山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.2


 第2回  新宿駅〜新宿中央公園〜熊野神社〜成子天神社〜稲荷鬼王神社〜抜弁天〜小泉八雲記念公園
       〜高麗博物館〜皆中稲荷神社〜新大久保駅
                   H27年4月16日

 10:00、新宿駅西口交番前に、10名が集合、中央通りを歩き都庁第一庁舎へ。今日は天気も良いので、45階の展望室に上る。ちょうど「全国物産展」を開催していることもあってか、展望室へのエレベーターは15分待ちだ。少し春霞がかかっているが、地上202mからの展望を楽しみ、物産展をちょっと見て地上に戻る。


 都庁から新宿中央公園に入って、公園の奥にある熊野神社へ。

「熊野神社」
 十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394〜1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現を移し祠ったものと伝えられる。(一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532〜69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいわれる)
 熊野から勧請したのは熊野本宮・新宮・那智の三所の権現をはじめ、四所の明神、そして五所の王子(熊野を遥拝する社)で、これらを合わせると12になることから、江戸時代には熊野十二所権現と呼ばれた。このあたりの「十二社」という地名はこれに由来する。
 享保年間(1716〜1735)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れたという。(池は昭和43年(1968)7月に埋め立てられた)
 明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっていおり、新宿の総鎮守となっている。

 熊野神社を参拝した後、「新宿中央公園北」交差点から公園通りを左折し、青梅街道に突き当たった「成子天神下」交差点の角に成子地蔵がある。

「成子地蔵」
 享保12年(1727年)勝厭という道心者が、回国巡礼を終えた帰路に建てたものといわれている。もとは四尺九寸(約148.5cm)の石像だったが、第二次世界大戦の戦災に遭い、新たに建てられた。
 由来については、子煩悩な父親がわが子を誤って殺してしまった末、自殺を遂げたという哀れな伝説も残されている。小さな祠に祭られた地蔵は子安地蔵と呼ばれる。
 付近にある「成子坂」は、天正年間(1573〜92年)、常円寺の創建に助力した源左衛門が往来にむしろを張り、にごり酒などを置いて商いをして、合図に「鳴子」を取りつけたことから、もとは「鳴子坂」と呼ばれた。やがて、享保年間(1716〜36年)に地蔵が建てられてからは、「地蔵坂」とも呼ばれるようになった。 

 成子地蔵の前から青梅街道を渡り、新宿方面にちょっと行くと左手に成子天神社がある。

「成子天神社」
 延喜3年(903年)の創建と伝えられる古社で、祭神は菅原道真。その後鎌倉時代、源頼朝により社殿が造営された。しかし江戸時代に入り寛文年間に起きた火災によりそれまでの記録や社宝などが焼失し、現在地に移転。その後第二次世界大戦中にも空襲により社殿が焼失し、1966年に鉄筋コンクリート製の社殿を造り現在に至っている。
 社殿の前の植え込みの中に、半ば地面に埋もれるようにして力石が置かれている。幕末から明治期にかけてのものとされ、村の若者たちが石を持ち上げ力比べをしたものである。
 また、境内奥には富士塚がある。高さは約12メートルで大正9年(1920年)に作られたもので、新宿区内では最大規模。山頂には木花咲耶姫命の像がある。
力  石 富士塚

 成子天神社を参拝後、税務署通りに出て右に折れ、中央線と山手線のガードをくぐり、職安通りに名前が変わると共に、ハングル文字の看板が目立つようになってくる。そのまま進み、「鬼王神社前」交差点を越えた右手に稲荷鬼王神社がある。

「稲荷鬼王神社」
 天保2年(1831年)、大久保村の氏神であった稲荷神と、熊野から勧請されていた鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社となった。熊野の鬼王権現は現存していないため、「鬼王」の名を持つ日本唯一の神社となっている。また、大祭で担がれる宮御輿は、鬼面が彫られた珍しいものである。
 祭神は、稲荷神の宇迦之御魂神、鬼王権現の月夜見命・大物主命・天手力男命。また、大久保村が祀っていた神々(火産霊神など)も明治時代に合祀されている。神社の名前から誤解されやすいが、「鬼」を祭神としているわけではない。
 他、平将門の幼名が「外都鬼王」「鬼王丸」といったことから、名前を取ったという伝承もある。

 境内左手に三島神社が祀られ、新宿山の手七福神中の恵比須神として崇敬されている。
 社の左手に「水琴窟」が、右手には「かえる石」がある。かえる石に水を架けながらさすり、「無事かえる」などと願うのだという。

 稲荷鬼王神社をお参りした後、職安通りを進み、明治通りを越え暫らく歩き、余丁町通りとの交差点「抜弁天」の角に抜弁天がある。

「抜弁天」(厳島神社)
 応徳3年(1086)鎮守府将軍源義家が後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのが当厳島神社の始めと伝えられる。
 参道は南北に通り抜けでき、これを「苦難を切り抜ける」として、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられている。
 ちなみにこの一帯は、五代将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」を受けて、犬小屋が建てられていたところで、犬小屋は2万5千坪、最も多いときで10万頭の犬が収容されていたという。

 抜弁天をお参りしたあとは、再び職安道りを新大久保方面に戻り、「鬼王神社前」交差点を右に細い道を入ると、右手に大久保小学校があり正門脇に、「小泉八雲舊居跡」の碑と「小泉八雲終焉の地」の碑が立っている。その前の細い道を入って行くと右手に「小泉八雲記念公園」がある。

「小泉八雲記念公園」・「小泉八雲終焉の地」
 『怪談』などの著作でよく知られる小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、明治35年(1902)3月19日に、旧板倉子爵邸を買い取って市谷富久町より移転して、ここに住みました。明治37年(1904)9月26日に心臓発作により、ここで亡くなった。記念公園は、新宿区と小泉八雲の生まれ故郷であるギリシャのレフカダ町とが友好都市提携をしたことを契機としてつくられ、平成5年(1993年)に開園した。
  園内にはギリシャ政府から送られた小泉八雲の胸像があり、その周辺のギリシャ風の古代柱と花壇などが普通の公園とはやや趣を異にした雰囲気をつくり出している。
「小泉八雲舊居跡」と「小泉八雲終焉の地」の碑 小泉八雲記念公園

 職安通りに戻り、近くの韓国料理店で昼食を摂る。食後に、隣の第二韓国広場ビル7階にある高麗博物館を見学する。

「高麗博物館」
 日本とコリア(韓国・朝鮮)の交流の歴史や文化を相互に学び、友好を深める目的で、平成13年(2001年)にオープンした。
  館内ではこれまでの日本とコリアの交流・歴史をパネルで細かく紹介するほか、日本の植民地支配や在日韓国・朝鮮人の抱える問題なども詳しく紹介している。また、館内では民族衣装や工芸品なども合わせて展示している。

 新大久保駅まで戻り、駅前の大久保通りを大久保方面にちょっといった左手に皆中稲荷神社がある。

「皆中稲荷神社」
 皆中稲荷神社のある百人町は、慶長7年(1602)に江戸の西側の守りとして設立された「鉄砲組百人隊」の屋敷があった場所である。
 天文2年(1533年)9月のある夜、稲荷大明神が鉄砲組与力の夢枕に立ち射撃を伝授した。その後に射撃練習をしたところ、百発百中、皆的中したということから、「みなあたる(皆中)稲荷」と呼ばれるようになった。その後「当たる」ものにご利益があると人気をあつめ、現在は「賭けごとの神」として親しまれている。
 また、鉄砲百人組の武士たちは内職にツツジ栽培を行っていて、当時はツツジの名所であった。境内には、数は少ないがツツジの植え込みがあり、わずかながら往時の名残を伝えている。

 皆中稲荷神社にて、宝くじなどの当りを祈願し、新大久保駅まで戻り解散する。



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