山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.13


第13回 新橋駅〜鉄道唱歌の碑〜旧新橋停車場〜銀座柳の碑・新橋跡〜金春屋敷跡〜銀座煉瓦街記念碑
      〜交詢社ビル〜石川啄木記念碑〜狩野画塾跡〜築地本願寺〜芥川龍之介生誕の地・浅野内匠頭
      邸跡〜慶応義塾開塾の地〜カトリック築地教会〜アメリカ公使館跡〜シーボルトの胸像(あかつき
      公園)〜かちどきの渡し跡〜波除稲荷神社〜浜離宮恩賜庭園〜旧芝離宮恩賜庭園〜浜松町駅

                                                      H28年9月29日

 10:00、新橋駅汐留口に5名が集合、地上に上がり。ゆりかもめへ乗り換える連絡階段へ向かう左手に、鉄道唱歌の碑がある。


「鉄道唱歌の碑」
 蒸気機関車(D51)の動輪がモニュメント風に置かれ、その隣に2台の客車を引いた蒸気機関車の模型が乗った石碑で、昭和32年、我が国の鉄道開通85周年と、作詞者の大和田健樹の生誕100年を記念して建てられたものである。
 「汽笛一声新橋を〜」で始まる鉄道唱歌は、明治33年(1900)に最初に発表され、この時は東海道線を新橋から神戸まで66番にわたって歌った。その後、他の路線のも及び、「山陽・九州」(68番)、「奥州・磐城」(64番)、「北陸」(72番)、「関西・参宮・南海」(64番)と続いた。

 鉄道唱歌の碑の前から昭和通りに出て右に折れ、蓬莱橋交差点の手前右手に、旧新橋停車場が建っている。

「旧新橋停車場」
 明治5年9月12日(1872年10月14日)に日本最初の鉄道路線(新橋〜横浜)の起点として開業した新橋駅(初代)がこの駅の始まりである。
 大正3年(1914)12月20日に旅客ターミナル駅の機能が新設の東京駅に移り、旅客営業が廃止された。駅構内が広大だった為、貨物駅として再使用されることになり、汐留駅と改称し、同時に、電車線の駅であった烏森駅が、新橋駅(2代目)と改称している。
 現在、旧新橋停車場跡地には、開業当時の駅舎を再現した「旧新橋停車場」が建てられ、内部は鉄道の歴史に関する「鉄道歴史展示室」になっている。
 外には,駅舎に続く石積みのプラットフォームが再現され,レールも敷設された。レールの起点には鉄道発祥の証である「0哩(ゼロマイル)標識」と車止めも復元されている。

 昭和通りを戻り、中央通利を右折し、銀座八丁目交差点のところに「銀座柳の碑」があり、その隣が新橋跡である。

「銀座柳の碑」
 明治の初期には、汐留川に架かる新橋(芝口橋)があった所に楓、松、桜、などが植えられたが、レンガ舗装にあわなかったらしく枯れてしまった。
 昭和初期、関東大震災(1923年)復興事業の一環として、銀座”柳”が植えられた。信州安曇野から運ばれた若木は、生長し銀座の街並みに美しく映え、歌にも歌われる程愛着をもたれるようになった。
 しかし、戦災や近年の道路整備などで枯れてしまい、現在の柳並木は3代目のものが植えられている。
 街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となった。その柳を歌った西条八十作詞、中山晋平作曲「銀座の柳」の歌は全国を風靡した。これを記念して昭和29年4月1日、銀座通聯合会がこの銀座柳の碑を建立した。
 ♪植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残のうすみどり  吹けよ春風紅傘日傘 けふもくるくる人通り♪
 昭和7年(1932)、四家文子が歌って大ヒットしたそうである。

「新橋跡」
 新橋は江戸時代初め、汐留川に架けられた橋。宝永7年(1710)、江戸城外郭の芝口御門がこの地に設けられてからは芝口橋と呼ばれたこともあった。昭和39年(1964)、汐留川の埋め立てによって橋は撤去され、現在は中央通り沿いにかつての橋の親柱が残るのみとなっている。

 銀座八丁目交差点から土橋方面に少し行った右手に博品館ビルがあり、その裏手の細い道が金春通りだ。ここには金春屋敷があって、それが通りの名になっている。「金春」とは、室町時代から続く能の流派である。

「金春屋敷跡」
 江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の四家があった。能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受け大いに興隆し、とくに、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召しかかえられた。
 江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めた。
 金春家は、寛永4年(1627)に銀座に屋敷を拝領したといわれる。後に、この屋敷は麹町善国寺寺谷(千代田区麹町3・4丁目)に移ったが、跡地には芸者が集り花街として発展していき「金春芸者」といわれるようになった。金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などとして、今もこの地に残っている。

 金春通りを少し入った左手に「銀座煉瓦街記念碑」がある。

「銀座煉瓦街記念碑」
 銀座は日本に2箇所しか建設されなかったきわめて貴重な煉瓦街の一つで、もう一つは丸の内の煉瓦街である。
 設計者はイギリス人のトーマス・ジェイムス・ウォートルス。フランス積みで、明治5年(1872)から10年にかけて当時の国家予算の4%弱を費やし、延べ1万メートル余もあったといわれている。
 この煉瓦は銀座8丁目8番地(旧金春屋敷地内)で発掘されたものでゆかりの金春通りに記念碑として保存される事になった。
 下の絵は、明治初期のガス灯や張り板、提灯など当時の金春通り煉瓦街を偲ばせる古い写真を元に銅板に彫金したものである。

 金春通りを進み、花椿通りを越えた先右手、細い路地を入ったところに豐岩稲荷神社がある。

「豐岩稲荷神社」
 豐岩稲荷神社は、明智光秀の家臣安田作兵衛の奉斎によりはじまるといい、徳川時代より縁結び・火防の神として信仰され、なかにも歌舞伎役者市村羽左衛門からの崇敬が篤かったという。
 近年は、銀座の水商売の女性たちの信仰を集めたためか、もとからある縁結びのご利益がより注目を集め、今や、銀座NO.1パワースポットの呼び声が高い神社となっている。
 
 金春通りを進み、交詢社通りとの交差点の角が交詢社ビルである。

「交詢社ビル」
 交詢社は、明治13年(1880)に福澤諭吉が設立した日本最初の紳士の社交クラブで、福沢が外遊した際に見たイギリスの社交クラブを参考にしたという。社名は「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来する。慶應義塾の出身者だけでなく学閥、職業などにこだわらず広く門戸を開放した。
 大正元年に財団法人化され、のち法人制度改革により一般財団法人に改組した。「日本紳士録」などを発行していた。
 銀座6丁目にクラブの本拠として交詢ビルディングを所有しており、「交詢社通り」という地名にもなっている。関東大震災で被災した後、昭和4年(1929)に建てられた歴史的建造物であったが、2004年に建て替えられた。
 新しいビルは地上10階で、バーニーズ・ニューヨークなどがテナントに入っている。ファサード保存によって以前の建築の一部が保存されている。

 交詢社の前をとおり、並木通りを右に折れ少し行った左手に「石川啄木記念碑」がある。

「石川啄木記念碑」
 石川啄木は、かつてこの地にあった東京朝日新聞社に夏目漱石主宰の文芸欄の校正係として、明治42年(1909)から明治45年(1912)まで勤めていた。
 記念碑は樹幹の形をしたブロンズ製で、昭和48年(1973)に啄木没後60年を記念して建てられたもの。啄木像のレリーフと『一握の砂』に収められている「京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」が刻まれている。

 並木通りからみゆき通りを右折れ、暫らく進み、昭和通りを左折、三原橋交差点の角に「狩野画塾跡」の看板が立っている。

「狩野画塾跡」
 江戸幕府に仕えた奥絵師、狩野四家のひとつである木挽町狩野家の画塾跡。木挽町狩野家の祖、狩野尚信狩野探幽(守信)の弟で、寛永7年(1630)幕府奥絵師となり竹川町(現、銀座7丁目辺り)に屋敷を拝領した。のち、安永6年(1777)六代典信(栄川)の時に、老中田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角に当たるこの地に移って、画塾を開いた。
 この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出したが、明治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖橋本雅邦はともに、木挽町狩野最後の雅信(勝川)の門下生である。

 歌舞伎座の前の晴海通りを歩き、築地四丁目交差点を左に折れると右手が古代インド様式の大伽藍のある築地本願寺だ。

「歌舞伎座」
 歌舞伎座は1889年(明治22年)に開場した。 従来の劇場は地名や座元の名を冠するのが例であり(新富座中村座など)、「歌舞伎座」という名称は異例であった。その後4度の改築を経て現在で第5期となる。100年以上歌舞伎を上演し続けており、数々の名優が舞台に立った名実ともに代表的な歌舞伎劇場である。
 第5期歌舞伎座の外観は低層で和風桃山様式を採用。4階建てで、座席数は1808席で、改築後、座席の幅が広くなり、バリアフリーの劇場となった。「歌舞伎座タワー」(高さ145メートル、軒高135メートル。地下4階地上29階建て)が併設されたほか、5階には「歌舞伎座ギャラリー」も開設された。歌舞伎座は、平成14年に国の登録有形文化財に指定されている。

「築地本願寺」
 築地本願寺は江戸時代の元和3年(1617)に、西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現在の日本橋横山町、東日本橋)に建立。「江戸海岸御坊」「浜町御坊」と呼ばれていた。しかし明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失。
 その後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。そこで佃島(現中央区佃)の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が地名築地の由来)、延宝7年(1679)に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになった。
 現在の本堂は昭和9年(1934)の竣工。古代インド様式をモチーフとしたこの建物は、当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太による設計である。
 敷地内には、赤穂浪士の間新六の供養塔、佃島開発の功労者である森孫右衛門の墓、画家・俳人である酒井抱一の墓などがある。

 築地本願寺の参拝を済ませ、新大橋通りから築地本願寺前交差点を右に折れ本願寺に沿って歩き、築地川公園の中を通り、右手の聖路加国際大学の角に、「芥川龍之介生誕の地」の説明板と「浅野内匠頭邸跡」の碑がある。

「芥川龍之介生誕の地」
 明治16年(1883)ごろ、この付近(当時の京橋区入舟町8丁目1)に「耕牧舎」という乳牛の牧場があった。作家芥川龍之介(1892〜1927)は、明治25年3月1日、その経営者新原敏三の長男として、ここに生まれた。辰年辰月辰日に誕生したので、龍之介と名付けられたという。
 龍之介は誕生後7ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町(現、墨田区両国3町目)に移り、12歳の時、芥川家の養子になった。
 東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り、『地獄変』、『羅生門』、『河童』、『或阿呆の一生』など、多くの名作を遺したが、昭和2年7月24日、35歳で自害している。

「浅野内匠頭邸跡」
 常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610〜72)は、正保2年(1645)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、5万3千百石を領して内匠頭と称した。子の長友の代に分与して5万石となる。
 ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8900余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南2面は築地川に面していた。
 忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(1665〜1701)は、長友の子で、元禄14年(1701)、勅使の接待役に推されたが、3月14日、その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられた。この江戸屋敷および領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶した。

 聖路加国際大学に沿って歩き、大学前ロータリーのところに、「蘭学事始地」の碑と「慶応義塾開塾の地」の碑とが並んでいる。

「蘭学事始地」
 ここは豊前中津藩奥平家の中屋敷で、豊前中津藩の医師 前野良沢、若狭小浜藩の医師 杉田玄白中川淳庵、幕府漢方医 桂川甫周も加わり、この屋敷内で4年かけてオランダの「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、安永3年(1774)「解体新書」を完成。西洋医学が日本中に知れ渡ることになり、この地は近代医学発祥の基礎を築いた場所といえる。
 「蘭学事始地」の碑は、赤と黒の御影石の厚板を屏風に見立てた立派な記念碑で、右の赤石には、女性の人体図と解体新書の文字、左の黒石には「蘭学の泉はここに」との説明文が彫られている。

「慶応義塾開塾の地」
 慶應義塾の創始者福沢諭吉も同じ中津藩邸内で安政5年(1858)に慶応義塾の前身である蘭学塾を開いた。
 この場所に外人居留地が造られることになり、慶応4年(1868年)やむなく芝新銭座に移転。元号にちなんで「慶応義塾」と改称されたそうである。3年後には現在地の三田に移っている。
 碑の台座の上の本には「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」の有名な言葉が書かれている。

 慶応義塾開塾の地のそばは、ジュリア・カロゾロスがA六番女学院を創立した跡地で、「女子学院発祥の地」の碑がおかれている。都内で初めて西洋式の女子教育が行われたのが、A六番女学院だった。
 大学前ロータリーのところから、聖路加国際大学聖路加国際病院の間の道を行き、明石小学校前交差点の先右手に「カトリック築地教会」がある。

「カトリック築地教会」
 カトリック築地教会は、明治4年(1872)にパリ外国宣教会のマラン神父が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて開いた「稲荷橋教会」がその前身とされる。明治7年(1874)、神父は宣教会の名義で築地居留地35・36番を借り受け、ここに司祭館と聖堂を建てたもので、東京で最古のカトリック教会。
 明治11年(1878)には、ここにゴシック様式の聖堂が献堂されるが、この聖堂は関東大震災で焼失し、現在の聖堂が昭和2年(1927)に再建された。教会としては珍しいギリシア神殿パルテノン形式が採用されている。聖堂は石造りに見えるが、実は木造建築で、壁面をモルタル塗りとしている。
 また、旧聖堂で使用された鐘は、明治9年(1876)にフランスのレンヌで製作され、当時の司祭であるルマレシャル神父から「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたもので、現在も協会に保管されている。

 カトリック築地教会前の歩道には「暁星学園発祥の地」の碑がある。明石小学校前交差点まで戻り左に折れ、聖路加国際病院に沿い右に折れて行くと左手銀座クレストンホテルの角のところに「アメリカ公使館跡」の説明板がある。

「アメリカ公使館跡」
 開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリスは、安政6年(1859)に現在の港区元麻布1-6の善福寺に公使館を開設した。ついで、明治8年(1875)12月、築地居留地内のこの地に公館を新築し、はじめて形容を整えた。
 後にこれが手狭となり、同23年3月、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転した。
 この公使館跡には、五個の小松石の記念碑が残っている。大きさは、縦86〜101p、横84〜118p、厚さ18〜34p、うち、2個には当時のアメリカの国章である盾、1個には星と鷲と盾、2個には五陵の星が刻まれている。現在3個は聖路加国際病院トイスラー記念館の前に、2個は聖路加ガーデン内に移されている。
 この記念碑は、築地の居留地時代を伝える貴重な遺品として、中央区民有形文化財に登録されている。

 聖路加国際病院の南側に隣接する「あかつき公園」にはシーボルトの胸像がある。

「シーボルトの胸像」
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政6年(1823)7月、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。
 同9年正月、商館長と共に江戸へ向かい、3月4日、日本橋の長崎屋に止宿し、4月12日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし、同11年シーボルト事件が発生し、12月に日本から追放された。後に安政6年(1859)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。
 彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。

 あかつき公園をでて、晴海通りに向かって暫らく歩くと勝鬨橋の袂に出る。勝鬨橋の袂右手には「かちどきのわたし」の碑と「かちどき橋の資料館」がある。

「かちどきのわたし」
 明治25年(1892)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態となり、明治38年(1905)、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付した。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑。石碑の正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治38年1月京橋區祝捷會挙行之日建之 京橋區同志會」と陰刻されている。
 設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約150m西の波除稲荷神社の辺りにあった。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通9丁目(現在の勝どき1・3町目の境)の辺りにあって、この間を渡船が運航していた。
 勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用され、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となった。
 大正12年(1923)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになった。渡しは橋の架橋まで運航され、昭和15年1940)6月、勝鬨橋の開通とともに廃止された。勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残してる。

「勝鬨橋」
 隅田川の最下流に架かる全長246m、橋幅22メートルの橋で、昭和15年(1940)に完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得た。当初から路面電車用のレールが敷設されており、1947年から1968年まで橋上を都電が通行していた。
 明治38年(1905)1月、日露戦争での旅順陥落祝勝記念として、有志たちが築地と月島を結ぶ渡し船の「勝鬨の渡し」を設置。これに由来して「勝鬨橋」と命名された。
 中央部分が開閉する跳開橋だが、舟の交通量の減少と、橋上の交通量の増加などから1970年11月以降は”開かずの橋”となっている。
 橋の両端がアーチ橋になっており、70秒で全開となり、開けると最大70度の角度になる。日本では未だ現存している希少な可動橋である。再び跳開して欲しい、跳開したところが見たいという声があるが、機械を復旧させるには莫大な費用(約10億円)がかかることや橋の上の交通量もあることから、実現の目途は立っていない。

「かちどき橋の資料館」
 橋の開閉に利用していた旧変電所を改修した資料館で、東洋一の跳開橋として知られていた勝鬨橋について、関連情報や設けられた頃の跳開された写真など貴重な資料が展示公開されている資料館である。また、関東大震災から復興した橋梁の工事写真や設計図面、関連資料も閲覧ができるようになっている。
 勝鬨橋のほか、隅田川に架かる橋についても知ることができる。
 また、資料館の前には「海軍経理学校の碑」が建っている。

 晴海通りを築地六丁目交差点で左折し少し歩くと左手に、築地の漁師さんたちの神様「波除稲荷神社」がある。

「波除稲荷神社」
 明暦の大火後、築地の埋め立て工事が行われたが、荒波の影響で工事は難航した。その最中のある晩、光を放ち漂う御神体が見つかり、万治2年(1659年)、現在地に社殿を建て祀った。その後、波が収まり工事が順調に進んだことから、以降厄除けの神様として信仰を集めることとなった。
 神社最大の見どころは、日本最大の獅子頭。雄雌の2体があり、「天井大獅子」と呼ばれる雄は、高さ2.4メートル、幅3.3メートル、重さは1トンほどとか。樹齢約三千年の大木を使い、仕上げられたものだそうである。
 神社の禰宜さんの話によると、「昔、この地域の人々は、個人や講で、雄雌対の獅子頭を持っていました。荒波を起こす風と雲を司るのは、虎と龍。海に面した場所だっただけに、虎と龍を一声で威伏させる存在・獅子を祀っていたんです。現在でも、海洋工事など海の仕事に携わる方々が、全国から参拝にいらっしゃいますよ」とのこと。
 また、境内には、牛丼で知られる吉野家が奉納した「吉野家」と彫られた石碑がある。ここ築地の地に、牛丼の吉野家の創業店があったのだという。

 波除稲荷神社の前の通りを進むと正面が、移転問題で話題となっている築地市場だ。

「築地市場」
 築地市場は、都内に11ある東京都中央卸売市場のうち最も古い歴史を持つ、水産物、青果物を取り扱う総合市場である。
 その供給圏は、都内だけでなく関東近県に及んでいるす。特に水産物については世界最大級の取扱規模であり、我が国の建値市場としての役割を果たしている。
 築地市場は、日本橋にあった魚市場と京橋にあった青物市場が移転し、昭和10年(1935)に開場した。その後、戦後の復興、昭和30年代から昭和50年代にかけて施設の整備拡充を図った。
 昭和60年代に入り、施設の老朽化・過密化が著しくなったため、築地市場の再整備事業を推進することとし、仮設施設等を建設したが、工期、建設コスト、基幹市場としての機能維持の視点から見直しを行うことし、「現在地再整備」と「移転整備」を比較検討の結果、平成11年(1999)11月、移転整備へと方向転換することとなった。
 そして、狭隘化が著しく、流通環境の変化に対応できない状況等から、平成13年(2001)12月に策定した第7次東京都卸売市場整備計画において、豊洲地区に移転することが決定された。
 しかし、2016年8月、東京都の小池百合子都知事は、豊洲市場の土壌汚染調査が未済などの理由により移転を延期すると発表し、調査が進められている。
 築地市場の周辺にも買出人を相手とする店舗が多数あり、「場外」と呼ばれる商店街を形成している。これに対して築地市場は「場内」と呼ばれる。場外は場内に比べ一般客や観光客が比較的多い。

 築地市場の中を通り抜け、新大橋通りを汐留方面に歩き、汐先橋交差点の手前左手に「浜離宮恩賜庭園」の入り口がある。

「浜離宮恩賜庭園」
 浜離宮恩賜庭園は、江戸時代に徳川将軍家の別邸として利用され「浜御殿」と呼ばれた南庭と、明治時代以降に造られた北庭とに分けられる。
 11代将軍家斉の時代に現在の姿が完成されたといわれ、明治維新の後は皇室の離宮となり、名称を「浜離宮」と変えた。昭和20年に東京都に下賜され、翌21年4月から「浜離宮恩賜庭園」として一般公開された。
 南庭は、潮入の池と二つの鴨場をもつ、江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので海辺の庭園で通常用いられていた様式である。現在、実際に海水が出入りしているのは、江戸の大名庭園では都内でここだけとなっている。

 今回は、浜離宮恩賜庭園の見学・散策はパスする。庭園に沿い、海岸通りを浜松町方面に暫らく歩き、芝商業高校前交差点を右に折れると左手が「旧芝離宮恩賜庭園」だ。入口は浜松町駅のすぐ手前だ。

「旧芝離宮恩賜庭園」

 小石川後楽園と共に、今に残る江戸初期の大名庭園。典型的な回遊式泉水庭園で池を中心にした地割りと石割は秀逸。ここはもともと海面だったが明暦(1655〜1658)の頃に埋め立てられ、延宝6年(1678)に老中・大久保忠朝の邸地となった。忠朝は上屋敷を建てるに際し、藩地の小田原から庭師を呼び寄せ、庭園を造らせ「楽寿園」と命名した。明治4年(1871)に有栖川宮家のものになったが、同8年(1875)に宮内省がこれを買いあげ、翌9年に芝離宮となった。大正12年(1923)の関東大震災によって、建物と樹木のほとんどが焼失したが、翌13年1月、東京市に下賜され、庭園の復旧、整備を施して同4月に一般に公開された。

 旧芝離宮恩賜庭園に入り園内を散策した後、浜松町駅に出て解散。


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