「代々木公園」
代々木公園の所在地は、大日本帝国陸軍の代々木練兵場であった。これが第二次世界大戦での日本の敗戦後にはワシントンハイツとなり、昭和39年(1964)の東京オリンピックで代々木選手村として一部が使用された後に再整備され、昭和42年(1967)に代々木公園として開園したものである。また、選手村の宿泊棟は国立オリンピック記念青少年センターとして利用されている。
代々木公園の敷地は54ha(およそ東京ドーム11個分)であり、東京23区内の都市公園のなかでは、葛西臨海公園(約79ha)、水元公園(約76ha)、舎人公園(約71ha)に次いで4番目に広い。園内は東京都道413号赤坂杉並線をはさんで噴水がある北側のA地区と、スポーツ施設やイベントホールなどがある南側のB地区とに分かれている。
公園の南側には「日本航空発始の地碑」と徳川好敏大尉と日野熊蔵大尉の像が建っている。
「日本航空発始の地碑」
明治43年(1910)12月19日、当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式復葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。
これを記念し、昭和49年(1974)12月に、左右に大きく翼をひろげた鳥の形にデザインされた石碑が建てられた。
代々木公園内を大噴水、日本航空発始の地碑などを見ながら散策し、公園西門を出て前の道を渡り、左の細い道を進むと、小田急線の線路沿いに、「春の小川」歌碑がある。
「春の小川」歌碑
ここにはかつて清らかな小川が流れ、黄色のかわいらしい“こうほね”(スイレン科の植物)が咲いていたので、河骨川(こうほねがわ、現在は暗渠)と呼ばれていた。春になると、岸辺にはれんげやすみれが咲く、のどかなところだった。
明治42年(1909)から代々木山谷に住んでいた国文学者の高野辰之氏は、このあたりの風景を愛して、しばしばこの畔を散策したといわれている。そして、今も歌い続けられている「春の小川」を作詞して、大正元年(1912)に発表した。この詩は、小学唱歌となり、現在まで歌い継がれている。
「春の小川」歌碑を見て、小田急線の線路を渡り坂道を上り下りし、山手通りに出たところが代々木一帯の鎮守・代々木八幡神社の入り口である。
「代々木八幡神社」
建暦2年(1212)、源頼家の近習・近藤三郎是政の家来であった荒井外記智明によって創建された。頼家が修禅寺で暗殺された後、智明は武蔵野国代々木野に隠遁し主君の冥福を祈る日々を送っていたが、建暦2年8月15日の夜、鎌倉の八幡大神から宝珠のような鏡を授かり、託宣を受ける夢を見た。そこで、同年9月23日、元八幡の地に小祠を建て鶴岡八幡宮より勧請を受けたのが当社の始まりであると伝えられている。
昭和25年、境内の発掘調査が行われ、縄文時代の住居跡などが発見された。境内に竪穴式住居を復元したものがある。「代々木八幡遺跡」として渋谷区の史跡に指定されている。
代々木八幡神社を参拝後、再び代々木公園の前まで戻り、公園に沿って暫らく歩くと国立オリンピック記念青少年センターがあり、この中にあるレストラン「さくら」で昼食。ここは宿泊棟の9階にあり、新宿副都心が一望できる。
「国立オリンピック記念青少年センター」
1964年東京オリンピックにおける代々木選手村の集合住宅を改修して、オリンピック翌年の昭和40年(1965)に開業した。設備や立地に対して宿泊費や施設使用料が比較的安価であり、個人のほか、スポーツ、企業の研修会、修学旅行生の宿泊、NPOや学生団体などの集会やイベント開催等でも利用されている。また、1980年代から1990年代にかけては、中国残留孤児の捜索の一団が来日した際の定宿としても知られた。
国立オリンピック記念青少年センターをでて、参宮橋交差点を右に折れ、西参道口から明治神宮内に入り、至誠館、宝物殿の前を通り、北参道口からでて、明治通りの北参道交差点を越えた先を斜め右に折れ暫らく進むと鳩森八幡神社がある。
「鳩森八幡神社」
千駄ヶ谷一帯の鎮守で、神亀年間(724 - 729年)に創建された社に、貞観2年(860)、慈覚大師(円仁)が村民の懇請によって神功皇后・応神天皇・春日明神の像を作り添え、八幡宮として奉ったことが当社の縁起と伝えている。
「鳩森」の地名の由来は、はるか昔に多数の白鳩がこの森から飛び立ったという言い伝えによる。
境内には江戸時代の信仰の象徴である、寛政元年(1789)築造とされる富士塚(千駄ヶ谷の富士塚)が残っている。江戸市中の著名な富士塚である「江戸八富士」の一つにも挙げられている。山裾には里宮(浅間神社)があり、また七合目の洞窟には身禄像、山頂には奥宮が安置されるなど富士山を再現している。大正12年(1923)の関東大震災の際には修復されているものの建造当時の旧態を留めており、移築などが行われていない都内に現存する富士塚の中では最古のものとなっている。
鳩森八幡神社をでて、社会教育会館との間の坂道を下ると左手に榎稲荷がある。
「榎稲荷(お万榎)」
瑞圓寺の門前へと登る細い坂道・榎坂には大東亜戦争前まで、「お万榎」と呼ばれる榎の巨木があった。この巨木は上部が二股に分かれており人間が逆立ちした形で、股の部分が空洞になっていたことから女陰に見られ、性的信仰・性器崇拝の対象となって内藤新宿周辺の遊女や女将などが多く拝みにきたという。
「お万榎」の名は、仙壽院を創建した徳川頼宣(紀州徳川家初代)の生母・お万の方がこの木を信仰したことによる。お万の方は、瑞圓寺住職の叔母でもあったことから、霊木されたこの榎を度々訪れていたとも伝わる。
榎稲荷をでて、隣接する瑞圓寺の裏口より境内に入る。
「瑞圓寺」
瑞圓寺の創建年代等は不詳ながら庵室として創建、徳川秀忠(1632年逝去)より寺領8石1斗の御朱印状を拝領していたという。開山は天寳宗悦(延宝元年1673年寂)だといわれ、千駄ヶ谷の総鎮守である鳩森八幡神社の別当寺であった。
本堂右手の無縁塔(無縁仏)の最上段には六面に地蔵像を浮き彫りした笠付型の六面塔があるが、これは渋谷区内で唯一、六地蔵信仰をあらわすものである。また、無縁塔の左側には側面に稲穂をくわえた狐が彫られた庚申塔が2基設置されており、稲荷信仰を示している。
瑞圓寺をでて、榎坂を下り観音坂にに出ると、「目玉観音伝説」の聖輪寺がある。
「聖輪寺」
聖輪寺の創建年代等は不詳ながら、神亀2年(725)行基菩薩の開基といい、行基が、北越遊行の折、当地で如意輪観音の告示を受け、古木に観音像を彫刻したと伝える。大和長谷寺の末寺で、千駄ヶ谷観音と呼ばれて名高い。江戸寺院中でも浅草の浅草寺と並んで最も古い寺のひとつといわれる。
この観音には、観音の眼が金だと聞いた賊が寺に盗みに入ったところ自分の刀に貫かれて死んでしまい、爾来「目玉の観音」として崇められたとの言い伝えがあった。
山門内左手の見守不動は背後に火焔を刻んだ立像で、その功徳からか門前の観音坂では事故がないという。。
観音坂を下り、外苑西通りを右折し、次の仙寿院交差点を右に折れた右手が仙壽院だ。
「仙壽院」
仙壽院は徳川家康の側室養珠院(お万の方)ゆかりの寺社であり、養珠院が赤坂の紀州徳川家屋敷内に建立した草庵が始まりであるとされる。それが天保元年(1664)、養珠院の実子で紀州徳川家初代・徳川頼宣によって現在地である千駄ヶ谷に移されたものである。
江戸時代、この地は谷中の日暮里に風景が似ていることから「新日暮里(しんひぐらしのさと)」とも称され、浮世絵や『江戸名所図会』にもしばしば登場している。日暮里があまりに有名になったために、西方に新日暮里ができたのである。また、桜の名所として知られ、桜の季節には遠方からも花見客が集まり、酒屋や団子・田楽の店などが現れて賑わったという。
仙壽院をでて、墓地下のトンネルをくぐり、神宮前二丁目交差点を右折し、鳩森八幡神社の前を通り暫らく進み、明治通りの北参道交差点を越え代々木駅前に出て解散。 |