「南町奉行所跡」
江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつで、その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員2名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していた。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務していた。
南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にあった。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年(2005)の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見された。また、「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土している。
南町奉行所跡から東京交通会館の前を通り、銀座柳通りを右折、外堀通りを越え並木通りを左に折れ、首都高速の下をくぐり右に折れ中央通り(銀座通り)に出る手前に、「京橋大根河岸青物市場跡」と「江戸歌舞伎発祥之地」の碑がある。
「京橋大根河岸青物市場跡」
寛文4年(1664年)に水運のよい京橋川に大根を中心とした野菜の荷揚げ市場が設けられ、江戸八百八町の住民たちに新鮮な野菜を提供していた。別名「大根河岸」とも呼ばれ、明治、大正と続き、関東大震災(大正12年9月1日)の前まで続いていたが、関東大震災以後、区画整理や都市再編成で大根市場は野菜市場となって、神田、築地へと移り今日に至っている。昔を偲んで、京橋大根河岸青物市場跡の記念碑が建てられている。
「江戸歌舞伎発祥之地」
江戸三座と呼ばれる歌舞伎芝居のうち、最古の伝統と最高の格式をもつと言われる中村座が寛永元年(1624)に中橋(現在の日本橋と京橋の中間にあった)の南で興行をはじめた。これが江戸歌舞伎の最初とされる。中村座の開祖は猿若勘三郎といい、京都の大蔵流の狂言役者から歌舞伎に転じた。 当時、この中村座の後に、市村座、森田座、山村座と続き、この四座が官許の芝居小屋だった。役者の氏神といわれた市川団十郎をはじめ、尾上菊五郎などの役者が絶大な人気を得、江戸歌舞伎は大衆文化の頂点に立ったのである。
中央通り(銀座通り)のかつて京橋が架かって所には、親柱だけが3基残されている。また、その隣に、煉瓦銀座之碑が立っている。
「京橋親柱」
京橋は日本橋と同年の慶長8年(1903)に架橋されたといわれている。明治8年(1875)、江戸時代の木造の橋より、石造単アーチ橋へと架け替えられ、明治34年(1901)には鉄橋となった。昭和38年から40年にかけての京橋川の埋め立てに伴って撤去され、現在中央通りの歩道に石造親柱が3基残されている。(明治8年(1875)当時の石造の橋のものと大正11年(1922年)にかけられた橋のもので、石及びコンクリート造で、照明設備を備えたもの。)
「煉瓦銀座之碑」
明治5年(1872)の大火の後、街の不燃化が計画されて銀座煉瓦街が建設され、以後この煉瓦街と街路樹の柳は銀座の名物となった。煉瓦街も柳も街の発展とともに姿を消したが、その後煉瓦が発掘されたのを契機に昭和31年(1956)当時のままの「フランス積み」という方式で再現し、そこに煉瓦の碑が建てられた。
中央通り(銀座通り)を四丁目方面に歩き、銀座一丁目交差点を過ぎた左手、ティファニー銀座ビル前の歩道に「銀座発祥の地」碑がある。
「銀座発祥の地」
江戸時代の銀座とは貨幣の鋳造所のことで、慶長6年(1601年)に伏見に創設されたのが始まり。この場所に銀座が設けられたのは、江戸時代初期の慶長17年(1612)。現在の京橋から新橋付近に至る広い一帯が新両替町と呼ばれ、銀貨鋳造のほか、銀の取引や両替が活発に行われていた。
銀座発祥の地の石碑が建つこの場所は、銀座の業務を管掌していた「銀座役所」があった場所である。役所は寛政12年(1800年)に蛎殻町に移転したが、銀座は地名として残ることになった。
「銀座通り」の名は、明治5年(1872)の大火の後、その復興を兼ねて洋風のレンガ敷きの道が生まれ、その折に正式に決定されたのである。
中央通り(銀座通り)をそのまま歩き、四丁目の交差点を右折し、外堀通りを越えた左手に数寄屋橋公園がある。かつては外堀にかかる数寄屋橋があったところで、埋め立てられて公園となった。公園内には「数寄屋橋此処にありき」と書かれた数寄屋橋の碑や、岡本太郎の作品の太陽の塔のような「若い時計台」というオブジェが置かれている。
「数寄屋橋跡」
数寄屋橋は、寛永6年(1629)江戸城外濠に架けられた橋で、幅四間長三間の木橋であった。大正大震災大正12年(1923)の関東大震災後の復興計画によって近代的美観を誇る石橋となったが、昭和33年(1923)、外堀が東京高速道路の建設により埋め立てられ、取り壊された。橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという。
昭和27年(1952)に放送されたラジオ番組・菊田一夫作「君の名は」の主人公・春樹と真知子の待ち合わせ場所となった数寄屋橋は、銭湯の女湯から人が消えるという伝説とともに全国的に有名になった。
数寄屋橋公園の隣には、明治11年開校の歴史を誇り、東京都歴史建造物に指定されている泰明小学校がある。
「泰明小学校」
明治11年(1878)創立、東京府立泰明小学校として赤レンガ校舎が建てられた。関東大震災によって焼失した木造校舎に代わり、昭和4年(1929)に鉄筋コンクリート造3階建校舎として再建、ツタの絡まる校舎の外壁や、連なる3階の半円形の窓、円形に張り出した講堂、緑を伴うアーチ型の開口を有する塀、“フランス門”と呼ばれる瀟洒なデザインの門扉などの特徴を有し、銀座の街並みに相応しい趣のある建物として愛されている。
卒業生には小説家の島崎藤村や評論家で詩人の北村透谷等がいる。校門近くの道路沿いに「島崎藤村・北村透谷幼き日ここに学ぶ」と記した記念碑が銀座の柳二世と並んで立っている。
奏泰明小学校の前を通り、JRのガードをくぐり、日比谷通りに出て左折、帝国ホテルの隣のNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)が建っている一帯が、明治の初め、外国人接客所の鹿鳴館があったところだ。NBF日比谷ビルに向かって左の壁に「鹿鳴館跡」のプレートがある。
「鹿鳴館跡」
鹿鳴館は明治16年(1883)、幕末に交わされた不平等条約改正の一助にするべく、井上馨外務卿(内閣制度以降は外務大臣)中心となって、国賓や外国の外交官を接待するための社交場として建てられた施設で、レンガ造り2階建ての西洋館だった。
その後明治27年(1894)に華族会館として払い下げられ、昭和15年(1940)に取壊された。
日比谷通りの向かいにある日比谷公園に入り、大噴水の前を通って園内にあるレストラン松本楼で昼食、ハイカラビーフカレーを頂く。
「日比谷公園」
幕末までは松平肥前守などの屋敷地だったが、明治時代に陸軍練兵場となり、その後「都市の公園」として計画、設計、造成され、日本初の「洋風近代式公園」として誕生した。公園面積は161,636.66平方メートル。
園内の主要な施設として、市政会館および日比谷公会堂、大小の野外音楽堂、日比谷図書文化館(旧・東京都立日比谷図書館)、「緑と水の市民カレッジ」、日比谷グリーンサロン、フェリーチェガーデン日比谷(旧公園資料館)、テニスコート、松本楼(レストラン)などがある。また園内には大小の花壇があり、四季折々の花と緑が都市生活者の目を楽しませてくれている。
「松本楼」
明治36年、日本ではじめての洋式公園として誕生した日比谷公園と時を同じくしてオープンした日比谷松本楼は、当時流行していたマンサード屋根の3階建て。おしゃれな店として評判を呼び、ハイカラ好きなモボやモガのあいだでは「松本楼でカレーを食べてコーヒーを飲む」ことが大流行した。
昭和46年秋、沖縄デーの大混乱の中、放火により松本楼は炎上焼失した。全国からのあたたかい励ましにより、昭和48年9月25日に、新装再オープンした。そのときの感謝の心をこめた、記念行事としてはじまったのが「10円カレーチャリティーセール」である。通常は880円(2016年現在)のハイカラビーフカレーが、昭和48年(1973)以来毎年9月25日に限り、先着1500名に限り10円で振る舞われる。
園内を散策後、野外大音楽堂がある西幸門を出て、西新橋一丁目交差点を外堀通りを右折、その先、虎ノ門交差点付近が「虎ノ御門跡」だ。
「虎ノ御門跡」
虎ノ門は肥前国佐賀藩主の鍋島勝茂が築いたもので、枡形そのものは江戸城普請の慶長11年(1606)に完成した。外桜田門(江戸六口)から東海道に通じる門で、四神相応の西を守護する白虎から虎ノ御門と呼ばれる。虎ノ門枡形の櫓門は、明和9年(1772)の行人坂の大火で焼失後は廃している。
今では、虎ノ門駅の8番口付近、外堀通りに虎の像が乗っている「虎ノ門遺趾」碑が設置されているだけである。
虎ノ門交差点から桜田通りを南に少し行った右手に金刀比羅宮がある。
「金刀比羅宮」
万治3年(1660)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝7年(1679)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座した。以来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可したのである。
当時は“金毘羅大権現”と称されていたが、明治2年(1869)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治22年(1889)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至っている。
境内の銅鳥居は、文政4年(1821)に奉納された明神型鳥居で、左右の柱上部には四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)の彫刻が施されている大変珍しいものである。
金刀比羅宮から桜田通りをさらに南へ歩き、虎の門二丁目交差点を過ぎたすぐ先を右に折れ、その突き当りの左手一帯が仙石伯耆守屋敷跡で、現在は、日本消防会館(ニッショーホール)が建っている。
「仙石伯耆守屋敷跡」
赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件が起きた元禄15年(1702)当時、幕府大目付だった仙石伯耆守久尚の屋敷があった。主君の仇を討ち、本所から泉岳寺に向かう途中、大石内蔵助の命により、吉田忠左衛門と富森助右衛門の両名がこの仙石屋敷に出頭し、討ち入りの件を報告した。
他の浪士は、浅野内匠頭の墓前に報告を済ませたのち、ここへ自首してきたのである。
この時邸内には、浪士たちが足を洗ったという「義士洗足の池」があったとされているが 現在では日本消防会館ビルの入り口の脇に、四十七士を現代風にモチーフした彫刻を配した「義士洗足の井戸」を模した大型の水盤があり、その脇に説明のプレートがあるのみである。
再び桜田通りに戻り、右に歩き、虎の門三丁目交差点を過ぎた少し先を左に折れ突き当たった左手に、杉田玄白の菩提寺である栄閑院がある。
「栄閑院」
栄閑院は、寛永年間(1624〜1643年)に、久蓮社俊誉園應和尚により天徳寺の塔頭として創建された。
江戸時代、この寺に猿回しの泥棒が逃げ込んで住職に説教されて改心し、諸国行脚の巡礼に出た後、寺で預かった猿が芸を見せるようになって「猿寺」とも呼ばれた。境内には寺門を入った右手にその言い伝えにちなんだ猿塚があり、本堂前には猿の像がある。
また、向かって本堂の右脇には蘭学者杉田玄白の墓がある。杉田玄白は前野良沢らと『解体新書』を翻訳し,『蘭学事始』を著し,蘭学の祖としてよく知られる江戸時代中期のオランダ外科医。墓は明治41年(1908年)に再建されたもので,「九幸杉田先生之墓」と記されており、東京都の史跡に指定されている。
栄閑院の前の道を左に歩き突き当りを左折、愛宕山のトンネルをくぐり、愛宕神社前交差点を左に折れた左手に、愛宕神社がある。本殿までは86段ある急な石段を上らなければならない。(ちなみに、愛宕トンネルを出たところに、愛宕神社の隣にあるNHK放送博物館へのエレベーターがあるので、こちらで行けば石段を上らなくて済む)
「愛宕神社」
慶長8年(1603)、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られ、慶長15年(1610)、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立された。
その後江戸大火災で全焼したが、明治10年(1877)に本殿、幣殿拝殿、社務所が再建されたが、関東大震災と東京大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失。昭和33年(1958)氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至っている。
愛宕神社は、標高26メートルの愛宕山の山頂にある。愛宕山は23区内で自然の地形としては一番高い山である。
愛宕神社に上がる急な石段(86段)は「出世の石段」と呼ばれている。その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎の故事にちなんでいる。
寛永11年(1634)、三代将軍家光公が芝の増上寺に参詣の帰りに、愛宕神社の下を通った。この時、愛宕山には源平の梅が満開。家光公はその梅を目にし、
「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命じたのである。
この時現れ出た曲垣平九郎が見事、馬にて石段を上り降りし、山上の梅を手折り、家光公に梅を献上した。
平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられている。
愛宕神社をお参りした後、隣にあるNHK放送博物館を見学する。
「NHK放送博物館」
大正14年(1925)年3月22日朝9時30分、東京芝浦の東京放送局仮放送所から、日本のラジオ第一声が流れ、そして7月、愛宕山で本放送が始まった。
それから、昭和13年(1938)12月に日比谷内幸町に建設されたNHK東京放送会館が運用されるまで愛宕山から放送が行われていた。
NHK放送博物館は、昭和31年(1956)に、世界最初の放送専門のミュージアムとして、ここ“放送のふるさと”愛宕山に開館した。
放送博物館では、こうした放送の歴史に関するさまざまな実物展示をはじめ、だれもが自由に利用できる「番組公開ライブラリー」や「図書・資料ライブラリー」なども公開している。
放送博物館を見学後、愛宕山からはエレベーターで下り、東京慈恵会医大の脇を通り、日比谷通りを通り、JR新橋駅西側ニュー新橋ビルの裏手にある烏森神社へ。
「烏森神社」
天慶3年(940)平将門が乱を起こした時、鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ白狐がやってきて白羽の矢を与えた。その矢を持ってすみやかに乱を治めることができたので、秀郷が一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐あらわれて、神烏の群がるところが霊地だと告げたので、この地に祀られたという。
江戸時代になって、明暦の大火(振袖火事)で多くの家屋敷が焼失したが、類焼をまぬがれたため、屋敷神として尊崇され、明治6年(1873)日比谷稲荷神社との混同を避けるため、烏森稲荷社の社名を烏森神社と改めた。
「烏森」の名は、昔、この地が江戸湾の砂浜で、砂浜の松林に、烏が多く集まって巣が多かったからとか。
境内にある「きやり塚」は、め組一番組の奉納物とされ、「明暦の大火」を凌いだ火伏せの信仰があるとも云われている。 |