山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.15


第15回 田町駅〜高輪大木戸跡〜泉岳寺〜大石内蔵助切腹の地〜覚林寺〜明治学院大学〜瑞聖寺〜
      池田山公園〜寶塔寺〜雉子神社〜旧竹田宮邸〜薩摩藩高輪邸跡(SHINAGAWA GOOS)〜
      品川駅創業記念碑〜品川駅

                                                      H28年11月17日

 10:00、田町駅改札口に、5名が集合。晴天の下、まずは地下鉄泉岳寺駅近くの高輪大木戸跡に向け、第一京浜国道を品川方面に暫らく歩くと、国道の左手に沿って石垣と大きな木が見えてくる。これが高輪大木戸跡である。

高輪大木戸跡
 高輪の大木戸は、江戸の治安維持のため、宝永7年(1710)に東海道の両側に石垣を築き、設置された。各町にある「町木戸」に対し、江戸全体を守る木戸であることから、「大木戸」と呼ばれ、旅人やその送迎客でにぎわった。明治初年に西側の石垣は取り払われ、現在は国道15号線(第一京浜国道)沿いに東側の石垣だけが残されている。

 第一京浜国道を更に進み、泉岳寺交差点を右に折れまっすぐ進むと四十七士の墓所、泉岳寺である。

「泉岳寺」
 慶長17年(1612)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641)寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。
 赤穂事件で有名な浅野長矩赤穂四十七士が葬られていることで知られている。山門奥に本堂があり、左手に進むと浅野家と赤穂四十七士の墓所がある。現在も多くの参拝客が訪れる。また、毎年4月初旬と12月14日には義士祭が催される。また境内に、赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」がある

 泉岳寺をお参りした後、泉岳寺と高輪高校の間の細い道を通り、広い道に突き当たり左に折れ、すぐ右に折れ高輪一丁目アパートの先を左に折れると右手に大石内蔵助切腹の地「大石良雄他十六人忠烈の跡」がある。

「大石良雄他十六人忠烈の跡」
 吉良上野介を討ち取った大石内蔵助一行46名(四十七士のひとり寺坂吉衛門は、途中で姿を消している)は、泉岳寺にある主君浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えた後、幕府の命により細川家を含む4家にそれぞれ預けられた。大石内蔵助ら17名を預かった細川家は、高輪の下屋敷にて彼らを丁重に扱ったとされている。
 元禄16年(1703)2月4日、幕府の命が下り、同日中に全員が預けられた先で切腹をした。切腹の後、46人の遺骸は主君と同じ泉岳寺に送られ、埋葬された。
 大石内蔵助らが切腹をしたかつての広大な細川家高輪下屋敷の敷地は、現在、高松中学校などになっているが、細川家の屋敷跡の一部が塀に囲まれて残されており、往時をしのばせている。

 高輪一丁目アパートの角まで戻り、左に曲がり暫らく進むと左手に大きなシイの木(旧細川邸のシイ)があり、その先の港区役所高輪区民センターの中を通って桜田通りに出て左へ、清正公前の交差点の先右手に覚林寺がある。

「覚林寺」
 小湊誕生寺十八世可観院日延が開山となり寛永8年(1631)に創建したという。可観院日延は、朝鮮の王族出身だが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正に捕えられ、後に小湊誕生寺十八世となり、当地に隠居、覚林寺を創建したという。
 加藤清正の位牌を置き、江戸時代から「白金の清正公さま」として親しまれており、武運が強かったといわれる清正公にあやかり「勝負運」のご利益があるとして有名である。

 覚林寺から桜田通りを五反田方向に進むと右手に明治学院大学がある。

「明治学院大学」
 白金キャンパス構内には明治から大正にかけて建築された3棟の建物が残されており、文化財に指定されている。
 ・インブリー館
 明治22年(1889)頃に建てられた、日本に現存する宣教師館の中でも有数の歴史をもつ貴重な建物。ウィリアム・インブリ一博士の住まいであったことから「インブリー館」と呼称されている。平成7年(1995)から2年間の月日をかけ、もとの材料を生かして修復工事を行った。
 ・明治学院記念館
 明治23年(1890) に建てられたネオゴシック様式の建物。1階の小チャペルは、静かな黙想の場である。19世紀につくられた足鍵盤付きリードオルガンが、大正時代の礼拝の音をいまも響かせている。
 ・明治学院礼拝堂
 大正5年(1916)に落成し、後に両袖が拡張された。チャペル内に広がるパイプオルガンの荘厳な響きと、澄んだ讃美歌に心洗われる。
 
 明治学院大学の学食で昼食を摂り、礼拝堂などを見て正門を出て右へ。暫らく歩き、白金小学校の先を左に曲がるとその先に瑞聖寺がある。

「瑞聖寺」
 黄檗宗の禅寺で、寛文10年(1670)に創建された。江戸時代、幕府は新来の宗旨を禁じていたが、黄檗宗は唯一の例外とされ明僧隠元によって伝えられた。インゲンの伝来で知られる隠元は招かれて渡来し、京都の宇治に黄檗山万福寺を開いたが、江戸ではその弟子木庵が、将軍家綱の命を受けた青木甲斐守重兼の後援で瑞聖寺を建立した。江戸時代には江戸の黄檗宗の中心寺院として「一山之役寺」と呼ばれていた。
 明の様式を色濃く残す大雄宝殿(本殿)は、江戸中期以降のものと推測され、国の重要文化財に指定されている。
 
 瑞聖寺をお参りした後、目黒通りに出て左、目黒方面に暫らく歩く。自然教育園前信号の先を左に折れ暫らく進み、信号のある五叉路を左に曲がり少し行くと、右手に池田山公園がある。

「池田山公園」
 旧岡山池田藩下屋敷跡を整備した鑑賞型公園。高低差を生かした池泉回遊式で、高台部は遊戯・休憩ゾーン、低地部は回遊ゾーンとなっている。
 四季折々の花が美しい公園として、区民に親しまれている。
 
 紅葉が綺麗な池田山公園の中を通って出たところにある案内図に従い約5分ほど歩き正田邸跡の「ねむの木の庭」に寄る。

「ねむの木の庭」
 皇后陛下のご実家・旧正田邸跡地で、皇后陛下が高校生時代に作られた詩「ねむの木の子守歌」にちなんで命名された。
 様々な樹木や草花で彩られる公園は邸宅の跡地なので広くはないが、皇后・美智子に因むバラの「プリンセス・ミチコ」も植えられている。
 
 ねむの木の庭から細い道を歩き、NTT東日本関東病院の前を通って桜田通りに出て横切り、五反田駅と反対の高輪台方面に歩くと右手に雉子神社がある。

「雉子神社」
 雉子神社は、文明年中(1469-1487)の創立といわれている。慶長年間に徳川三代将軍家光が当地に鷹狩りに来た時、一羽の白雉がこの社地に飛び入ったのを追って社前に参詣し、「以後雉子宮と称すべし」との言葉があり、雉子ノ宮と改称、明治維新の際に雉子神社と改められる。江戸期には上大崎村・下大崎村・谷山村の鎮守であった。

 雉子神社の脇の細い道の先に、寶塔寺の墓地があり、その中の石段を下ったところに本堂がある。

「寶塔寺」
 もとは法東寺と称し、室町時代の応永8年(1401)に創建されたと伝えられる。初めは品川の海岸近くにあり、のち目黒川沿いに移転して寶塔寺と名を変え、さらに江戸時代初期の万治年間(1658〜61)に、目黒川の水害を避けて現在地に移転した。
 ここに今も祀られている元三大師(良源、慈恵大師)を参拝してから網を下ろすと大漁になるといわれ、当時の漁民から厚い信仰を受けていた。

 寶塔寺から桜田通りへ出て右へ高輪台方面へ歩く。高輪台交差点を右に折れ、突き当りを左に曲がり、味の素グループ高輪研修センターの角を右に折れ、道なりに歩いて行くとグランドプリンスホテル高輪の前に出る。ホテルの右側に旧竹田宮邸がある。

「旧竹田宮邸」
 明治末期、高輪の一帯には北白川宮朝香宮家などが建ち並び、高輪南町御用邸と称されていた。その一つが旧竹田宮邸である。ルネッサンスを基調とした折衷様式の洋館で、明治42年(1909)に竣工。設計統括は片山東熊。宮内省の宮廷建築家で、赤坂離宮(現在の迎賓館)を設計した人物である。
 建物は石造りのように見えるが、実際はレンガ造り。壁の表面に石板を張っているため、重厚な雰囲気となっている。外観ではほかに、正面中央の高いマンサード屋根(2段階の勾配を持つ屋根)とドーマー窓(屋根裏部屋の採光のため屋根面にせり出して設けられた窓)、際立つ棟飾り、正面玄関の車寄せとその屋根部分などが特徴的である。
 現在は高輪プリンスホテルの宴会場「貴賓館」となっている。

 ホテルの中を通り抜け、第一京浜に出ると、品川駅の向かいにSHINAGAWA GOOSがあり、そこが薩摩藩高輪邸跡である。

「薩摩藩高輪邸跡」
 品川駅の高輪口を出ると正面に見えるのがSHINAGAWA GOOS。江戸時代、ここは薩摩藩高輪藩邸で、ここで、慶応4年3月13日の西郷隆盛勝海舟の江戸城無血開城に向けた第1回の話し合いが行われたのである。
 明治後半以降には、朝香宮家東久邇宮家の邸宅があったが、朝香宮邸は、昭和8年に白金(東京都庭園美術館)に引っ越し、東久邇宮邸は京浜急行が取得し、「ホテルパシフィック」を開業し、現在はホテル、レストラン、ショップなど複数の施設を擁するSHINAGAWA GOOSとなっている。



 品川駅東口の駅前ロータリーにある品川駅創業記念碑を見た後、解散する。

「品川駅創業記念碑」
 日本最初の商用の鉄道は、明治5年に新橋(汐留)〜横浜(桜木町) 間に開通したとされているが、実は正式開業の半年ほど前に品川〜横浜 間で仮開業した。つまり、品川駅日本で最初の鉄道駅である。
 記念碑の裏面には、鉄道創業時の時刻表と運賃の表が当時のまま刻まれている。朝夕2往復運転されていたようだが、「運賃」は「賃金」、「8時」は「8字」などと書かれている。



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