山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.14


第14回 浜松町駅〜首尾稲荷神社〜芝大神宮〜常照院〜浅岡飯炊きの井戸〜ペリー提督の像・
      万延元年遣米使節記念碑〜増上寺〜芝公園(芝東照宮・芝丸山古墳)〜綱町三井倶楽部〜
      善福寺〜化粧延命地蔵(玉鳳寺)〜御田八幡神社〜西郷隆盛・勝海舟会見の地〜田町駅

                                                      H28年10月25日

 10:00、浜松町駅南口に6名が集合。まず、首尾稲荷神社へ。金杉橋口の前の細い通りを行き、第一京浜の浜松町二丁目交差点を横切り、3本目の路地を右に行くと右手に「首尾稲荷神社」がある。そして、ここは尾崎紅葉生誕の地でもある。

「首尾稲荷神社」・「尾崎紅葉生誕の地」
 首尾稲荷神社は、元禄9年(1696)9月、難病に悩んだ住民のひとり、田村三郎兵衛の夢枕に、稲荷大神が現れ、命を助ける御神威により助命せることから、これを厚く信奉し、稲荷大神を勧請したことに始まるとされる。
 神社の小さな祠の裏に「尾崎紅葉生誕の地」の説明板が設置されている。
 「金色夜叉」、「多情多恨」などの小説で知られる明治の文豪尾崎紅葉は、慶應3年(1867)牙彫師の子としてここで生まれた。本名は徳太郎。日本初の文学団体「硯友社」を結成した。ペンネームの紅葉は、近くの増上寺境内にあった景勝地『紅葉山』に由来する。

 首尾稲荷神社の裏の道を北に進み、増上寺の旧総門である「大門」を左手に見て芝大門交差点を渡ると右手に芝大神宮がある。

「芝大神宮」
 芝大神宮は、平安時代の寛弘2年(1005)創建された、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神として祀っている社である。
 古くは、飯倉神明宮、芝神明宮と称され鎌倉時代においては、源頼朝公より篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はにぎわい、「関東のお伊勢さま」として関東一円の庶民信仰を集めた。

 芝大神宮の裏手の道から港区役所の裏の道へでて、その突き当り角に常照院がある。

「常照院」
 常照院は、天正18年(1590)武蔵国浅茅原の周公が開祖となり創建したといい、もとは芝浦にあつて不断説法所であつた。その後、芝移転とともに増上寺の子院となった。院中のあかん堂に善光寺如来を安置してある。
また、院内には、浄瑠璃「梅雨小袖昔八丈」や大岡政談恋娘昔八丈」、人情噺「髪結新三」の主人公「城木屋お駒」のモデルとなった、白子屋お熊の墓がある。
 お熊は、日本橋材木町の材木問屋「白子屋」の娘とされている。夫を毒殺しようとした罪で処刑されたという。お熊が江戸市中を引き回されたときに着ていたのが「黄八丈」の着物だったことから、江戸の女性たちはこれを着なくなったという。

 港区役所の脇の道から正面に出たところに、歌舞伎「先代萩」の舞台となった「浅岡飯炊きの井戸」跡がある。

「浅岡飯炊きの井戸」
 江戸時代、ここに良源院(増上寺の子院)があり、仙台藩主伊達家の支度所であった。
 万治3年(1660)から寛文11年(1671)にかけて起こった仙台藩の家督相続をめぐるお家騒動、いわゆる伊達騒動(寛文事件)の際、幼い嗣子の亀千代(のちの伊達綱村)を毒殺から守るため、母の浅岡の局が自らこの井戸で水を汲んで調理したと伝えられている。
 歌舞伎の「伽羅先代萩」はこの事件をモデルにしたもので、お家騒動を描いた歌舞伎の代表作である。





 増上寺から日比谷通りをへだてた公園の一角に、「ペリー提督の像」とそれに向き合うように「万延元年遣米使節記念碑」がある。

「ペリー提督の像」
 嘉永6年(1853)と嘉永7年(1854)の2回、米国使節として艦隊を率いて日本へ来航し、開国を迫った東インド艦隊司令長官ペリー(ペルリはオランダ語読み)の像。
  昭和28年(1953)、東京都が日本開国百年記念祭を開催した際、ペリー提督の出身地であるロードアイランド州ニューポート市に石灯籠を贈り、その返礼として贈られたものである。

「万延元年遣米使節記念碑」
 万延元年遣米使節とは、万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准書を交換するために結成された、新見正興を正使とする使節団で、米国軍艦ポーハタン号に乗船して渡航した。往路は勝海舟福沢諭吉らの乗る咸臨丸が同行した。
 ポーハタン号は、安政元年(1854)にペリーが2度目に来航したとき、下田沖で長州藩の吉田松陰金子重輔が乗り込み密航しようとして拒否された船である。

 日比谷通りの増上寺前交差点を渡り、増上寺の境内へ。

「増上寺」
 三縁山広度院増上寺は、浄土宗の七大本山の一つで、明徳4年(1393)、酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建された。
 その後、徳川家康が関東の地を治めるようになって天正18年(1590)、徳川家の菩提寺として定められ、慶長3年(1598)、江戸城の拡張工事に伴い、当地に移転された。
 江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向い、三解脱門経蔵大殿の建立、三大蔵経の寄進などが相次いだ。家康公は元和2年(1616)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿した。
 増上寺には、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の、六人の将軍の墓所が設けられている。
 当時の増上寺には、常時三千人もの修行僧がいたといわれ、寺所有の領地(寺領)は一万余石、25万坪の境内には、坊中寺院48、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」と謳われていた。
 明治期に入って2度の火災によって、堂宇の多くが焼失し、明治後期から大正期に多くが再建されたが、戦災によってまた多くが焼失し、昭和33年(1958)から文化財保護委員会の手に寄って再建がすすめられて、昭和49年(1974)大本堂の完成とともに、近代的に整備され今日に至っている。
 
・大門
 増上寺の総門・表門にあたり、地名の由来になっている門。現在のものは国道の通行整備のため、昭和12年(1937)に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものだが、旧大門は慶長3年(1598)に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたものである。
 その旧大門は大正12年(1923)の関東大震災により倒壊の恐れが生じたため、両国・回向院に移築されたが、両国が昭和20年の空襲に遭い焼失している。



・三解脱門
 増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、増上寺の中門にあたり、正式名称を三解脱門という。慶長16年(1611)、徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立され、元和8年(1622)に再建された。
 増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されている。二階内部には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。
 三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことである。


・徳川家霊廟
 固く閉ざされた「鋳抜門」と呼ばれる門があり、この門は旧国宝で、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前の『中門』であったものである。左右の扉に五個づつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれている(青銅製)。
 廟所には、15人の将軍の内、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の6人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公夫人)、皇女和宮(十四代家茂公夫人)ら五人の正室、三代家光公側室桂昌院(五代綱吉公実母)などの墓が設けられている。


・黒門(旧方丈門)
 慶安年間(1648〜1652年)、三代将軍家光公の寄進・建立とされている、増上寺方丈の表門であった旧方丈門である。明治時代に増上寺方丈に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となったおり、鐘楼堂脇に移築したものを、昭和55年(1980)に通用門として日比谷通り沿いに移築したものである。

・台徳院霊廟惣門
 増上寺山内の南端に位置する台徳院霊廟は、2代将軍徳川秀忠の廟所として寛永9年(1632)に造営された。芝の徳川家霊廟の中で、最も規模が大きく、地形の起伏を利用した見事な建築群を誇っていた。
 しかし1945年の戦災によって、戦火を免れたのはわずかに惣門、勅額門、御成門、丁字門のみで、惣門は現地に保存され、それ以外の門は狭山不動寺(埼玉県)へと移築されて現存している。
 
 三解脱門を出て左へ、黒門台徳院霊廟惣門の前を通り芝公園へ。

「芝公園」
 芝公園一帯は、江戸時代には増上寺の境内であった敷地が、明治6年の公園制定の太政官令によって公園として開放された。この時、東京ではこの芝のほか、上野、浅草、深川、飛鳥山が公園の指定を受けた、日本最古の公園の一つである。
 第二次世界大戦後、政教分離政策のために増上寺と切り離され、敷地の外周部分は都立芝公園に、増上寺の南隣り一角は港区立芝公園となっている。
 園内には、芝東照宮芝丸山古墳、昭和60年に行われた港区の平和都市宣言の20周年を記念してつくられた「平和の灯」などがある。
 
・芝東照宮
 東照大権現という神となった徳川家康を祭る社で、増上寺境内にあって壮大な社殿が知られていたが、明治の神仏分離によって増上寺から別れ、神社として独立。
 絢爛豪華な社殿は国宝に指定されていたが、昭和20年(1945)の戦災で焼失、現在の社殿は昭和36年(1961)に再建されたものである。境内で唯一焼け残ったイチョウの巨木がわずかに往時を伝えている。寛永16年(1639)に三代将軍家光公が植えたという古木である。
 
・芝丸山古墳
 築造は5世紀中頃過ぎ(4世紀後半との説もある)とみられ、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。全長106m前後、後円部径約64m前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mという都内では最大級の規模を持つ前方後円墳である。江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられている。
 明治26年(1893)に自然人類学者坪井正五郎博士が調査をしたところ埴輪や須恵器などの遺物を発見したが、遺構らしいものは確認できなかった。
 古墳山上部には「伊能忠敬測地遺功表」がある。伊能忠敬といえば、江戸時代後期、全国を測量して歩き、我が国初の実測に基づく日本地図を製作した人物である。その伊能忠敬が測量の予行演習をしたとされる場所がこの古墳なのである。モニュメントには日本地図と忠敬を称える碑文が刻まれている。
 
 芝公園を出て、公園に沿いに歩き、赤羽橋交差点を左折、三田一丁目交差点を右折し、坂を上った先左手に、優美な西洋館が見える、「綱町三井倶楽部」である。




「綱町三井倶楽部」
 大正2年(1913)三井家の迎賓館として鹿鳴館設計者ジョサイア・コンドル氏により建てられた歴史ある美しい建物。東京三田の都心にありながら西洋庭園と壮大な日本庭園が本館を囲むように広がっている。
 ルネサンス様式を基調とした宮殿造りの館は、ベランダの張り出しはバロック、中央ドームの吹き抜けはビザンチンと様々な建築様式が見事に調和している。
 現在は三井グループ関係者の倶楽部として用いられているため、一般公開はされていない。
 
 三井倶楽部の建物の外観を眺めた後、オーストラリア大使館の前を通り、二の橋交差点で麻布通りを横切り麻布山入口交差点を右に曲がった左手に、善福寺の入り口がある。

「麻布山善福寺」
 天長元年(824)、弘法大師空海が真言宗を広めるために、西の高野山に対して東の麻布山に開山したのが始まりという。都内でも有数の歴史を持つ古刹である。鎌倉時代に越後から上洛する途中の親鸞上人がここに立ち寄り、その教えに帰依した住職が浄土真宗に改宗したという。
 境内には親鸞聖人の銅像や、親鸞聖人が突き立てた杖が根付いたといわれるイチョウの巨木がある。推定年齢750年で、都内で最も古いイチョウのひとつといい、国の天然記念物に指定されている。幹の途中から枝が下向きに生えているため、「逆さイチョウ」の別名がある。
 またこの寺は、幕末の安政6年(1859)には、最初のアメリカ公使館が置かれ、公使のタウンゼント・ハリスらが駐在したという歴史を持つ。境内にはハリスのレリーフを刻んだ記念碑がある。
 文久3年(1863)、開国に反対する水戸浪士らによって寺は放火され、書院などが焼失した。現在の本堂は、かつて京都東本願寺にあった建物を移築したものである。

 我々が訪れた時、ちょうど越路吹雪の代表曲「ラストダンスは私に」の歌碑除幕式が行われていて、宝塚後輩の元月組トップの真琴つばさ龍真咲が出席していた。
 善福寺を出て右へ、麻布山入口の信号を横切り細い道を進み、東町小の脇から麻布通りを右へ。暫らく進み、古川橋交差点を過ぎて魚籃坂下方面へ、そして魚籃坂下交差点を左に折れると右手に長松寺がある。

「長松寺」
 立派な山門を持つ高台にある古刹で、門前には荻生徂徠の墓の石柱が建っており、境内の一番奥にお墓がある。
 荻生徂徠は、江戸中期の儒学者で、5代将軍の徳川綱吉にもしばしば儒学を講義した。赤穂義士の処分について、治安を乱したとして重罰を加えるべきと言う意見と、忠義の士として顕彰すべきとの意見で幕府内の議論がまとまらない時、治安を乱した罪で死罪だが、武士の名誉を重んじた切腹を綱吉に建議したことでも有名である。

 長松寺の先右手の細くて急な坂道「幽霊坂」を上るとその途中右手に、「化粧延命地蔵」を祀る玉鳳寺がある。

「化粧延命地蔵(おしろい地蔵)」(玉鳳寺)
 山門横の地蔵堂に安置されている。八丁堀の地蔵橋畔に放置されていたものを住職格翁宗逸和尚が修復、またこの地蔵が大変泥にまみれているのを不憫に感じた住職が白粉を塗って祭ったところ、和尚の顔面の痣が消えたので人々が病気のあるところと同じ部分に白粉を塗って祈願するようになったといわれる。「化粧延命地蔵(おしろい地蔵)」の名称で港区の有形民俗文化財に登録されている。

 幽霊坂を更に上り、突き当りを右に折れると右手に亀塚公園があり、その裏手の階段を下りたところに三田の地主神「御田八幡神社」がある。

「御田八幡神社」
 和銅2年(709)、牟佐志国牧岡というところに、東国鎮護の神様として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられている。
 その後、寛弘8年(1011)武蔵野国御田郷久保三田の地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。俗に「綱八幡」と称した。
 江戸開幕のみぎり、僧快尊が元和5年(1619)現社地を卜して造営を開始し、寛永5年(1628)に遷座した。別当は八幡山宝蔵寺と称し天台宗に属した。
 神仏分離により明治2年稗田神社と称号し、同7年に三田八幡神社と改称し、同30年に三田の冠称を御田の旧名に復し御田八幡神社と称号するに至った。
 昭和20年の東京大空襲により、江戸時代の社殿を焼失する。昭和29年に、本殿権現造、幣殿・拝殿・神楽殿・社務所が再建された。

 御田八幡神社参拝の後、第一京浜を左に進み、札の辻から田町駅前を過ぎ左斜めに日比谷通りを行き、左手の日本電気本社ビルの北側アポロ通り(電気通り?)に面したところに「薩摩屋敷跡」の石碑がある。

「薩摩屋敷跡」
 この付近一帯は通りの両側にわたって薩摩藩上屋敷の敷地だった。屋敷は慶長3年(1867)の焼討事件でほぼ全焼し、跡地は、「薩摩ッ原」と呼ばれるようになったという。
 江戸薩摩藩邸の焼討事件は、西郷隆盛の命を受けた、益満休之助、伊牟田尚平らが浪士に集合をかけ、乱暴行為を繰り返し行っていた。12月に入ると、挑発行為はますますひどくなり、新徴組の詰め所に銃が打ち込まれる事件が発生した。これを受けた庄内藩、新徴組および幕府側の諸藩兵は三田の薩摩藩邸を包囲し、浪士の引き渡しを申し入れたが、その時、薩摩藩の留守居役篠崎彦十郎を血祭りにあげたことから、銃撃戦が行われ49人が戦闘で命を落とし、113名が捕縛された事件である。

 日比谷通りに戻り、右に進み、第一京浜に突き当たった先、三菱自動車本社ビル前の歩道の端に、「西郷隆盛・勝海舟会見の地」碑が建っている。

「西郷隆盛・勝海舟会見の地」
 東征軍の江戸城総攻撃を目前にひかえた慶応4年(1868)3月13、14日の両日、薩摩屋敷で東征大総督府下参謀・西郷隆盛と、旧幕府徳川家陸軍総裁・勝海舟が会見し、無血開城が決められた。13日の会見は高輪の薩摩藩下屋敷で開かれ、翌日の最終会談がここにあった薩摩藩蔵屋敷で行われた。
 碑に刻まれている文字は西郷隆盛の孫の吉之助の筆によるものである。


 すぐ近くの田町駅にでて解散をする。


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