「誕生八幡神社」
文明年間(1469〜1487年)に太田道灌が夫人の懐妊にあたって、筑前国(福岡県)の宇美八幡をこの地に勧請したものと言われている。無事に男の子が生まれたことから「誕生八幡」と呼ばれ、安産の守り神とされている。門前の推定樹齢250〜300年といわれる大イチョウも、夫婦銀杏と呼ばれ、夫婦和合・安産のシンボルになっている。
ちなみに宇美八幡は神功皇后が応仁天皇を出産した場所とされる安産・子安の聖地である。
9月中旬に行われる「目黒のさんま祭り」はこの神社を中心として行われる。
誕生八幡神社から目黒通りを更に白金方面に進むと左手に、中世の豪族「白金長者」の屋敷跡である自然教育園がある。
「自然教育園」
自然教育園は、正確には「国立科学博物館付属自然教育園」という。自然教育園の森林は、江戸時代には武家屋敷だったこともあるが、昭和24年に天然記念物に指定されてからは、人の手がほとんど加わることなく保護されてきた。このため、武蔵野の森林の原始の姿に近づきつつあるといわれている。
この一帯は、応永年間(1394〜1428年)に南朝の禁中雑色(下級公務員)だった柳下上総之助が館を構えたという。上総之助は「白金長者」と呼ばれ、これが白金の地名になった。園内には館跡の土塁が残っている。
自然教育園内を散策した後、目黒通りを戻り、権之助坂を下り、目黒川のに架かる目黒新橋の手前を右に折れ暫らく進み、田道広場公園の角を左に折れ、目黒川を渡ったところが目黒区民センターで、その前の道の左手前方に「田道庚申塔群」がある。
「田道庚申塔群」
田道庚申塔群は、延宝元年(1673)の銘文のある地蔵1基、延宝5年(1677)から正徳3年(1713)の銘文のある庚申塔6基からなり、当時の民間信仰を今に伝えている。
屋根が作られていて保存状態は良好で、青面金剛、太陽と月、二羽の鶏、三匹の猿の彫刻がそれぞれに確認できる。
庚申塔は、庚申待を3年かけて18回続けた後に、記念として建てたものである。庚申待とは、庚申の日には命が縮められないよう寝ないで過すという民間信仰で、江戸時代には、飲んだり食べたりしながら一晩中語りあかす集まりが盛んに行われた。
庚申塔群の前を通る道は、かつて麻布、青山方面から目黒不動尊への順路で、江戸中期以降はやや町並化された場所であった。
田道庚申塔群の前から、目黒川に架かる田道橋を渡り、田道小の角を左に折れ、すぐ右に入った道が「茶屋坂」で、その傍らに「茶屋坂街かど公園」があり、「茶屋坂の清水」の碑が立っている。
「茶屋坂・爺々が茶屋」
茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。
この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄り、 背後にそびえる富士の絶景を楽しみながら、湧き出る清水でたてた茶で喉を潤したと云われる。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれるようになった。
このエピソードから、古典落語の「目黒のさんま」が誕生したのである。
茶屋坂を上り、広い道路に出たところに「茶屋坂」バス停があり、その先の歩道に「三田用水跡と茶屋坂隧道跡」の碑が立っている。
「三田用水跡」
起源は江戸の六上水のひとつである三田上水であり、寛文4年(1664)に開削され、玉川上水を下北沢村から分水して、代々木・渋谷・目黒・大崎・白金付近まで開渠で導き、伏樋で伊皿子・三田まで給水した。
享保7年(1722)に三田上水は廃止になったものの、分水を農業に用いていた周辺農村の願い出により、享保9年(1724)に三田用水として再開され、世田谷・麻布などの十四ヶ村に給水した。周辺の村では、これを基に開墾が進んだ。
明治時代に入ると、この水を利用した水車小屋が見られるようになり、さらに海軍火薬工場の動力として使用された時期もあった。明治23年(1890)、水利利用組合が結成。豊富な水利に着目して、現在の恵比寿ガーデンプレイスの地にヱビスビールを製造する日本麦酒(後に大日本麦酒に合併)の工場が開設されたのもこの時期である。
20世紀に入り周辺の市街化が進むと灌漑用水としての利用は失われ、戦後は、更に利用の減少が進み、昭和49年(1974)三田用水は廃止された。
坂を上り暫らく進むと山手線をまたぐ跨線橋がある。アメリカ橋と呼ばれている橋だ。
「アメリカ橋」
正式な名称は恵比寿南橋という。もともとはアメリカ・セントルイスで明治37年(1904)に開催されたセントルイス万国博覧会に展示されていたものであった。それを日本の鉄道作業局(当時)が買い取り、鉄製の橋のモデル橋として明治39年(1906)に現在地に架設した。橋は昭和45年(1970)に改築されている。
男性デュオ「狩人」のヒット曲「アメリカ橋」で歌われ有名になったが、歌詞にあるような鉄製の橋は、当時はすでに架け替えられてしまっていた。
アメリカ橋を渡った右手一帯が、サッポロビール恵比寿工場の跡地に造られた「恵比寿ガーデンプレイス」だ。
「恵比寿ガーデンプレイス」
サッポロビール工場跡地の再開発事業として平成6年(1994)に開業した複合施設である。オフィスビル、デパートを含む商業施設、レストラン、集合住宅、美術館などで構成されており、事業主であるサッポロビールの本社も所在する。ビルには、ヱビスビール記念館が併設されている。
明治20年(1887)、日本麦酒醸造(のちの日本麦酒→サッポロビール)の工場がここに創業し、同22年から「恵比寿麦酒」が発売された。そして、このビールを工場から出荷するために、工場の前から造られた坂道が「ビール坂」である。
やがて鉄道が開通、ビールの出荷は鉄道によるものとなった。すると、工場近くの貨物駅で明治30年(1897)からビールの積み出しを行っていたが、その4年後、この貨物専用駅が旅客輸送を開始することになった。その時に付けられた駅名が「恵比寿」である。
昭和63年(1988)7月20日、渋谷区近辺の都市化や、郊外への工場移転が進んだことに伴い工場は閉鎖。土地の再開発事業が平成3年(1991)8月26日に開始され、平成6年(1994)10月に恵比寿ガーデンプレイスとして竣工した。
サッポロビールの本社の地下にあるヱビスビール記念館は、ビールの歴史や科学、ビールがもたらす食文化の楽しさなど、ビールに関する情報を
提供している、日本国内では 珍しい、単独商品のブランドを冠した記念施設。
ここでは、ヱビスの歴史などの説明の後、試飲タイムがあり、美味しい飲み方などが楽しめるヱビスツアーがある。(40分のコースで、有料)
ヱビスビール記念館を見学し、恵比寿ガーデンプレイス内にあるビヤステーション恵比寿で昼食を摂った後、サッポロビール本社の前から加計塚小の脇の、ビール工場が創業した当初、ビールを工場から出荷するために、工場の前から造られた「ビール坂」を下り、都道305号の恵比寿四丁目交差点を直進し、恵比寿橋の手前を左に折れると、左手に台雲寺がある。
「台雲寺」
台雲寺は、寛永7年(1630)麻布一本松に創建、僧台雲洞遠が臨済宗寺院として創建したといい、その後、曹洞宗の僧流繁林水が再興し、これから曹洞宗になった。
観音堂、稲荷社、鐘楼(梵鐘の銘元禄九年)があった。観音は、伝行基作。見返観音といわれて、古来有名である。明治23年(1890)、現在の場所に移り、現在はビルになっている。
明治27〜8年(1894〜5)の日清戦争に従軍し、戦没した日本軍人の慰霊碑とともに、相手側の清国軍人の霊を弔った石碑が明治30年にたてられていて、当時の人々の博愛思想を知ることができる。
また、この戦没に従軍して犠牲となった軍馬をあわれみ、
みいくさを のするのみかは かてをさへ はこぶ馬の ちからなりけり
という歌を刻んだ珍しい軍馬の碑もある。
境内の墓地には、浮世絵師歌川国宗の墓がある。
台雲寺の前の道を進み、駒沢通りに出たところを右折し、すぐの渋谷橋交差点を左折した先右手に、福昌寺がある。
「福昌寺」
寛文10年(1670)の火災で記録などを焼失したため、創建の年代は定かではないが、慶長2年(1597)に遷化した桂岩宗嬾大和尚を開山としているので、室町時代末ごろの草創といわれている。
4階建てのコンクリート造りの近代的な建物は戦後に建てられたもので、本堂、閻魔堂などがある。寺門を入った左には南北朝時代の作と推定される石棺仏があり、渋谷区の有形文化財に指定されている。
石棺仏とは、古墳時代の石棺の内側に仏像を彫り込んだもので、ここの石棺仏は、 家型石棺の蓋を利用し、その内側に阿弥陀如来立像が蓮台の上にあらわされ、彫りの浅い舟形光背を備える形で刻まれている。
阿弥陀如来立像が彫られた時期は、その像容やほかの作例の年紀から南北朝時代と考えられる。
伝来の詳細については不明だが、和歌山県那賀郡から運ばれて来たとされるこの阿弥陀石棺仏は、昭和25年に造園業の東光園が入手して、福昌寺に寄進したものである。
現存する阿弥陀如来が彫られた石棺仏の多くが坐像であり、この石棺仏のような立像形は珍しいようである。
福昌寺を出て、その先の信号を左に折れ、庚申橋を渡った左手に「庚申橋供養塔」がある。
「庚申橋供養塔」
庚申橋のたもとにある橋供養塔という珍しい碑。寛政11年(1799)に建てられたこの碑は、四面すべてに橋講中の世話役や万人講及び個人の名が、渋谷、麹町、赤坂、芝、麻布、四谷、大久保、池袋、市ヶ谷、目黒、中野、世田谷、荻窪と広い範囲にわたり刻まれており、この橋が江戸時代重要な交通路であったことがわかる。
庚申橋の先を左に折れ駒沢通りに出て右折するとすぐJR恵比寿駅だ。今回はここで解散。
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