山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.3


 第3回  高田馬場駅〜薬王院〜おとめ山公園〜面影橋〜甘泉園公園・水稲荷神社〜高田馬場跡
       〜穴八幡宮・放生寺〜夏目坂〜漱石公園〜戸山公園・箱根山〜学習院旧正門〜高田馬場駅

                                                       H27年6月26日

 10:00、高田馬場駅早稲田口に、7名が集合、昼過ぎから雨という予報で、まだ降ってはいない。早稲田通りを横切り、さかえ通りを進み、神田川に架かる田島橋を渡る。左手に富士大学を見て歩き、西武新宿線の踏切と新目白通り渡り、左斜めの細い道を少し歩くと右手に、薬王院がある。

「東長谷寺 瑠璃山 薬王院」
 薬王院は、真言宗豊山派の寺で、奈良長谷寺の末寺であり、東長谷寺と称されている。鎌倉時代、相模国大山寺を中興した願行上人による開山と伝えられる。また、長谷寺から移植されたボタンが有名で、参道沿いには現在40種類、1,000株あり、ボタン寺とも呼ばれ、新宿区を代表する花の寺のひとつである。4月中旬〜下旬のボタン野花が咲き乱れている頃に訪れたいものだ。
 
 薬王院参拝後、来た道を戻り、信号のある小さな交差点を左に折れ、急な坂道を左手に落合第四小を見ながら登ると、右手に「おとめ山公園」の北入口がある。

「おとめ山公園」
 江戸時代、おとめ山公園の敷地周辺は、将軍家の鷹狩や猪狩などの狩猟場であった。一帯を立ち入り禁止として「おとめ山(御留山、御禁止山)」と呼ばれ、現在の公園の名称の由来となっている。
 大正期に入り、相馬家が広大な庭園をもつ屋敷を造成したが、のちに売却され、森林の喪失を憂えた地元の人たちが「落合の秘境」を保存する運動を起こし、昭和44年(1969)にその一部が公園として開園した。
 おとめ山公園は落合崖線に残された斜面緑地で、敷地内は起伏に富み、ナラ、シイ、クヌギなどの落葉樹が生い茂り、かつての武蔵野の原野の風景を留めている。また、敷地内の斜面からは東京の名湧水57選に選ばれているわき水が出ていて、この水を利用してホタルの養殖が行われており、毎年7月には「ホタル鑑賞会」が開催される。

 おとめ山公園を散策し、新目白通りに出て、左(東方向)に進み、JR山手線のガードをくぐり、明治通りを越えると都電荒川線と一緒になり、少し行くと「面影橋」である。

「面影橋」・「山吹の里」
 面影橋は神田川に架かる橋で、姿見の橋ともいわれていた。橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靱負(ゆきえ)の娘であった於戸姫が数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げた時にうたった和歌から名付けられたという説などが知られている。
 なお、姿見の橋は面影橋の北側にあるもので、別の橋だという説もある。
 また、新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれている。 これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいる。後日、「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道潅が、無学を恥じ、それ以来和歌の道に励んだという逸話である。
 面影橋のたもとオリジン電気の門脇に「山吹の里」の碑がある。

 面影橋から都電に沿って早稲田駅方面に少し歩き右に折れたところに「甘泉園公園」がある。

「甘泉園公園」
 この地は、江戸時代宝永年間(1704-1711)に徳川御三家の一つ尾張徳川家の拝領地となり、その後安永3年(1774)に初代清水家の江戸下屋敷が置かれたところである。明治30年ごろ、子爵相馬邸の庭園として整備され、昭和13年には早稲田大学に移譲された。戦後、都が買収し、改修の手を加え、昭和44年に区へ移管した。邸内にあった井戸が甘露のように美味な水を湧き出させていたということからこの名がある。 
 庭園は、神田川の右岸を東西に走る台地の北面の傾斜地とその低地にあって、段丘の高低差を利用した池を回遊する林泉になっている。

 甘泉園公園の南側に隣接して「水稲荷神社」がある。庭園奥の高台の出入り口を出ると水稲荷神社の参道である。

「水稲荷神社」
 天慶四年(941)俵藤太秀郷朝臣が旧社地の富塚の上に稲荷大神を勧請した。古くは「富塚稲荷」「将軍稲荷」といわれた。江戸中期境内の大椋に霊水が湧き、この水で目を洗うと眼病に効能があったとされ評判を呼んだことが、神社名の由来の一つであるという。



 此処には霊水ともう一つ信仰を集めているのが「耳欠けの狐」、自分の身体で痛い所と同じ箇所を撫でて、その撫でた手で自身の痛い箇所を摩ると痛みがやわらぐといわれる。

 水稲荷神社参拝の後、早稲田通りの西早稲田交差点のところに出る。この交差点付近が「高田馬場跡」で、交差点の北側の角の八幡鮨というビルの入り口横に「高田馬場跡」の看板が出ている。

高田馬場跡
 江戸時代の初め、この辺りは徳川家康の側室であった於茶阿の方の屋敷があり、於茶阿の方の実子である松平忠輝が越後高田60万石の城主となったことからこの一帯には高田の地名がつけられた。
 現在の西早稲田3丁目1・2・12・14番を含む長方形の土地が、江戸時代の高田馬場跡である。馬場は寛永13年(1636)に造られたもので、旗本たちの馬術の練習場であった。また、穴八幡宮に奉納するため催された流鏑馬などが行われ、将軍の供覧に入れたところでもある。
 高田馬場の名は、赤穂浪士の一人である堀部安兵衛の「高田馬場の仇討」で知られている。実際は仇討ではなく、叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところである。

 西早稲田交差点から早稲田通りを馬場下町方面に少し歩く。馬場下町交差点の角に「穴八幡宮」がある。そしてその隣が、穴八幡宮の別当寺であった「放生寺」である。

「穴八幡宮」・「放生寺」
 穴八幡宮は、八幡太郎義家が前九年後三年の役で活躍、凱旋の帰途にあった康平年間(1058〜1065)に創建したと伝えられる。寛永13年(1636)に持弓頭松平五新左衛門直次の同心が的場を造営した際、傍にあった松に鳩が三羽づつ宿ったことから瑞祥の兆しだとして、寛永18年に石清水八幡宮を勧請、神社を造営しようと山麓を穿ったところ洞穴を発見、銅製の阿弥陀仏があったことから、以来「穴八幡宮」と称するようになった。三代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護とした。

 境内には三代将軍徳川家光が慶安2年(1649)に、江戸城吹上御殿にあったものを奉納したと伝えられる布袋像水鉢がある。
 参道の入り口には、流鏑馬の像があり、元文3年(1738)より興行された流鏑馬の神事は、新宿区無形民俗文化財に指定されている。
 穴八幡宮は、蟲封じのほか、商売繁盛や出世、開運に利益があるとされている。


 放生寺は良昌上人が徳川家光の生誕と告げる霊夢を寛永16年に夢見、江戸に上京松平新五左衛門の屋敷に寄宿、穴八幡宮の創建に尽力し、徳川秀忠より光松山放生會寺の寺号を賜ったという。
 開創当時から明治までは、神仏習合により穴八幡別当放生寺として寺と神社は同じ境内地にあり、代々の住職が社僧として寺社一山の法務を司っていたが、明治二年、十六世実行上人の代、廃仏毀釈の布告に依り、境内を分割し今の地に本尊聖観世音菩薩が遷された。
 このように放生寺は、徳川家由来の観音霊場として広く知られ殊に本尊聖観世音菩薩は融通虫封観世音と称され、多くの人々の尊信を集めている。

 穴八幡宮をお参りした後、早稲田通りを西に少し行った夏目坂との交差点の角に「夏目漱石誕生之地」の碑が建っている。さらに早稲田通りを西に暫らく歩き、外苑東通りとの弁天町交差点を右折、2本目の小径を右に折れ少し進むと右手に漱石公園がある。

「夏目坂・漱石公園・夏目漱石終焉の地」
 夏目坂は、早稲田通りの早稲田駅前交差点から、南に登る比較的緩やかな坂道。この一帯は夏目漱石のふるさとで、牛込や高田馬場一帯を支配する名主、夏目家の五男三女の末っ子として慶応3年(1867)この地で誕生している。
 漱石公園には、明治40年(1907)から大正5年(1916)に、漱石が亡くなるまで過ごした「漱石山房」があった。ここで漱石は、「三四郎」「それから」「こころ」といった代表作を執筆した。公園の奥に、漱石終焉の地の石塔が建っている。

 漱石公園前の漱石山房通りを歩き、馬場下町交差点まで戻りここを左折し、諏訪通りを早大記念会堂に沿って歩き、箱根山通りを左に折れる。暫らく歩き、都営戸山ハイツアパートの中を抜けると、その先に戸山公園にある「箱根山」がある。

「戸山公園」・「箱根山」
 戸山公園は江戸時代には、徳川御三家のひとつ尾張徳川家の下屋敷が置かれたところで、通称を「戸山山荘」と呼ばれ、以下にも御三家の別荘らしく趣向にとんだ庭園であった。その中心的存在とされたのが箱根山だ。
 明治になってからはこの一帯が陸軍用地になり、陸軍戸山学校などが置かれた。ここはまた、細菌兵器実験で名高い731部隊の前身となった旧陸軍軍医学校防疫研究所発祥の地でもある。
 箱根山は、山手線内で一番標高が高い人造の山(築山)で、標高は44.6mである。

 箱根山に登った後、都営戸山ハイツアパートの中を抜け明治通りに出て、北へ向かい、早大西早稲田キャンパスの前を過ぎると右手に赤い門がある。学習院の旧正門だ。

「学習院旧正門」
 明治10年当時、神田錦町にあった華族学校(現学習院)の正門として建てられたもの。明治19年に同校舎が焼失したあと、鐘ヶ淵紡績株式会社の手に渡ったが、昭和3年に目白の学習院本院に戻り、さらに第二次大戦の後、女子学習院が移転してきたため昭和24年に現在地に移された。 
 門は鋳鉄製で、埼玉県の川口鋳物の代表作である。本柱と脇柱は方柱で、透かしの唐草紋様で、扉は、洋風鉄扉の形式をとっているが、唐草紋様や蕨手紋様を主体とした日本調の意匠である。国指定重要文化財となっている。

 学習院旧正門を見た後は、明治通りを諏訪町交差点で左に折れ、山手線の線路の手前を右に入り、高田馬場駅前に出て解散する。



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