山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.4


 第4回  目白駅〜金乗院〜南蔵院〜新江戸川公園〜関口芭蕉庵〜椿山荘〜雑司ヶ谷旧宣教師館〜
       雑司ヶ谷霊園〜雑司ヶ谷鬼子母神〜法明寺〜本立寺〜自由学園明日館〜丸池跡〜池袋駅

                                                        H27年9月3日

 10:00、JR目白駅に5名が集合、駅前の目白通りを右へ、学習院大学に沿い歩き、千登世橋を渡り明治通りを越え、高田一丁目交差点を右に曲がり、細い坂道を下ると右手に目白不動を祀る金乗院がある。この坂道は「宿坂道」と呼ばれ、坂下には「宿坂の関」があったといわれ、この関は関東お留の関で、鎌倉街道の道筋にあったという。

「金乗院」
 金乘院は、天正年間(1573-92)に開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが創建とされる。第二次世界大戦で焼失した目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)を合寺している。
 江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当であったが、昭和20年4月の戦災で本堂等の建物や、水戸光圀の手になるという此花咲耶姫の額などの宝物は焼失した。現在の本堂は昭和46年に再建され、平成15年に全面改修されたものである。
 墓地には槍術の達人丸橋忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文6年(1666)造立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ、寛政12年(1800)造立の鍔塚など多くの石造物がある。
 
「目白不動堂」
 目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は、元和4年(1618)大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にあったが、昭和20年5月の戦災により焼失したため、金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移した。
 目白不動明王は、江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)のひとつとして名高く、目白の号は寛永年間(1624-44)に三代将軍徳川家光の命によるといわれている。

 金乗院を参拝した後、宿坂通りを南に少し歩くと左手に南蔵院がある。そして、この寺の付近は「山吹の里」としても知られている。

「南蔵院」
 大鏡山薬師寺南蔵院の開山は室町時代の円成比丘(永和2年1376年寂)とされる。本尊の薬師如来は、木造の立像で、奥州藤原氏の持仏といわれ、円成比丘が諸国遊化のとき、彼の地の農家で入手し、奉持して当地に草庵を建て安置したのが開創であると伝えられる。
 また、三遊亭圓朝作の名作「怪談乳房榎」にゆかりの寺でもある。

「山吹の里」
 太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいる。後日、「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道潅が、無学を恥じ、それ以来和歌の道に励んだという逸話である。
  
            面影橋とそのたもとオリジン電気の門脇にある「山吹の里」の碑

 南蔵院を出て、北側の一方通行の道を暫らく歩くと新江戸川公園がある。

「新江戸川公園」
 細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした回遊式泉水庭園で、目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、変化に富んだ景観をつくり出している。湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、池に注いでいる。
 池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立て、園路にそって池を一周し、最初に見た風景を振り返るように設計されている。

 新江戸川公園の東側、神田川に架かる駒塚橋の袂に関口芭蕉庵がある。

「関口芭蕉庵」
 松尾芭蕉が二度目に江戸に入った後に請け負った神田上水の改修工事の際に延宝5年(1677)から延宝8年(1680)までの4年間、当地付近にあった「竜隠庵」と呼ばれた水番屋に住んだといわれているのが関口芭蕉庵の始まりである。
 後の享保11年(1726)の芭蕉の33回忌にあたる年に、「芭蕉堂」と呼ばれた松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物が敷地に作られた。その後、寛延3年(1750)に芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて作られた「さみだれ塚」が建立された。
 また「竜隠庵」はいつしか人々から「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになった。そして芭蕉二百八十回忌の際に園内に芭蕉の句碑が建立された。芭蕉庵にある建物は第二次世界大戦による戦災などで幾度となく焼失し現在のは戦後に復元されたものである。
 芭蕉庵前の急な坂道は「胸突坂」と呼ばれている。

 関口芭蕉庵を見学したのち、神田川の沿い少し行くと左手に椿山荘の庭園に入れる冠木門がある。

「椿山荘」
 この辺りは江戸時代には大名の黒田豊前守の下屋敷だった。明治時代になって長州出身の政治家の山県有朋の別邸になり、もともと椿の木が多いところだったことから椿山荘と名付けられた。
 現在の庭園の原型は、山県家の所有だった明治30年(1987)頃に築造された。台地の起伏と入り組んだ谷、池、自然の湿地などを取り入れた自然庭園である。その広さは約2万坪(6万6000u)におよぶ。
 庭園の頂上に建つ三重塔は、広島県加茂郡入野(現東広島市)の竹林寺にあったものを藤田平太郎が大正14年(1925)に譲り受け、椿山荘に移築したもので、繰形の特徴などから室町時代末期のものと推定されており、国の登録有形文化財に登録されている。

 椿山荘の庭園内に入ると右手に、日本の電力王と呼ばれ、茶人としても知られた松永安左衛門の設計による茶室「長松亭」があり、左手には、園内最古の樹木として保存されている、樹齢500年の「御神木」(椎)がある。
 そのまま園内の小径を進むと、池のほとりにでて、池越しに三重塔が見える。滝の裏側の「滝のトンネル」を通り、プラザの中を通り、正面玄関より目白通りに出る。

 目白通りを挟んで椿山荘の反対側に、近代的な建物がある。「東京カテドラル聖マリア大聖堂」だ。

「東京カテドラル聖マリア大聖堂」
 カトリック関口教会(1900年創立)の教会堂で、カトリック東京大司教区の司教座聖堂(カテドラル)で、建築家・丹下健三氏の設計によって1964年にドイツのケルン教区の支援により建設された。上空から見た形は十字架型である。
 カテドラルとは、“カテドラ”、つまり司教座のある教会をさす言葉で、東京大司教が公に儀式を司式し、教え指導する教会となっている。
 昭和42年(1967)10月23日には吉田茂元内閣総理大臣の葬儀が行われた。また東京カテドラル聖マリア大聖堂の設計者、丹下健三の葬儀もここで行なわれた。

 東京カテドラル聖マリア大聖堂を見学した後、目白通りを目白駅方面に暫らく歩き、元田中角栄首相の目白御殿のあった目白台運動公園の前、日本女子大学脇の細い道へ右折し、不忍通りを横切り、また細い道を日本女子大寮に沿い道なりに歩き、雑司ヶ谷霊園に突き当たる少し手前、雑司ヶ谷幼稚園の角を右に折れた先に「雑司ヶ谷旧宣教師館」がある。

「雑司ヶ谷旧宣教師館」
 明治40(1907)年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたものである。マッケーレブは、昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていた。
 木造総2階建て住宅で、全体のデザインはシングル様式であり、細部のデザインにはカーペンターゴシック様式を用いており、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した質素な外国人住宅である。
 豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重なもので、東京都指定有形文化財となっている。

 雑司ヶ谷旧宣教師館を見学後、雑司ヶ谷霊園に入る。

「雑司ヶ谷霊園」
 雑司ヶ谷は徳川家の御用屋敷と鷹狩のための役人の居留地であった。霊園は公園墓地として、明治7年(1874)に開設された。その広さは10ヘクタール。
 公園墓地の特徴は、宗教・宗派に関係なく埋葬できることで、このため公園墓地には明治の元勲や文化人など多くの著名人が眠っている。
 ここ雑司ヶ谷霊園には、ジョン万次郎、小泉八雲、夏目漱石、島村抱月、竹久夢二、泉鏡花、東條英機、永井荷風、サトウハチロー、東郷青児、大川橋蔵など著名人の墓が多くあり、夏目漱石の小説『こゝろ』の舞台にもなっている。
夏目漱石の墓      ジョン万次郎の墓         東郷青児の墓       竹久夢二の墓

 夏目漱石、ジョン万次郎、竹久夢二の墓を参った後、管理事務所、崇祖堂の前を通り都電荒川線に沿って左に折れ、大鳥神社前で踏切を渡り、大鳥神社の左手の道に入って行くと、正面に雑司ヶ谷鬼子母神がある。

「雑司ヶ谷鬼子母神」
 雑司ヶ谷鬼子母神は、永禄4年(1561)に雑司ヶ谷村清土の農民が、夜の闇に輝く泉を見て不思議に思い、泉のそばで仏像を発見、鬼子母神像に違いないと、日蓮宗の法明寺にまつったのが始まりと伝えられている。
 安産・子育ての神として信仰を集める鬼子母神は、もとは赤ん坊を取って食らう夜叉姫であったが、お釈迦様に諭され、仏に帰依し、子供を守る鬼子母神となった。
 鬼子母神が最初に建立されたのは天正6年(1578)で、現在の堂は、拝殿、幣殿、本殿の3つの建物からなり、本殿は寛文4年(1664)拝殿と幣殿は元禄13年(1700)の建築である。
 境内にある売店「川口屋」は、創業が1781年で江戸名所図会に登場する店で、都内で最も古い駄菓子屋ともいわれている。

 鬼子母神をお参りした後、いったん明治通りに出て昼食を摂った後、南池袋小の西側にある法明寺に寄る。

「法明寺」
 嵯峨天皇の代の弘仁元年(810)、真言宗の旧跡で威光寺として開創された。その後の正和元年(1312)、宗祖日蓮聖人の弟子で中老僧の一人、日源上人が日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めた。
 徳川3代将軍・家光公より御朱印を受け、代々将軍家の尊崇を受け、折りごとに多くの寄進を受けていた。
 昭和20年戦災により全山焼失、47世一味院日厚上人が昭和34年に本堂を再建、さらに昭和37年客殿庫裡を竣工した。 昭和43年現山主一厚院日悠上人を中心に、鐘楼ならびに山門の復興も完了、ほぼ寺内の偉容を旧に復した。

 法明寺をお参りした後、脇の細い道を通り、あずま通りを横切り、南池袋二丁目交差点を越えると左手に本立寺がある。

「本立寺」
 日蓮宗の寺で、元和4年(1618)の創建。この寺の改修工事に姫路藩主榊原家の援助があったことや、榊原家6代政邦の生母延寿院が日蓮宗の信者で、この寺に埋葬されてから、奥方代々の菩提寺となった。境内には延寿院の五輪塔をはじめ代々奥方の墓碑がある。
 また、吉原きっての名妓であった高尾太夫のものとされる墓がある。高尾は榊原家八代政峯(播州姫路城主)により身受けされて、これが公儀のとがめを受け、榊原家が越後高田藩へ国替えされる原因となった。高尾は尼となって天明9年(1789)にこの寺で没した。

 本立寺をお参りした後、あずま通りまで戻り右折し、明治通りと山手線を越え、二つ目の信号を越え、池袋警察署の手前を左折し、婦人の友社の角を右に折れた右手に自由学園明日館がある。内覧会が開催されているため、大勢の人で賑わっていた。

「自由学園明日館(みょうにちかん)」
 大正10年(1921)、羽仁吉一、もと子夫妻が創立した自由学園の校舎として、アメリカが生んだ巨匠フランク・ロイド・ライトの設計により建設された。
 明日館建設にあたり羽仁夫妻にライトを推薦したのは、帝国ホテル設計のため来日していたライトの助手を勤めていた遠藤新である。夫妻の目指す教育理念に共鳴したライトは、「簡素な外形のなかにすぐれた思いを充たしめたい」という夫妻の希いを基調とし、自由学園を設計した。
 木造で漆喰塗の建物は、中央棟を中心に、左右に伸びた東教室棟、西教室棟を厳密なシンメトリーに配しており、ライトの第一期黄金時代の作風にみられる、高さを抑えた、地を這うような佇まいを特徴としている。プレイリースタイル(草原様式)と呼ばれるそれは、彼の出身地・ウィスコンシンの大草原から着想を得たものである。
 平成9年(1997)、国の重要文化財に指定されている。

 自由学園明日館を見て、池袋警察署前の通りへ戻り、ホテルメトロポリタンの角を左に曲がり、次の交差点の角に元池袋史跡公園がある。

「元池袋史跡公園(丸池跡)」
 池袋駅西口のホテル・メトロポリタン前にある小さな広場が1998年に開設された元池袋史跡公園。ここが丸池跡で、「池袋の地名の発祥の地」である。 丸池と呼ばれた池は、清らかな水が湧き、あふれて川となり、いつのころからか弦巻川とよばれ、雑司が谷村の用水として利用された。池は昭和になるまで枯れずにいたが、しだいに埋まり、水も涸れて今はその形をとどめていない。

 元池袋史跡公園を見た後は、池袋駅に出て解散する。



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