山手線駅発歴史探訪ウォーキングも最終回を迎え、生憎の雨模様にも拘らず、10:00に代々木駅西口に5名が集合。駅前の道を西に歩き始める。小田急線のガードをくぐってすぐ右に折れ少し進み十字路を左に折れた右手に「田山花袋終えんの地」の標柱がある。その先の角を左に折れ、代々木駅前からの道に出て右に折れた先の歩道に「高野辰之住居跡」の標柱がある。そしてさらに、この先の信号の手前を左に折れすぐまた左に曲がり少し進んだ右手に「菱田春草終えんの地」の標柱がある。
「田山花袋終えんの地」
「田舎教師」「蒲団」などを発表した小説家田山花袋は、明治39年(1906)にここ移り住み、昭和5年に60歳でこの地で亡くなった。群馬県出身で尾崎紅葉に師事し、赤裸々な現実描写を主張し、自然主義文学を確立した。「東京の三十年」で、明治時代の渋谷の様子も記している。
「高野辰之住居跡」
「春の小川はさらさら流る…」の代表作「春の小川」の作詞で有名な高野辰之は、明治の国文学者・歌謡学者である。明治9年(1876)長野県生まれで、明治42年からこの地に住んだ。
「春の小川」は代々木八幡付近を流れていた河骨川を詠った詩で、大正元年(1912)に発表、以来小学唱歌として親しまれている。
高野はその他「春が来た」「おぼろ月夜」「紅葉」などの名作を残した。
「菱田春草終えんの地」
明治末期の日本画壇で活躍した菱田春草は、明治7年(1874)長野県飯田市に生まれ、明治41年(1908)に代々木山谷に住み、同44年にこの地の移り住んだ。そして、「落ち葉」「黒き猫」「早春」などの名作を発表した。彼の作品は皇室に買い上げられ、今も外苑の絵画館に保存されている。
代々木駅前からの道に戻り左方向に少し進み、代々木地域安全センター前交差点を横切り、立正寺の前から岸田劉生が描いた「切通し坂」を下り、山手通りの初台一丁目東交差点を横切って進む。
初台駅からの道にでて右折すると、駅の手前、左右に玉川上水旧水路緑地がある。その先初台駅前を通り、甲州街道(R20号線)を左折したすぐ左手には、白水学校跡の案内板がある。
「玉川上水旧水路緑地」
「江戸の六上水」のひとつ、玉川上水は、江戸時代に引かれた最初の水路で、明治時代に新たに引かれた「新水路」と区別して「旧水路」と呼ばれる。都市化が進んだ今は多くが暗渠化し、渋谷区では旧水路の上を整備し公園にしている。「玉川上水旧水路 初台緑道」は、「初台」駅から「幡ヶ谷」駅までの間を流れていた旧水路の上を整備した部分である。
「白水学校跡」
明治12年(1879)、水上忠蔵がこの場所に白水分校という私立の小学校を設立しました。
忠蔵は、明治維新後に東京市内から代々木村に移り住んだ教育家で、これより6ヶ月前に白水学校の本校を和泉村(杉並区)に開校しています。
当時の白水分校には、尋常科と簡易科があり、尋常科では主として漢文・数学・習字を教授し、簡易科では毎日通学できない児童のために、各科目を速習方法で教授しました。また簡易科には、農閑期だけ通学する児童や、裁縫・礼儀作法を習うために通学する女児がたくさんいたのです。
明治15年(1882)2月、白水学校を代々木・幡ヶ谷連合の村立として幡代小学校と改称し、明治18年(1885)11月、西側に隣接する場所に新校舎を建築して、移転をしました。(渋谷区教育委員会)
甲州街道(R20号線)を笹塚方面に暫らく進み、首都高速初台入口のところの横断歩道橋を渡ると、代々木警察署の前に出るので、初台方向に少し戻ってすぐ左に折れると、高知新聞社宅の前に旗洗池跡がある。
「旗洗池跡」
後三年の役(1083〜1087)ののち、八幡太郎義家が上洛のときにこのあたりを通り、この池で白旗を洗って傍らの松にかけて乾かしたという伝説があります。その白旗はのちに金王八幡宮の宝物となり、いま残されている旗がそれであるといわれています。
この池は60平方メートル程の小さな池で、肥前唐津藩小笠原家の邸宅内にあり、神田川に注ぐ自然の湧水でした。昭和38年(1963)に埋められ、今は明治39年(1906)4月、ここに遊んだ東郷平八郎筆「洗旗池」の記念碑だけが残されています。
源義家がはたして白旗を洗ったかどうかについての証拠はありません。しかし関東地方特有の源氏伝説のひとつであり、幡ヶ谷というこの付近一帯の地名の起源となった有名な池だったのです。(渋谷区教育委員会)
再び甲州街道に出て、笹塚方面に暫らく歩き、中野通りとの笹塚交差点を右折し、笹塚出張所前の信号の手前右手に酒呑地蔵が祀られている清岸寺がある。
「清岸寺・酒呑地蔵」
清岸寺は、専蓮社覚誉呑了が開山となり、寛永元年(1624)参宮橋付近に創建したという。寺地が代々木練兵場に編入されることになり、明治42年当地にあった法界寺を吸収合併、法界山清岸寺と改号したという。境内には、室町期の製作と言う五輪塔や板碑をはじめとして酒呑地蔵など数多くの文化財がある。
酒呑地蔵は、渋谷区本町の和泉川(神田川笹塚支流)跡にある石橋(地蔵橋)のほとりにあったお地蔵様で、平成23年に本町から清岸寺の境内に遷座してお祀りすることになった。
・酒呑地蔵
この地蔵は、江戸時代の宝永五年(一七〇八)にたてられ、別名を子育地蔵ともいわれますが、つぎのようないい伝えがあります。
むかし、四谷伝馬町に住む中村瀬平という者は、故あって成長の後に家を出て幡ケ谷村の農家に雇われて農作業や子守りなど一生懸命に働いたといわれています。
瀬平の勤勉さに感心した村人は、三十一才になった正月に彼を招いてご馳走したところ、ふだんは飲まない酒によった瀬平は川に落ちて水死しました。
瀬平は村人の夢まくらに現れて、この村から酒呑を無くすために地蔵を造ってほしいと願ったので、村人たちは早速一基の地蔵を建立し、酒呑地蔵として伝えて来ました。(渋谷区教育委員会)
清岸寺をでて、中野通りから笹塚出張所前交差点を右折し、水道通り(都道431号)を新宿方面に暫らく歩き、幡ヶ谷不動尊入口交差点を左折、少し進み突き当りを右に折れると左手に幡ヶ谷不動(荘厳寺)がある。
「幡ヶ谷不動(荘厳寺)」
荘厳寺は、永禄4年(1561)に宥悦法 印を開山として創建。 火災や戦災で文書・旧記が焼失しため、詳細の変遷は不明だが、江戸時代後半(1800年頃)から昭和にかけて、弘法大師にちなむ大師講の巡礼団が、江戸八十八か所のうちの十一番目札所として、盛んに荘厳寺を参拝したことが、寺に残る標石から伺うことができる。
また、幡ヶ谷不動尊としても名高く、江戸時代から霊験あらたかな不動尊として尊崇されたことが、1800年代初期に編纂された『江戸名所図全』に詳しく解説されている。
境内には、山門前の石造狛犬一双、道標常夜燈として使われた石燈籠、『暮おしき四谷過ぎけり紙草履』と彫られた芭蕉の句碑、『花くもりくもりあれ、ほとときす、そめかみの庵、安永8年(1779)建、己人時来』とある杜鵑塚、左右に『威徳退百邪・神力護萬世』と刻された花崗石の門柱、その他、多くの諸石造物が現存し、当時の賑わいを彷彿とさせる。
常夜燈は、現在の環状六号線と甲州街道の交差点付近にあったが、道路工事のためここに移された。この常夜燈は、嘉永3年(1850)に建てられたもので、台石中段には幡ヶ谷の荘厳寺、十二社の熊野神社、大宮八幡宮、井の頭弁財天への道のりが刻まれていて、道しるべの一種であったことがわかる。
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