「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」
昭和50年(1975)、渋谷区議会議員の故白根全忠氏から区に寄贈された宅地、邸宅をもとに、 区に関する資料の保管・展示の場として利用に供されてきた「白根記念郷土文化館」を平成17年に全面改築し、新たに文学館を併設し、郷土の歴史と文化を学び、新たな“渋谷らしさ”の創造を目指す施設としてに生まれ変わった。
常設展示では、渋谷の先史から現代までの歴史展示、特別展示、文学館展示などがあり、戦前の住宅が再現され、江戸時代の道具や縄文土器に触れることができる。
「常盤松の碑」
この一帯は大正10年(1912)頃まで皇室の御料乳牛場で、構内に常盤松と呼ばれた樹齢約400年、枝ぶりのみごとな松があった。その松は源義朝の側室、常盤御前が植えたという伝説があり、また一説には世田谷城主吉良頼康の側室、常盤のことであるとも言われるが、はっきりしたことはわからない。
この近くにはかつて渋谷城があり、渋谷一族の金王丸は義朝、頼朝の2代に仕えた臣なので、常盤御前が植えたという伝説が生まれたのであろう。
この碑は御料地になる以前に、その土地が島津家の持地だったことがあり、そのときに島津藩士によってたてられた。当時常盤松の代価壱千両といわれたほどの名木で、このあたりの地名であった常盤松町の起源となった。
国学院前交差点まで戻り左折するとすぐ右手に氷川神社への入り口がある。
「氷川神社」
正確な創建時期は不明であるが、渋谷区最古の神社とされている。江戸七氷川の一つ。
慶長10年(1605)9月に当社別当であった寶泉寺第百代住職・実円の記した「氷川大明神宝泉寺縁起」によれば、日本武尊東征の際、当地に素盞鳴尊を勧請したという。
その後、弘仁年中(810〜23)慈覚大師が寶泉寺を開基し、同寺が別当になったとされており、正徳3年(1713)幕府に出した書状には「起立の年数知れず申候」と残されている。
なお、源頼朝による勧請説や金王丸常光による崇敬などの諸説もあるがいずれも定かではない。
社殿については慶長時代以降何度かの再建・修復かを経ているが、現社殿は昭和13年(1938)11月3日に総檜造で造営・正遷座され、第二次大戦末期の空襲においても罹災せず、都内有数の木造神社建築となっている。
また境内には江戸郊外三大相撲の一つ金王相撲の相撲場の跡がある。
国学院前の通りに戻り右に行くと間もなく右手に、入口に塙保己一像のある温故学会会館がある。
「温故学会」
塙保己一は、延享3年(1746)、武蔵国児玉郡保木野村に生まれ、7歳で失明するハンデを持ちながらも、国学を研究し和学講談所を番町に開設した。
この温故学会は塙保己一の偉業顕彰の目的から、明治42年(1909)に子爵渋沢栄一、宮中顧問官井上通泰、文学博士芳賀矢一、保己一曾孫塙忠雄の四氏により設立され、保己一の精神である温故知新の趣旨に基づき活動するとともに、大正11年(1922)東京帝国大学より下付された『群書類従』版木(国・重要文化財、17,244枚)の保管、盲人福祉事業、各種啓発事業に努力している。
温故学会会館の中で、『群書類従』版木を見ながら説明を受ける。温故学会会館を出てその脇の細い坂道を下りきったところの四つ角を右に行くと右手に寶泉寺がある。
「寶泉寺」
寶泉寺は、慈覚大師が開山、渋谷重本が開基となり創建したというがはっきりしない。出土した正応5年(1292)の板碑や恵心僧都作と伝えられる本尊の阿弥陀如来立像から推測するとかなりの古刹である。
常盤御前が信仰したという伝慈覚大師作の常盤薬師は、常盤薬師堂に安置されている。その前には、江戸時代に建てられた『江戸名所図会』にもその名を残す「常盤薬師堂」の碑が立っている。
寶泉寺をでて明治通りにでて渋谷駅方面に進む。渋谷駅前から宮益坂交差点を右折すると間もなく、左手渋谷郵便局の手前に御嶽神社の入り口がある。
「御嶽神社」
渋谷御嶽神社は、元亀元年(1570)に創建、寛永年間(1624-1644)に再建したという。明治3年(1870)には、明治天皇が駒場野練兵場へ行幸の際に休息所となり白木鳥居・駒寄の寄進を受け、昭和12年(1937)には聖跡に指定されたという。
一帯の鎮守として暑く信仰されてきた神社で、宮益坂の地名もこの宮の前の坂、ということに由来する。
社殿の前の狛犬は、犬ではなく全国的にも珍しいという、日本狼の狛犬像が立っている。これは複製で、延宝年間(1673〜1681)に造立されたというブロンズ製の実物は社務所内入口付近に保管されている。
御嶽神社参拝後、昼食を摂り、隠田神社へ向かう。明治通りの宮下公園交差点を右折しすぐに左に折れ、渋谷区役所仮庁舎の前を通り暫らく進むと隠田神社がある。
「隠田神社」
創建年代は不詳。旧渋谷区穏田の産土神、村の鎮守として存在していたようである。
天正19年(1591)徳川家康より伊賀衆に穏田の地が与えられ給地となる。以後住民も増加し、江戸時代には第六天社(第六天魔王を祀る社)と称された。
第六天は他化自在天といい、毘沙門天や弁財天、帝釈天などがいる第六天世界の最上階の支配者。第六天の世界では、人々は苦役や苦痛から解放され、望みがすべて自在にかない、無上の喜びを得ることができるという。
明治維新に伴う神仏分離によって、社号を穏田神社に改め、御祭神を天神第六代の淤母陀琉神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)とした。
戦後、旧小松宮家の邸内社から本殿・石灯籠・鳥居などの払い下げを受け、昭和31年(1956)に幣殿・拝殿が再建された。
隠田神社をでて裏側に回ったところが旧渋谷川遊歩道(キャットストリート)、ここを右手に表参道方面へ歩く。表参道にでて神宮前小にある隠田水車跡を見て表参道を青山通り方面に進み、歩道橋の先の信号を左折、突き当りを左に折れた少し先の角に徳富蘆花旧居跡の木柱が立っている。
「徳富蘆花旧居跡」
徳富蘆花は、明治33年(1900)10月に、逗子からここに移ってきた。明治38年(1905)12月再び逗子に移るまでの間に「思出の記」を完成させ、また「黒潮」「慈悲心鳥」「霜枯日記」などの作品を次々に発表した。
徳富蘆花旧居跡の木柱の立っている角を左に暫らく進み、外苑西通りの原宿団地北交差点の手前の細い道を左に進むと右手に妙円寺がある。
「妙円寺」
妙円寺は、寛永4年(1627)四谷千日谷(鮫河町)に草庵として創建、圓成院日光(万治3年1660年寂)が開山となり一寺となし、その後寶永3年(1706)隠田村へ移転したという。
妙円寺は、毎年夏の土用の丑の日に行われる行事、「ほうろく灸」で知られる。「ほうろく灸」はほうろく(素焼きの土器)を使った灸である。
本堂脇から裏手にある墓地には、第7代横綱・稲妻雷五郎の墓(根本家)の墓がある。
この周辺は江戸時代から「原宿村」「穏田村」の2つの村があり、明治時代中期まで続いた。1889(明治22)年に市町村制が施行されて2つの村は合併して「千駄ケ谷村」となり、その後何度か町名が変更になり、昭和40年(1965)には新住居表示になって「神宮前」という町名になった。
この変更によって原宿の地名が消滅しそれを惜しむ声があり、どこかに残したいということで妙円寺の入り口近くに「原宿発祥之地」の碑が建てられた。
原宿の地名の起源となった鎌倉街道の宿場町・原宿は、現在の妙円寺付近にあったとされる。
また、妙円寺では江戸時代、寺子屋教育が行われており、原宿70番地(当時)に明治14年(1881)に開校した穏原小学校には妙円寺の寺子屋の生徒も収容された。明治33年(1900)に原宿170番地(当時)に移転するまで、ここに小学校校舎が置かれていた。
妙円寺の前の道を道なりに暫らく進み、明治通りを渡った先に東郷神社がある。
「東郷神社」
日露戦争で日本の連合艦隊の司令長官となり、明治38年(1905)5月27日日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に完勝した勇将東郷平八郎。東郷神社は、この東郷平八郎を祀る神社である。
境内には潜水艦乗務員慰霊碑や海軍特年兵追悼碑がある。もとは池田侯爵邸で、日本式庭園は戦前の貴族庭園の佇まいを色濃く残している。
勝利の神として崇敬が篤く、神前結婚式の式場(東郷記念館)としても有名。
東郷神社をでて、若者で賑わう竹下通りを通って原宿駅前に出て解散。 |