山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.19


第19回 恵比寿駅〜「夕やけこやけ」の碑〜目黒元富士跡・猿楽塚・旧朝倉家住宅〜正覚寺〜
      中目黒八幡神社〜天祖神社〜祐天寺〜葦毛塚の碑〜壽福寺・川井権兵衛の墓〜烏森稲荷神社〜
      西郷山公園〜猿楽古代住居跡〜渋谷駅

H29年5月16日
                                                      

 10:00、JR恵比寿駅西口に9名が集合、暑くもなくウォーキング日和だ。駒沢通りを中目黒方面に少し歩き、恵比寿南交差点を右折、次の信号を左に折れると長谷戸(ながやと)小学校の門前に「夕やけこやけ」の碑がある。

「「夕やけこやけ」の碑」
 作曲者の草川信が、音楽学校卒業後、大正6年(1917)長谷戸小学校に音楽教師として着任したことから、長谷戸小学校創立75周年の際に記念碑が建てられた。作詞は中村雨紅
 中村雨紅は、大正5年(1916)に東京府北豊島郡日暮里町第二日暮里小学校の教師となり、大正7年に日暮里町第三日暮里小学校へ転勤、第三日暮里小学校在職中に夕焼小焼の作詞が行われたため、現在の荒川区立第二日暮里小学校には「夕焼け小焼けの記念碑」が、荒川区立第三日暮里小学校には「夕焼け小焼けの記念塔」が建立されている。
 この歌の情景は、雨紅の故郷である東京府南多摩郡恩方村(現在の東京都八王子市)のもので、彼の生家の近くには「夕やけ小やけふれあいの里」がある。

 長谷戸小から代官山駅前を通り、旧山手通りの代官山交差点を渡った先右手に、旧朝倉家住宅がある。

「旧朝倉家住宅」
 旧朝倉家住宅は、渋谷区猿楽町、台地が目黒川の谷に落ち込む南西斜面に、東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎治郎によって、1919年(大正8年)に建てられた。大正期の和風2階建て住宅の趣のある建物と回遊式庭園を見ることができる。
 主屋は、木造2階建てで、ほぼ全室が畳敷き、屋根は瓦葺、外壁は下見板張、一部が漆喰塗りとなっており、明治時代から 昭和30年頃までに建設された大きな邸宅の特徴を顕著に表している。
 現在の所有者は文部科学省で、重要文化財に指定されている。

 旧朝倉家住宅の門と道を挟んだ一角に、大山道、祐天寺道の道しるべともなっている小さな地蔵尊があり、その先「キングスホーム代官山」の入口右手に目黒元富士跡の説明板がある。

「目黒元富士跡」
 マンションの敷地内にはかつて高さ12mの富士塚 があった。文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々が築き、文政2年(1819)に別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとそれを「新富士」といい、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになった。
 両富士塚は歌川広重の「名所江戸百景」に「目黒元不二」「目黒新富士」として描かれている。元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2-16-21)へ移された。

 代官山の旧山手通りに面して建つヒルサイドテラスの一角に、古墳時代の円墳、猿楽塚がある。

「猿楽塚」
 6〜7世紀の古墳時代末期の円墳で、死者を埋葬した古代の墳墓の一種である。ここにはその円墳が2基あって、その二つのうち高さ5mほどの大型の方を、むかしから猿楽塚と呼んできた。この塚があることから、このあたりを猿楽といい、現在の町名の起源となっている。ここにある2基の古墳の間を初期の鎌倉街道が通っていて目黒川へくだっていた。
 頂上には、大正時代に建立された「猿楽神社」が鎮座している。猿楽神社は、この地に移住した戦国時代からの旧家朝倉家が、大正年間に塚上に社を建立したもので、現在、天照皇大神、素戔嗚尊、猿楽大明神、水神、笠森稲荷を祀り、一族をはじめ、近隣在郷の信仰を集めている。

 旧山手通りから駒沢通りへ出て、中目黒方面に下り、山手通りを越えた左手に正覚寺がある。

「正覚寺」
 実相山正覚寺は、元和5年(1619)に日栄上人によって開かれた日蓮宗の寺。初めは碑文谷法華寺(現、円融寺)の末寺だったが、元禄の頃、不受不施問題の影響を受けて身延山久遠寺末になった。
 仙台の伊達家との関係が深く、4代藩主綱村の生母である三沢初子が本寺住職4世日猷、5世日登両上人に深く帰依し、客堂や庫裡等は初子の邸宅が寄進されて建てられたといわれている。
 初子は浄瑠璃や歌舞伎で有名な「伊達騒動」の登場人物「先代萩の政岡」のモデルともいわれる人物である。また、綱村も生母初子の菩提を弔うため当寺へ特別の保護をしたといい、現在も伊達家の紋の入った建具などが残されている。
 墓地には三沢初子の墓があり、境内には6代目尾上梅幸の弟子尾上梅朝が演じた先代萩の政岡を元に、昭和9年(1934)に建てられた初子の銅像がある。

 駒沢通り、正覚寺の先の信号を左に折れ少し行った右手角に、中目黒八幡神社がある。

「中目黒八幡神社」
 旧中目黒村全体の鎮守で、誉田別命(応神天皇)を主神とし、天照大神を合祀している。
 創建以来、幾度か火災にあい記録や資料に乏しく、創建年代は不明、現在の建物は堂々とした八棟づくりで昭和11年9月の落成である。
 入り口の右側には御神水、左側には、たくさんの小石が積み重なってできた岩のようなもの、「君が代」の歌に登場する「さざれ石」があり、境内には高さ30mをこえる榎の銘木やいちょう、けやきしいなどの古木が茂り、泉が湧き出ている静寂な環境をつくっている。

 中目黒八幡神社の脇の道を進み、駒沢通りに出ると、その向こう側に天祖神社がある。

「天祖神社」
 古くから伊勢森と言うこの地に鎮座している神社で、天照大神を祭神として祀り、地元人の深い崇敬を受けている。創建の年代は不明だが、境内には樹齢数百年と推定される老樹が多く、その年代から考えてもかなり古い時代の創建と思われる。現在の社殿は昭和8年5月に新築されたもの。
 境内には、宝永5(1708)年と、道標をかねている享保元(1716)年の2基の庚申塔が建立されている。

 駒沢通りを暫らく下ると左手に祐天寺がある。

「祐天寺」
 祐天寺は、享保3年(1718)祐天上人を開山と仰ぎその高弟祐海上人が創建した寺院。当時新しい寺院の建立は幕府の厳しい制約があって困難だったが、祐天上人のかねてからの強い希望と、祐海上人の大変な努力によって、享保8年「明顕山祐天寺」の寺号が許された。以来、将軍吉宗の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄えてきた。
 本堂には、「木造祐天上人坐像」が安置されている。この尊像は、将軍綱吉の息女松姫の寄進で、享保4年大仏師法橋石見の名作である。
 境内には、将軍綱吉息女竹姫寄進の「仁王門」および阿弥陀堂や稲荷堂、将軍家家宣夫人天英院寄進の梵鐘と鐘楼、地蔵堂など江戸時代の遺構を伝える建造物のほか、江戸消防ゆかりのもの、かさね供養塚などがある。

 祐天寺参拝後、駒沢通りの目黒税務署前信号を右折し、祐天寺駅前に出て、昼食をとる。駅西口側に出てその通りを暫らく進み、田切公園の信号を右折、すぐの狭い道を左に折れ、信号を右折、目黒区と世田谷区との区境を成す道路の中央に、シラカシやサイカチなどが繁った「葦毛塚」がある。

「葦毛塚」
 源頼朝が、葦毛の馬にのって、この地を通ったときその馬が何かに驚いて沢に落ちこんで死んだという。
 また、一説に鎌倉将軍の世、この地の領主北条左近太郎が仏経をもって出かけたが、その葦毛の乗馬が突然たおれたのでここに、埋めたともいう。
 いずれにせよ、遠い昔から葦毛塚と呼ばれていたらしい。このあたりは古くから馬の放牧場であり、馬に関した地名や伝説が多い。

 葦毛塚から進み少し広い道に出て左折、蛇崩れの五差路を右斜めに進み半兵衛坂を上った左手に壽福寺がある。

「壽福寺」
 「新清山観明院壽福寺」といい、天台宗でご本尊は阿弥陀如来である。元和元年(1615)鳳算大阿闍梨が創建されたと伝えられているが、当境内にある鎌倉時代の板碑から、草創はさらにさかのぼるものと推定される。この寺は、享保の頃(1716-1735)中興の英主といわれる孝順大和尚のとき、上野護国院の末寺として大いに栄えた。
 現在の本堂は、昭和50年に、建替えられたが、それまでの本堂は明治13年に行人坂の明王院念仏堂を移建したもので、その「念仏堂」の由緒ある扁額は今も掲げられている。また、本堂には木彫彩色の青面金剛立像が安置されている。
 門前には、相生地蔵とよばれ信仰されている2體の延命地蔵尊や庚申塔などが立っている。また、宿山の烏森稲荷は元禄の頃(1688-1703)に当寺境内の稲荷社を移したもの。
 道を挟んで、壽福寺の墓地があり、将軍の綱差役を代々務めた川井権兵衛の墓がある。

 初代の川井権兵衛は雉取りの名人と言われ現在の町田市の出で、吉宗将軍の享保3年(1718)江戸に召し出され綱差役見習いに取り立てられ、享保6年正式に、目黒筋の綱差役に任命された。
 綱差役とは、江戸幕府の役職で、将軍の鷹狩りに備え、狩場の整備、鶴・雉・鶉等の捕獲、養殖そして鷹狩の時、予め羽を少し抜き取った鳥類を適時適所で放ち鷹に確実に獲物を取らす影の演出者となる事や他場所の狩りには鳥類を移送するなどの援助を行う役である。
 目黒筋の綱差はその後川井家の世襲となり権兵衛を襲名し、幕末まで約150年間7代に及んだ。

 壽福寺の墓地前の「宿山の庚申塔」がある5差路を右斜めに折れ、暫らく進み、烏森小学校の前を通った先に烏森稲荷神社がある。

「宿山の庚申塔」
 向って右から2番目の庚申塔は、元禄5年(1692)の造立で本尊を青面金剛とし、日月、二鶏と三猿が正面左右の三面にそれぞれ一猿ずつ浮き彫りされている。
 その左の庚申塔は、地蔵菩薩を本尊とするもので、延宝3年(1675)に造立された。
 いちばん左の庚申塔は宝永5年(1708)の造立で、青面金剛、日月、二鶏、三猿が刻まれている。






「烏森稲荷神社」
 この神社は、旧上目黒村宿山組の鎮守で祭神は蒼稲魂命。創立年月は不明だがかなり古く、下馬引沢村の新堀新左衛門が寿福寺の境内に祀ってあった稲荷神をこの地に移したと伝えられている。農耕神として農作守護と村人の授福開運を祈願して崇敬されてきたのであろう。
 その昔、宿山稲荷講の人達が江戸新橋の烏森稲荷へ参拝に行った時に、狐が白い馬になってついてきたのでそれを祀ったのが始まりという伝説もある。また昭和29年草葺屋根を瓦葺にふきかえた時に、雨乞い祈願をしたものと思われる黒馬が一頭奉納されてあったことがわかった。
 境内には老樹が生い繁り、今だに湧き清水などあって閑寂な境地をなしている。

 烏森小の前からKKRホテル中目黒の脇を通って、壽福寺前の通りに出て右にしばらく進む。山手通りと目黒川を渡り西郷山下信号を右斜めに坂を上ると左手が西郷山公園である。

「西郷山公園」
 公園名の由来はこの土地が旧西郷邸西郷隆盛の弟で明治期の政治家・軍人であった西郷従道の敷地)の北東部分にあたり、付近の人々が「西郷山」という通称で親しまれていたところから決まった。
 台地の端の斜面を利用してつくられた公園で、斜面には20メートルの落差をもつ人工の滝が作られているほか、ゆるやかな坂道の園路や展望台が設けられ、冬のよく晴れた日には遠くの富士山も望める。
(残念ながら、今日は富士山を望めなかった。)
 台地の上には、明るい芝生広場とこれを一周する園路・人工の流れを配し、子どもたちがのびのび遊べるスペースになっている。

 西郷山公園を出て、旧山手通りの都立第一商高信号を高校に沿い折れ暫らく進み、猿楽町交差点を右に折れると右手に猿楽古代住居跡がある。

「猿楽古代住居跡」
 昭和52年(1977年)に行われた発掘調査で、壺や甕(かめ)、高坏(たかつき)などの破片が出土した。その模様から弥生時代後期のものであると推定され、同時に大型の住居跡が発見された。
 渋谷区は古代住居を復元したが、その後焼失したため、現在はコンクリートで固めて住居跡が保存されている。
 住居跡の脇には当時の周辺の地形などの模型を展示する小さな施設があり、住居跡は渋谷区の史跡に指定されている。ふだんは訪れる人も少ないが、約2000年前に古代人が居住していた時代をしのばせる。
 公園の奥には、猿楽周辺にあった廿三夜塔庚申塔などが移設されている。江戸時代に流行した民間信仰のひとつに、二十三日の夜に集まって月の出を待つ講中(グループ)があった。これを廿三夜講といい、室町時代からすでに行われており、それを記念して建てられたものが廿三夜塔である。

 猿楽古代住居跡から猿楽町交差点方向に戻り暫らく進み、玉川通りに出たところが渋谷駅で、ここで解散。


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