山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.16


第16回 品川駅〜八ッ山橋〜問答河岸跡〜利田神社〜御殿山下砲台跡〜品川宿本陣跡〜寄木神社〜
      荏原神社〜海徳寺〜街道松の広場〜長徳寺〜天妙国寺〜諏訪神社〜品川寺〜海雲寺〜
      海蔵寺〜願行寺〜品川神社〜東海寺〜東海寺大山墓地〜居木神社〜観音寺〜大崎駅

                                                      H28年12月15日

 10:00、JR品川駅中央口に6名が集合、第一京浜国道を南へ下り、東海道線などの跨線橋の八ッ山橋を渡る。

「八ツ山橋」
 初代の八ツ山橋は、明治5年(1872)に架けられた日本初の跨線橋である。この橋は、木造橋であったが、大正3年(1914)にアーチ形の鉄橋に架け替えられ、昭和5年(1930)に既設アーチ橋(2代目)の西側に併設する形でアーチ橋(3代目)を架設し、「2つの橋」となった。その後、昭和60年(1985)3月に4代目の橋に架け替え、現在に至っている。
 昭和60年に取り壊されたアーチ型の鉄橋に付いていた親柱は、保存されて橋詰に立っている。

 八ツ山橋新八ツ山橋との間の「八ツ山コミュニティ道路」は東海道五十三次をイメージして、道路の西側に植え込みがつくられ、五十三次の宿場名を刻んだ道標が並んでいる。
 八ツ山コミュニティ道路から第一京浜国道を南へ少し下ると、左側に京浜急行の踏切が見え、この踏切を渡って進むと旧東海道に出る。
 旧道を少し北に戻ると、右側の角に「問答河岸跡」と彫った石碑が立っている。

「問答河岸跡」
 ここは江戸時代船着き場だったところ。寛永17年(1640)の9月、ここに徳川3代将軍家光が幕府がバックアップしていた東海寺の住職の沢庵和尚を訪ねた。この時、出迎えた沢庵に、「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」と家光が問い、沢庵は「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」と当意即妙に答えた、という故事にちなんでいる。

 問答河岸跡の石碑のあるところから、旧道を南に少し行った左手、1階がコンビニエンスストアの4階建てマンションの地に、かつて品川宿きっての大旅籠相模屋があった。

「土蔵相模」
 旅籠屋を営む「相模屋」は、外壁が土蔵のような海鼠壁だったので、「土蔵相模」と呼ばれていた。
 文久2年(1862)品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論舎の高杉晋作久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを実行したという、幕末の歴史の舞台となった所である。
 昭和50年代まではホテルとして残っていたが、老朽化のため取り壊され、現在跡地はマンションになっている。

 旧道から東に坂を下ると八ッ橋通りに出る。この道路沿いに、利田神社(かがたじんじゃ)がある。

「利田神社」
 江戸時代初期の寛永3年(1626)に東海寺の沢庵禅師によって 創建され、洲崎弁財天と称されていた神社である。当地一帯は安永3年(1774)から天保5年(1834)にかけて、南品川宿名主利田吉左衛門により開発されたことから利田新地と呼ばれ、当社も利田神社と称している。
 利田神社の横に鯨塚がある。この鯨碑(鯨塚)は、寛政10年(1798)5月1日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は9間1尺(約16.5m)高さ6尺8寸(約2m)の大鯨で、江戸中の評判となった。

 利田神社の先を左に入ったところに台場小学校があり、その門前にミニ灯台が建っている。

「御殿山下砲台跡」
 御殿山下砲台跡は、幕末時代、江戸を防衛するために築かれた品川台場の一つなのだが、他の台場と違い、資金不足のために計画変更されて、品川の海岸沿いに陸続きで五稜形の台場として建造された。この跡地は現在は台場小学校となっていて、敷地は五角形になっている。その門前に台場の石垣石を利用して作られたミニ灯台などが建っている。このミニ灯台は第二台場にあった品川灯台のレプリカ(本物は現在、愛知県犬山市にある明治村に国の重要文化財としてある)になっている。

 八ッ橋通りに戻り、南へ行くと山手通りに出る。その右手が今は聖蹟公園となっている品川宿本陣跡である。

「品川宿本陣跡」
 本陣は東海道や中山道など江戸五街道の宿場に設けられた、大名や公家などが休泊するための施設。多くの宿場では、街道に面して建物があったが、品川宿の場合は街道沿いに表門があり、建物がやや奥まったところにあった。
 品川は東海道の江戸の入り口であり、諸国からの旅人が江戸入りの直前に休泊して身支度を整える、といった場所でもあったが、それ以上に品川は、江戸の人々の有効地として賑わった。
 本陣の跡は、明治元年(1868)、明治天皇行幸の際の行在所となり、聖蹟の名が付いた

 聖蹟公園から八ッ橋通りを南に行くと左手に猟師街の鎮守、寄木神社がある。

「寄木神社」
 寄木神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊が御東征の折、走水の海を渡る際に、海が大いに荒れ舟が進まず、時に弟橘姫が渡に入り海神をなだめた為、無事に対岸木更津に着くことができた。其御乗船の一部は砕けて、此洲にも流れた木片を納めて祀ったのが寄木神社の始まりとされている。
 本殿の扉の内側の、左官の名工伊豆の長八作の漆喰鏝絵の他、大谷石の 本殿やかっぱ狛犬などの貴重な文化財がある。
 寄木神社狛犬(かっぱ狛犬)には頭の上に皿があるが、皿の役目は、昔、神社前に海が広がっていた頃、海苔採り等は暗いうちに海に出たりする際その皿の部分にロウソクを立て、火を灯し、灯台の代わりにして、沖にいる船の目印としたと言われている。
 
 寄木神社前の細い道を南に行き、目黒川に沿い右に折れ川沿いに歩き、旧東海道に架けられた南北品川宿の境になっている品川橋を横に見て進むと右手に南品川の鎮守、荏原神社がある。


 「荏原神社」
 荏原神社は元明天皇の御代、和銅2年(709)9月9日に、奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高麗神(龍神)を勧請し、長元2年(1029)9月16日に神明宮、宝治元年(1247年)6月19日に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し、古より品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至っている。
 往古より貴船社・天王社・貴布禰大明神・品川大明神と称していたが、明治8年(1875)、荏原神社と改称。旧荏原郡(品川、大田、目黒、世田谷)の中で最も由緒のある神社であったことから、荏原郡の名を冠した社号になった。現在の社殿は弘化元年(1844年)のものである。
 明治元年(1866)10月12日、東京遷都の際をはじめとして、同年12月8日・翌2年3月27日の明治天皇京都・東京行幸の際に、当社に行幸され、内侍所とされた。(内侍所とは、宮中賢所にあたる)

 荏原神社参拝後、鎮守橋を渡ったところに、海徳寺の入り口が見える。

 「海徳寺」
 戦国時代の大永2年(1522)に、この地に住んでいた鳥海和泉守という人物が、京都から日増上人を迎えて自宅を寺としたことに始まるといわれる。
 現在の本堂は、江戸時代の中期、寛延4年(1751)に完成したもので、品川区内でも屈指の古い建物である。
 境内には、軍鑑千歳殉難者之碑がある。明治39年(1906)、品川沖に停泊していた軍鑑「千歳」へ渡る伝馬船が、突風を受けて転覆し、千歳乗組員ら83名が死亡した。遭難者の救助は品川町をあげて行われ、遺体は海徳寺に安置、供養された。
 この碑は、大正8年(1919)の13回忌に際して建てられたもの。碑の傍らには、大砲も置かれている。

 海徳寺から旧東海道に出て右に行った右手に街道松の広場がある。

「街道松の広場」
 品川宿では旧東海道沿いに五十三次の各宿場から贈られた街道松を植えている。この広場の松は浜松宿から贈られた第一号である。

 街道松の広場から旧東海道を暫らく下り、城南小学校の手前、右側の横丁を入ると突き当りに長徳寺がある。




「長徳寺」
 室町時代中期の寛正4年(1463)の創建と伝えられる古刹で、もとは北品川の旧東海寺の本堂あたりにあったが、寛永14年(1637)東海寺が建立された際に末寺である常光寺のあった現在地に移ったといわれる。
 徳川家康以来歴代将軍の寺領朱印状が残されており、境内の閻魔堂には鎌倉時代のものとされる、像高88pの木像閻魔像坐像を祭っていて、江戸時代には「南品川のお閻魔さま」として信仰を集めた。

 長徳寺から旧東海道に出て再び南下すると城南小学校の入り口があり、その先右手に天妙国寺がある。

「天妙国寺」
 弘安8年(1285)、日蓮の弟子・天目が創建したという。妙国寺2世・日叡の代に、顕本法華宗の祖・日什の門流に帰属した。15世紀には、品川湊の豪商・鈴木道胤の寄進により五重塔を含む七堂伽藍が建立された。天正18年(1590)8月、徳川家康が江戸入府の前日に天妙国寺を宿所としたことから、徳川将軍家との所縁が生まれ、寺域や門前町が拝領地となった他、最初の朱印状が交付された翌天正19年(1591年)11月には10石の寺領を寄進された。
 五重塔は元禄15年(1702)の江戸大火により焼失し、以後は度重なる江戸の大火や江戸幕府の財政難といった事情のため再建されなかった。昭和47年(1972年)妙国寺から天妙国寺へと改称する。
 境内には、明治・大正時代の浪曲師、桃中軒雲右衛門の墓がある。赤穂浪士の事跡「義士銘々伝」を得意とし、浪花節中興の祖とされ、浪曲史上に偉大な足跡を残した人物である。

 天妙国寺から旧道を更に南に進むと右側に諏方神社がある。

「諏方神社」
 諏方神社は、天妙国寺の鎮守で、天妙国寺の開基天目が自身の生国信州の諏訪神社を勧請して、弘安年中(1278-1287)に創建したという。
 当初は海岸の洲崎に建っていたので洲の宮といわれていた。永享のころ(1429−41)社を現境内に引いて再建した。
 社殿の前に建つ石灯籠は安政6年(1859)、そのかたわらの狛犬は天保2年(1831)のもの。石灯籠は昇り龍と下り龍を彫り込んだ立派なものである。

 諏方神社から旧道を更に南下、青物横丁駅からの道を越えた先右手に品川寺(ほんせんじ)がある。

「品川寺」
 弘法大師空海を開山とし、大同年間(806-810年)に創建されたという。長禄元年(1457年)、江戸城を築いた太田道灌がここに聖観音像を加えて大円寺という寺院を創設した。その後戦乱により荒廃するが、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興され、現在の寺号となった。
 御本尊の水月観音は現在は秘仏だが、「品川の観音さん」と呼ばれ親しまれている。
 境内に入るとすぐ脇に、江戸六地蔵の第一番にあたる銅造地蔵菩薩坐像がある。宝永5年(1708年)に造られた、高さ2.75mの仏像で、現存する江戸六地蔵像のうち唯一頭上に傘を載せていない。
 境内奥の鐘楼にある梵鐘は、明暦3年(1657)の銘があり、全面に観音経を刻み込み、周囲に六観音を浮き彫りにした傑作で、徳川幕府第4代将軍徳川家綱の寄進とされる。
 幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867年)・ウィーン万博(1873年)に展示されたと伝えるが、その後所在不明となっていた。大正8年(1919年)、当時の住職であった仲田順海は鐘がスイス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されていることを突き止め、返還交渉を開始し、昭和5年(1930年)、同市の好意により品川寺に返還されたものである。
 また、品川寺は東海七福神の弁財天の寺であるが、境内に石の七福神が点在していて、境内だけで七福神を巡拝することができる。

 品川寺の数軒先、同じ右側に海雲寺がある。

「海雲寺」
 海雲寺は建長3年(1251)僧不山によって開基、はじめは庵瑞林といい、海晏寺境内にあって臨済宗であった。慶長元年(1596)海晏寺五世分外祖耕大和尚を開山とし曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)海雲寺になったもので、ご本尊十一面観世音菩薩を安置し、ご尊像は建長3年創立当時、仏師春日の作といわれている。また、鎮守として千躰三宝大荒神王を祀っている。千躰荒神王は火と水の神、台所の神で、台所に荒神様をお祀りすれば一切の災難を除き衣食住に不自由しないとされており、品川の千躰荒神は江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されてきた。
 千躰荒神像は、インドの毘首羯摩作と伝えられ、古く肥後国天草郡荒神ヶ原にあったが、鍋島直澄が島原の乱出陣時に戦勝祈願したところ、千躰の神兵に助太刀され大きな武勲を得たといい、江戸高輪二本榎の佐賀藩鍋島家下屋敷に遷座させたが、明和7年(1770)3月当寺に勧請された。移転は島原の乱時にキリシタンによって社を壊されたためとする話も伝わる。

 海雲寺から青物横丁の駅前を通り第一京浜国道へ出て品川駅方面に向かう。南品川四丁目交差点の手前左手に、海蔵寺がある。

「海蔵寺」
 海蔵寺は、藤沢遊行寺二祖他阿真教上人が当地に永仁6年(1298)創建、江戸時代に入り、品川宿がおかれ、ここで死亡した数多くの無縁仏を供養していたことから投込寺とも呼ばれたという。元禄4年(1691)から明和2年に至るまでその数7万余人といわれている。
 宝永5年(1708)土地の有力な信者の集まりがこれを改葬し、その骨を集め、墳墓を築きその上に観音像を安置したのが巷間に伝えている無縁塔群、首塚である。頭痛を病めるものがその平癒祈願をすると利益があるといって、頭痛塚ともいわれている。また当時鈴ヶ森刑場で処刑された人や、品川遊郭に於いて死亡した遊女等も葬られている。

 海蔵寺の第一京浜国道を挟んで向かい側に願行寺がある。本堂は改修中で見ることはできない。

「願行寺」
 願行寺は、後に鎌倉光明寺第8世となった観譽祐祟日祐上人が寛正3年(1462)に創建、江戸時代には、当寺の住僧諦譽上人東流和尚がしばしば江戸城に呼ばれたことから、馬喰町に地所を拝領、同名の寺(現駒込願行寺)を建立したという。境内には承応元年に造立されたしばられ地蔵がある。
 地蔵の身体を縄で縛ると、苦しみを肩代わりしてくれるといわれるため、以前は荒縄で首だけを残してびっしりと縛っていた。現在は白い麻縄を地蔵の胴にだけ巻いている。
 地蔵ほ、首がとれるようになっており、願をかける人が首をそっと持ち帰って祈願し、願いがかなうと首を二つにして奉納している。そのため、地蔵のまわりにはいくつもの首が並んでいる。

 願行寺から再び第一京浜国道を品川駅方面に歩き、山手通りを越えた先左手一帯が御殿山で、その一角に北本陣鎮守の品川神社がある。
 石造りの鳥居をくぐり、急な階段を登ると境内で、正面に本堂、左手に富士塚がある。

「品川神社」
 後鳥羽天皇の御世、文治3年(1187)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理乃命(あめのひりのめのみこと)を勧請して、品川大明神と称し、今は社名を品川神社と改めた。
 寛永14年(1637年)に3代将軍徳川家光が東海寺を建立した際には、境内の一部がその敷地となったため現在の場所に移転、神社の位置が東海寺の鬼門に当たることから、東海寺の鎮守とした。
 境内入り口の階段前に、門柱に龍の細工が施された石鳥居「双龍鳥居」がある。左の柱に昇り龍、右の柱に降り龍が彫刻されている。双龍鳥居は杉並区の高円寺馬橋稲荷神社にもあり、品川神社のものと合わせて「東京三鳥居」ともいわれている。
 境内の東南隅、崖に面して築山がある。この山は高さが15mほどもあって、品川富士と呼ばれている富士塚である。江戸時代に富士登山が流行し、富士講という団体が、富士山に行けない人のために作った富士塚が各地に残っている。
 石段を登った先にある石製の鳥居は、東海寺の造営の責任者に任命された佐倉藩主堀田正盛が、工事が無事終了したことを感謝して、慶安元年(1648)に寄進したもの。建立年代がわかっている石鳥居としては、上野東照宮の寛永10年(1633)の鳥居についで東京都内で2番目に古いものとなっている。
 本殿の裏側には、板垣退助と夫人の墓がある。板垣退助は明治新政府では参議になりながら大久保利通と対立して下野、自由民権運動の旗手として自由党を結成したが、遊説中に狙撃された。晩年は政治の表舞台から去り、社会事業などに尽力して、大正8年(1919)に病没した。

 第一京浜国道を戻り、山手道りとの交差点を右折、子供の森公園の信号を左に折れると左手に東海寺の入り口がある。

「東海寺」
 東海寺は、寛永15年(1638)徳川家光沢庵宗彭を招聘して開山した。寺領5,000石、境内地4万7000坪を賜った別格本山格の寺院で、臨済宗大徳寺派の江戸触頭であった。
 明治維新で廃寺となったものを、かつての塔頭玄性院が旧跡を引き継いで現在に至っており、境内には元禄5年(1692)に造られた梵鐘があり、5代将軍綱吉の生母・桂昌院が寄進したものという。
 沢庵禅師は、日頃清貧を心がけ、作り上げた『たくわえ漬け』を時の3代将軍・徳川家光公に献上したところ、たいへん美味であり、将軍より沢庵が作ったのであるから『たくあん漬け』と命名するよう進言され、この名がついたと言われている。という訳で、たくあん漬けは品川が発祥である。

 山手道りへ戻り左折し、東海道本線のガードをくぐった右手が、官営品川硝子製造所跡で、「近代硝子工業発祥之地」と刻んだ石碑が立っている。

「官営品川硝子製造所跡」
 明治6年(1873)、東海寺境内に日本初の近代ガラス工場、興業社が設立。3年後に明治政府に買収され、工部省の官営工場となった。外国人技師を招いて食器や日用ガラス器製造の技術を伝えた。
 明治18年(1885)に、西村勝三らに払い下げられて民間工場となり、各種ガラス製品やビール瓶などを生産したが、経営不振により明治25年(1892)に解散。
 煉瓦造りの当時の工場の一部は、明治期の貴重な洋風建築として、愛知県犬山市の明治村に移築、保存されている。

 官営品川硝子製造所跡の脇の東海道線に沿った細い坂道をのぼると、東海寺大山墓地に出る。

「東海寺大山墓地」
 石段をのぼったところに沢庵墓がある。石垣をめぐらし、3個の自然石をかさねたもので、沢庵を偲ぶにふさわしい墓である。
 沢庵は京都・大徳寺の僧だったが、幕府の宗教政策に反抗したため、出羽の国に流された。しかし後に柳生宗矩の仲立ちで徳川3代将軍家光と親しくなり、江戸に住まうようになった。
 その他、江戸中期の国学者、賀茂真淵、江戸中期の儒学者、服部南郭、鉄道の父といわれる井上勝、貞享暦をつくった渋川春海島倉千代子らの墓がある。

 大山墓地から山手通りに戻り右折、大崎駅のところで山手線を越え、一本西側の路地へ入ったところに観音寺がある。

「観音寺」
 観音寺は、大阿闍梨法印光海(天正元年1573年寂)が開山したと伝えられる。当所居木橋の南方にあったものの、江戸時代初期に当地へ移転したという。
 中興開山の第十三世法印智淵の代に赤坂山王(山王日枝神社)別当の城琳寺末となったが、明治元年(1868)同寺廃寺に伴い、三田西蔵院末となり、さらに明治43年(1910)9月に他の同宗3ヶ寺(安楽寺、宝塔寺、徳蔵寺)と共に比叡山延暦寺の直末となったという。

 観音寺に隣接して居木神社がある。

「居木神社」
 創建の年代は明らかではないが、往古鎮座の地は武蔵國荏原郡居木橋村(現在の山手通り居木橋付近)に位置していたようである。
 当時は「雉子ノ宮」と称され、境内には「ゆるぎの松」と呼ばれた大木があったと伝えられている。
 江戸時代の初期、目黒川氾濫の難を避けるために現在の社地に御動座された。その折、村内に鎮座の「貴船明神」「春日明神」「子権現」「稲荷明神」の4社を合祀し、「五社明神」と称された。
 明治5年(1872)社号を「居木神社」と改め、同6年旧制の「村社」に列格、続いて同29年および同42年(1909)には村内鎮座の「稲荷神社」「川上神社」「本邨神社」の3社6座が合祀された。
 現在の社殿は昭和53年に立て直されたものだが、石造りの鳥居と手水鉢は寛永4年(1792)のものが残っている。

 居木神社をお詣りした後、大崎駅に出て解散。


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