かっており、手前の橋が「正門石橋」、奥の橋が「正門鉄橋」。
「二重橋」は一般にこの二つの橋を総称して言われているが、厳密には奥の橋を指す。 奥の橋はかつて、「下乗橋」と言われ、橋桁を支えるため、中途に台があって二重構造となっていたことからこの名がついた。現在の橋は、昭和39年6月に架け替えられたものである。
これらの橋は、通常は使用されず、新年の一般参賀や外国賓客の皇居訪問等宮中の公式行事の際に利用される。(二重橋の奥に見えるのが伏見櫓) |