山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.17


第17回 五反田駅〜徳蔵寺〜案楽寺〜氷川神社〜かむろ坂〜行元寺〜安養院〜龍泉寺(目黒不動)〜
      五百羅漢寺〜蟠龍寺〜元競馬場〜大鳥神社〜太鼓橋〜雅叙園〜行人坂・大圓寺〜目黒駅

                                                      H29年2月9日

 雨模様で寒い日のため、10:00に五反田駅に集合したのは4名。まずは、JRの線路に沿い目黒方面に歩き、首都高速の下をくぐった先左手にある徳蔵寺へ。

「徳蔵寺」
 コ藏寺は、天正年間(1573〜91)梁誉道元大和尚によって武蔵野国荏原郡大崎村 に創立と伝えられ、赤坂山王城琳寺末であったが明治元年同寺廃寺に伴い、三田西蔵院末となり、さらに明治43年9月に他の同宗3ヶ寺(観音寺安楽寺宝塔寺)と共に比叡山延暦寺の直末となった。
 本堂左手に石造りの庚申供養塔が5基置かれており、中でも寛永12年(1635)に造立された板碑型の庚申塔は、型も大きく保存状態も良く、品川区内で最古のものとされている。

 また庚申塔と並んで、2体の地蔵菩薩像、塩地蔵尊三輪地蔵尊が置かれている。
 ・塩地蔵尊:貞享4年(1687)竜雲院一峰義天居士の菩提を弔うために安置された尊像。塩地蔵とよばれる地蔵尊はきわめて数が少なく、その多くは北向きに安置され、“北向き地蔵”ともよばれる。
 塩地蔵に供えられた塩を少量もち帰り、風呂に入れて入ると諸病に効験があると伝えられ、コ藏寺の塩地蔵は眼病に霊験顕かな地蔵として知られている。
 ・三輪地蔵尊:五代将軍綱吉に仕えた大奥の老女・三輪の菩提を弔うため、元文3年(1738)に安置されたもので、右の膝を折り、左脚を下におろした、非常にめずらしい尊像。
 コ藏寺の三輪地蔵は、虫歯の痛みを取り除く効験があると伝えられている。
 本堂左側の植え込みの周囲には、諸国の一の宮の社号を自然石に刻んだ標石が並んでいる。上下大崎、谷山、居木橋の各村や品川宿の人びとによって造立されたもので、六十六部廻国思想にもとづいての造立と考えられているが、民間信仰の形態を示すものとして品川区文化財に指定されている。

 首都高速の下を南に歩き、山手通りを越えて2本目の道を右に折れると左手に案楽寺がある。

「案楽寺」
 安楽寺は、弘治2年(1556)に大僧都良珊和尚が開山したと伝えられる。赤坂山王(山王日枝神社)別当城琳寺末であったが明治元年同寺廃寺に伴い、三田西蔵院末となり、さらに明治43年9月に他の同宗3ヶ寺(観音寺、宝塔寺、徳蔵寺)と共に比叡山延暦寺の直末となった。

 境内には、平井権八・小紫ゆかりの「連理塚」がある。江戸初期寛文年間、鳥取藩士であった平井権八は、同僚ともめ事を起こし、殺害して江戸に出奔。吉原の遊女小紫と恋仲になり、遊ぶ金ほしさに辻斬りをして、大森鈴ヶ森で処刑され、小柴は権八の墓前で自害する。
 浄瑠璃・歌舞伎・映画等の世界では、白井 権八として知られ、「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言や浄瑠璃は「権八小紫物」と呼ばれている。
 また、本堂の手前左側には、足元に塩を供えて願をかける習わしのある「塩かけ地蔵」と悪夢を良夢に変えるといわれている夢達観世音菩薩像が置かれている。

 案楽寺の先左手には氷川神社がある。

「氷川神社」
 氷川神社は、桐ヶ谷村が開拓された江戸期に創建されたものと推定されている。桐ヶ谷村の鎮守で、明治時代に桐ヶ谷村内の八幡神社、諏訪神社、第六天神神社を合社して現在に至っている。
 現在の社殿は昭和13年(1938年)に造営されたもの。

 氷川神社から、不動前駅前の踏切を渡って行くとかむろ坂に出る。

「かむろ坂」
 伝承によるとかむろ坂の名称は、歌舞伎や浄瑠璃の題目として有名な白井権八伝説にちなむものである。
 江戸前期、同じ藩の侍を斬って浪人になった元鳥取藩士平井権八が、その後江戸で辻斬り強盗を働き、その罪で延宝7年(1679)に鈴ケ森刑場において処刑され目黒の冷法寺に葬られた。
 江戸において平井権八と恋仲となっていた吉原の三浦屋の遊女・小紫は、権八の処刑の報を聞いて店を抜け出し、冷法寺に向かい墓前で悲しみのあまり自ら命を絶った。帰らない小紫を心配した三浦屋の下女であった「かむろ」が目黒へと向かい、小紫の死を知った。
 その帰り道に当地の付近で襲われそうになり、桐ケ谷二つ池に飛び込み自害した。これを偲んでかむろ坂の名称がついたという。

 かむろ坂を登ってゆくと右手に行元寺がある。

「行元寺」
 行元寺は、室町時代太田道灌が江戸城を築いた時に地鎮祭を行ったという名僧尊慶(寛永9年寂)が創建したといわれ、日光御門主の訪問があった寺院だという。
 戦火により本堂焼失以後、昭和30年コンクリートブロックの本堂を建て、本尊を安置してあったというが、現在は普通の民家のようになっている。

 行元寺を出て、かむろ坂を登ったところの交差点を右に折れ、暫らく進むと右手に、堂内墓を持つひかり陵苑としても知られる安養院がある。

「安養院」
 安養院は、平安時代に天台宗第三世慈覚大師によって開かれた寺院で、中興開山は唱岳長音木喰上人である。
 寛永元年(1624)に再建され、金色八尺の寝釈迦 (涅槃像)を安置供養され、その像を御本尊としたことで、「寝釈迦寺」と呼ばれ、江戸の昔より長寿とぽっくり信仰で賑わっていた。
 江戸時代建立の山門は奇跡的に戦火を免れており、山門をくぐると右手に姿を現すのが、安養院観音堂。 約四百五十年前に栃木市、定願寺より寄進されたものである。

 安養院から少し先に、関東最古の不動霊場、目黒不動として知られる龍泉寺がある。

「龍泉寺(目黒不動)」
 龍泉寺は大同3年(808)に慈覚大師が開創したと伝えられ、関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、成田山新勝寺の成田不動尊と併せて 日本三大不動の一つに上げられている。
 江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の保護を受け、江戸五色不動の目黒不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)、江戸の三富(龍泉寺と、湯島天神、谷中感應寺[現天王寺])の一つに数えられたという。また、江戸三十三観音霊場の第三十三番札所でもある。
 仁王門をくぐり本堂への石段の左手には、開山の慈覚大師が独鈷で地面を掘ったところ湧き出したという霊水「独鈷の滝」があり、寺号はこの滝から名付けられたものである。現在この泉には、水をかけると厄を洗い流してくれるという水かけ不動が祀られている。

 急な石段を登ると豪壮な本堂があり、その裏手には天和3年(1683)の造立という銅製の巨大な大日如来坐像が露座に鎮座している。なお、不動明王は大日如来の化身といわれている。

 仁王門の手前左側にある比翼塚は、辻斬強盗の罪で鈴ヶ森刑場で処刑された平井権八(歌舞伎では白井権八)と、その後を追って自害した吉原の遊女小紫を供養したものである。
 
 龍泉寺(目黒不動)の山門を出て、左へ龍泉寺に沿った細い道を行った先左手に五百羅漢寺がある。

「五百羅漢寺」
 五百羅漢寺は元禄8年(1695)本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建され、五代将軍綱吉さらに八代将軍吉宗の援助を得て繁栄を誇り、「本所のらかんさん」として江戸庶民の人気を集めていた。何度か天災に遭い、現在の場所には明治41年に移転してきた。
 松雲元慶禅師が10年の歳月をかけて自ら彫った「五百羅漢」の木像は、かつては536体あったが、現在は305体が残っている。
 等身大の羅漢像は一つとして同じものはなく、微笑んでいたり、怒りの表情を示したり、思案するもの、虚空をにらむもの等、表情も姿勢も雰囲気もすべて違っている。
 羅漢像は撮影禁止のため写真はありません。

 五百羅漢寺境内にある「らかん茶屋」で昼食を摂った後、昭和7年(1932)に第1回日本ダービーが開催されたが、周囲の宅地化に伴い、翌昭和8年府中市に移転した目黒競馬場跡(現在は碑が立っているのみ)へ行く予定であったが、雨で寒さもきつくなったので、パスすることにして、山手通りに出て左に折れた先左手の山手七福神の弁財天を祭る蟠龍寺に寄る。

「蟠龍寺」
 蟠龍寺は、慶安元年(1648)に開創した称明院を、増上寺の霊雲上人が宝永6年(1709)に霊雲山称明院蟠龍寺として改名再建した。
 本堂の裏手に弁財天をまつる洞窟があって、「岩屋弁天」と呼ばれるもので、江戸の裏鬼門の鎮守としてここに祭られた。
 江戸の七福神めぐりは享保年間に谷中で始まったという説が有力であるが、蟠龍寺の弁財天ほかの山手七福神が江戸最古という説もあるという。

 蟠龍寺を出て山手通りを左に、目黒通りとの角に、目黒区内で最古の、目黒のお酉さんで知られる大鳥神社がある。

「大鳥神社」
 大鳥神社は、日本武尊の東征にゆかりがあるといわれるこの地に、大同元年(806)創建された目黒区内最古の神社である。江戸地図として古いものとされる「長禄江戸図」に画かれている古江戸9社の1つで、目黒村の総鎮守でもあった。祭神は日本武尊を主神とし国常立尊と弟橘媛命を合祀している。
 毎年11月に開かれる酉の市は、東京では古いものの1つといわれており、現在も都内では有数の賑わいをみせている。この市のいわれは日本書紀に「10月己酉に日本武尊を遣わして、熊襲を撃つ」とあり、尊の出発日が酉の日であったことから、おこったと伝えられている。

 境内には、樹齢は不明であったがアカガシの新変種命名の基準になった「オオアカガシ」があったが、2002年(平成14年)に枯死が確認された上に挿し木も枯損した状態となり、種の系統保存が不可能となってしまい、東京都の天然記念物の碑だけが残っている。
 他に、切支丹灯篭がある。この燈籠は大正15年10月、目黒区千代ヶ崎の大村邸にあったものを高輪日香園がゆずり受け、さらに昭和9年7月に大鳥神社が当時30円で買い求めた。それを昭和38年、現在の守屋図書館に保管方を依頼されたとのことである。この燈籠は元肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷にまつられていたもので、潜伏的信仰の対象物であったと伝えられている。

 大鳥神社を出て、目黒通りを目黒駅方面に歩き、目黒川に架かる目黒新橋のところで右に折れ、目黒川に沿い少し歩くと、多くの浮世絵に描かれた太鼓橋が架かっている。

「太鼓橋」
 江戸時代、ここにはアーチ構造の石橋があり、太鼓橋と呼ばれ、江戸の一大奇矯と評判であった。橋は、明和6年(1769)に鉄砲洲(現在の中央区湊・明石町付近)の人々がお金を出し合って寄進したもの。目黒不動の信者が江戸の各地にいたことがわかる。
 橋は大正9年(1920)に洪水で崩壊、翌年木像の橋が架けられ、昭和7年(1932)に東京市編入を記念して鉄橋となった。現在の橋は平成3年に完成したものである。

 太鼓橋を渡ると右手が目黒雅叙園だ。太鼓橋の袂に、江戸時代から続く創業200年以上の太鼓鰻という鰻屋が営業していたが、閉店していて、ミニスーパーに代わっていた。

「目黒雅叙園」
 1931年に設立された国内最初の総合結婚式場で、その豪華絢爛な建築は「昭和の竜宮城」と讃えられた。園内には、扇面や美人画、花鳥画などの豪華でおめでたいモチーフが多く、至るところで螺鈿細工や浮き彫彫刻が見られた。
 現在の目黒雅叙園は、『千と千尋の神隠し』の舞台モデルともなった「百段階段」を除き、平成3年(1991)の目黒川の拡張に伴う全面改装後のものである。3000点にも及ぶ美術品含め、旧施設の多くも移築復元はされているものの「昭和の竜宮城」と称されたかつての目黒雅叙園そのものではない。

 目黒雅叙園を出て目黒駅へ向かう急な坂道がある。行人坂である。そしてその途中の右手に、江戸の大火「行人坂火事」の火元となった大圓寺がある。

「行人坂」
 目黒駅西口から目黒川に向かう道は下り坂になっていて、目黒通りが権之助坂、その南の細い道が行人坂で、目黒駅前から太鼓橋に向かって一気に下る急坂だ。江戸時代はこの道が主要道で、目黒不動への参詣の道であった。
 行人坂という名は、その途中にあった大圓寺の修験道の行者が、坂道を往来したことから名づけられたといわれている。
 ここは西に開けて眺めがよく、夕日岡の名称でも知られ、また富士山を望む名所でもあり、「江戸名所図会」にも取り上げられた「富士見茶屋」があった。

「大圓寺」
 寛永元年(1624)出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりという。
 明和9年(1772)寺より火を発し、江戸市中628町に延焼し、死者は約17,400人にのぼったとされている。振袖火事車町火事と並ぶ江戸三大火事の一つになり、行人坂火事として安永元年と年号も改められた。このため長い間再建を許されなかったが、嘉永元年(1848)になって薩摩藩島津氏の菩提寺として再興された。現在の本堂はこの時再建された当時の建物である。
 門を入った左手にある五百羅漢の石像は、この大火の犠牲者供養のために当時につくられたものと伝える。およそ520体がひな段状に整然と並んでおり、都内唯一の江戸時代の石造五百羅漢である。
 境内左側釈迦堂の本尊釈迦如来立像は、鎌倉初期の清涼寺式生身の釈迦像であり、胎内に五臓六腑がおさめられている。正面本堂には、江戸城裏鬼門にあたる為徳川家康をモデルに大黒天を祭る。
 また、阿弥陀堂には「木造阿弥陀三尊像」や八百やお七の火事にまつわる西運上人の木像などが祀られている。
 山手七福神の一つで、今日でも参詣者を集めている。

 行人坂を上り、目黒駅にでて解散をする。


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