山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.20


第20回 渋谷駅〜道玄坂の碑〜駒場野公園・ケルネル田圃〜東大キャンパス(嗚呼玉杯の碑・駒場農学碑)
      〜駒場公園〜鍋島松濤公園〜竹久夢二旧居跡〜国木田独歩旧居跡・二二六事件慰霊碑〜渋谷駅
H29年6月20日
                                                      
 梅雨の晴れ間の一日、10:00に渋谷駅モヤイ像前に8名が集合。
 渋谷駅前の待ち合わせ場所は、二つある。「忠犬ハチ公像」前と西口にある「モヤイ像」前だ。

「忠犬ハチ公像」
 ハチは大正12年(1923)11月10日、秋田県大館市生まれの秋田犬で、飼い主の東京帝大の上野英三郎教授が死亡した後も駅前で帰りを待ち続けた「忠犬」として知られ、昭和9年(1934)に渋谷駅前に銅像が設置された。この銅像は戦争で供出され、現在の銅像は昭和22年(1947)に再建されたものである。
「モヤイ像」
 昭和55年(1980)に、新島の東京都移管100年を記念して、新島から渋谷区へ寄贈されたものである。イースター島モアイ像に似ているが、胴体部分はなくウェーブのかかった頭髪を加えたようなデザインとなっている。

 まずは道玄坂を歩き始める。途中にある百軒店の入口を見ながら進むと、道玄坂上交番前の交差点左角に、道玄坂の碑与謝野晶子歌碑がある。


「道玄坂の碑」・「与謝野晶子歌碑」
 渋谷道玄坂
 渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(1525年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸に運ぶ大切な道だった。
 やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷付近はひらけだした。近くに住んだ芥川龍之介・柳田國男がここを通って通学した。坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した思いでもある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の町として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことだろう。

 与謝野晶子の歌碑
   母遠(とほ)うて瞳(ひとみ)したしき西の山 相模(さがみ)か知らず雨雲(あまぐも)かゝる
 歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治35年(1902)4月に発行された東京新詩社の機関誌「明星」に収められているす。晶子は、前年に、郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚した。
 みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端を、この一首の短歌は語っている。なお、この歌碑に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字。

 道玄坂上交番前の交差点を右斜めに、裏通りを歩き、旧山手通り神泉駅入り口交差点を横切り山手通りに出る。その角に、石橋供養塔碑がある。

「石橋供養塔碑」
 この碑は正面に刻まれた「文化九年壬申 石橋供養 九月吉祥日」の銘より文化九年(1812)に建立されたことがわかります。
 正面上部には梵字が、下部には三田用水沿いの中目黒村、白金村、北品川村など13ヶ村の名が刻まれています。碑の右面には滝坂道沿いの若林村、経堂村、上祖師谷村など20余ヶ村の名、左面には建立に尽力した石工の名が刻まれています。この碑の前は、甲州街道に合流する古道「滝坂道」の一部にあたります。
 碑に刻まれた内容から約70m東(左手)の尾根筋を流れていた三田用水に架かる石橋に感謝し建立したものと推測されます。昔は2mに満たない用水路でも、悪天候では増水するなど交通の障害になりました。この碑に刻まれた村名が広範囲にわたることから安全に通行できる堅牢な石橋が人々の生活に極めて重要であったことをうかがうことができます。
 当初は橋の脇(現青葉台4-2-24付近)に建てられていたと考えられますが、昭和47年にこの地で発見され、マンション住人の方々により保存・修復されここに設置されました。(目黒区教育委員会)

 山手通りの松見坂交差点を右に、淡島通りを暫らく進み、駒場高校の先、朝日マンション駒場の角を右に折れ、駒場東大前駅方面に向かう。
 駒場東大前駅西口ところで一旦井の頭線の線路を越え、左に進み再び線路を越えたところが駒場野公園の入り口だ。

「駒場野公園」
 この一帯は、かつて人の背ほどもある笹が一面に生え、ところどころに松林がしげる広い原野で、駒場野と呼ばれていた。
 明治になると、農業の近代化を図るため、この広い原野を利用して駒場農学校が開校し、近代農業の総合的教育・研究の場となった。明治14年この農学校にドイツ人ケルネル氏が農芸化学の教師として着任し、土壌や肥料の研究を行って大きな成果をあげた。 園内にある水田はこの実験を行った場所で、農学発祥の地「ケルネル田圃」と呼ばれ、稲作は筑波大学付属駒場中・高校の生徒によって今でも行われている。
 駒場農学校はその後東京農林学校、東京帝国大学、農科大学等を経て、東京教育大学農学部となり、昭和53年に筑波へ移転した。その移転跡地に造成されたのが駒場野公園である。

 駒場東大前駅前に戻り、東京大学駒場地区キャンパスに入る。

「東京大学駒場地区キャンパス」
 もともとこの地区は、現在の東京大学農学部の前身である駒場農学校(その後東京農林学校→東京帝国大学農科大学と改称)の校地であったが、1935年、東京大学農学部は向ヶ丘(本郷校地の一部)の旧制第一高等学校と校地を交換して移転し、代わって移転してきた旧制第一高等学校は、新制東京大学に包括され廃止になるまでここを校地とした。そして新制大学移行により、旧制第一高等学校に代わり東京大学教養学部がこのキャンパスに設置され、現在に至っている。

・嗚呼玉杯の碑(一高寮歌碑)
 昭和31年に建てられた、代表寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」(明治35年制作)の記念歌碑。背面の由来文に「明治卅五年矢野勘治君作詞楠正一君作曲の嗚呼玉杯の歌は永く愛唱せられ開校以来の端艇部歌に代りて校歌とし稱すべきものとなり遂に廣く一般に流傳して青春の徒を感奮興起せしめたり(中略)今年二月同窓有志嗚呼玉杯會を結成し歌碑を駒場の校址に建て後世に傳へんことを謀り十一月その工を竣ふ」とある。

・駒場農學碑
 一高と敷地交換するまで当地に在った東京帝大農学部及びその前身の駒場農学校を記念して昭和11年に建てられた。

・駒場池(一二郎池)
 キャンパス東部にある池は、学生の間で本郷キャンパスの三四郎池に倣い、「一二郎池」と呼ばれていたが、2008年12月に学内公募によって正式名称が「駒場池」、愛称が「一二郎池」と決定された。

 キャンパス西部にある、研究者交流と外国人研究者宿泊のための施設となっている駒場ファカルティハウスに入っているフランス料理レストラン「ルヴェソンヴェール駒場」で昼食を摂る。
 このレストラン部分は旧一高同窓会館洋館を改築したもので、その庭の端に嗚呼玉杯の碑(一校寮歌碑)がある。

 一旦西門より出て、隣接する駒場公園に行く。

「駒場公園」
 駒場公園は、加賀百万石(今の石川県)の当主だった旧前田家の前田利為侯爵駒場邸跡である。
前田侯爵がこの地に邸宅をかまえたのは昭和のはじめのこと。
 明治11年設立以来、近代農業に輝かしい業績を残した駒場農学校(後の東京帝国大学農学部)が本郷に移転した跡地を、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)、東京農業教育専門学校(東京教育大学農学部、現在の筑波移転跡地)とともに分割使用したものである。
 建物は、昭和初期の和洋両建築の粋を集めたもので、化粧レンガやタイル張りのほどこされた洋館は昭和4年、書院づくりの和館は昭和5年に完成し、自然の巨木を生かし、名石をあしらった幽すいな奥庭や、芝生の広場が設けられた。
 和館は現在1階部分が一般に開放されていて、玄関からニの間、一の間(表座敷)と続く広間や、重厚な床の間、違い棚、付書院、欄間の透し彫などを備えた美しいつくりを、昔のままに見ることができる。
 洋館も一般に開放されていたが、現在は改修中のため残念ながら見学できない。
 和館北側には日本近代文学館が設置されて、近代文学に関する資料が閲覧できる。

 西門より再びキャンパス内に戻り、キャンパス中央の銀杏並木を歩き、キャンパス東部にある駒場池(一二郎池)を見て、炊事門から出て、山手通り方面に向かう。山手通りの松濤二丁目交差点を横切り、少し先を左折し松濤美術館の前を通って歩くと右手に、鍋島松濤公園がある。

「鍋島松濤公園」
 旧佐賀藩主鍋島家は、紀伊徳川家の下屋敷の払い下げを受け、明治9年(1876)に茶園を開いて「松濤」の銘で茶を売り出した。
 茶園が廃止されてからは、湧水地を中心とする一画が児童遊園として公開され、昭和7年(1932)に東京市に寄贈された後、渋谷区に移管された、水車と池がある緑ゆたかな公園である。

 鍋島松濤公園を出て、文化村通りから、東急本店の前の細い道(夢二通り)を入り、井の頭通りに突き当たる少し手前の右手に竹久夢二旧居跡の石柱が立っている。
 そこから、井の頭通りを左に進み、NHKセンター下交差点を右に折れた少し先、歩道の車道寄りに国木田独歩旧居跡の木柱がある。

「竹久夢二旧居跡」
 数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある竹久夢二が38歳の大正10年から14年にかけて住んでいたところである。

「国木田独歩旧居跡」
 国木田独歩は、明治4年(1871年)銚子に生れ、作家としてデビューする直前、明治29年9月から、山路愛山の紹介で二十代半ばの一時期をここで過ごした。
 当時このあたりは、小川や林などの自然が豊かで、ここでの生活や風光をもとに、有名な「武蔵野」などの名作を書いた。「源叔父」「欺かざる記」もここで執筆したが、翌30年6月麹町に移った。

 国木田独歩旧居跡の木柱の前を更に進み、信号のある右ト字路の角に二・二六事件慰霊碑がある。

「二・二六事件慰霊碑」
 昭和11年2月26日未明、東京衛戌の歩兵第一第三連隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企図していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて決起した。当時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
 決起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸陸軍省警視庁等を占拠した。
 斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣、牧野前内大臣は危うく難を免れた。此の間、重臣警備の任に当たっていた警察官のうち5名が殉職した。
 決起部隊に対する処置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮圧に変転したが2月29日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。世に是を二・二六事件という。(碑銘文より)
 ここは、その首謀者たちが刑死した陸軍刑務所跡である。慰霊碑は事件関係犠牲者の霊を慰霊するため、昭和40年に事件30年を記念し建てられた。


 井の頭通りから、渋谷駅にでて解散をする。


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