山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.5


第5回  大塚駅〜巣鴨平民社跡〜天祖神社〜三業通り〜東福寺〜徳川慶喜屋敷跡〜眞性寺〜
      高岩寺〜巣鴨庚申塚〜妙行寺〜善養寺〜本妙寺〜慈眼寺〜染井霊園〜巣鴨駅

                                                      H27年10月22日

 10:00、JR大塚駅改札口に、6名が集合。大塚駅は、東京で唯一の都電、荒川線の接続駅にもなっている。そして、駅北口広場の辺りに巣鴨平民社があったというが、跡地を示すものは何もない。

「巣鴨平民社跡」
 大塚駅北口広場近くの植木屋の借家に、大逆事件で死刑になった幸徳秋水が、明治36年(1903) ころ一時住んでいて「巣鴨平民社」の看板を揚げていた。ここでの集まりが明治43年(1910)の大逆事件の謀議とされた。
 大逆事件:天皇や皇族の殺害を企み他事件を称して大逆事件といい、明治憲法下で4事件発生したが、特に一般には明治43、44年(1910、1911)に社会主義者幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件を指す(幸徳事件ともいわれる)。

 大塚駅南口広場から細い路地の商店街を少し入ったところに天祖神社がある。

「天祖神社」

 旧巣鴨村の鎮守で、江戸時代は福蔵寺が別当で十羅刹女を祀っていた。十羅刹女はすべての鬼神の母親となった10人の鬼女であるが、この10人の鬼女の母親は鬼子母神である。明治の神仏分離後天祖神社となり、十羅刹女は福蔵寺(のち東福寺に合併)に移った。境内には御神木の樹齢600年という夫婦銀杏のほか、熊野、菅原、厳島、稲荷、三峯、榛名の各神社がある。
     

 南口広場へ戻り、南大塚通りを横切りると、三業通りの看板の出ている道がある。

「三業通り」
 三業とは、料理屋、芸妓置屋、待合のことで、大正の末から昭和20年ころまでの大塚は、三業がそろった繁華街だった。この三業通り沿いには、料理屋85軒、待合18軒、が軒を連ねており、芸者さんの数は200名を超えていたという。
 しかし繁華街は戦災で壊滅状態となり、戦後は新しくターミナルとして発展した池袋に繁華街の地位を譲った。三業通り沿いには、わずかに残る料亭などが昔日の面影を伝えている。

 三業通りを暫らく歩いて行くと東福寺会館の看板があり、そこを左に折れると正面に石段が見える。ここが東福寺だ。

「東福寺」
 観光山 慈眼院 東福寺は真言宗豊山派の寺で、元禄4年(1691)大塚より移転した。山門下石段の脇には、道標を兼ねた明治37年(1904)の庚申塔と、巣鴨で牧場経営が盛んだったことを示す明治43年(1910)の疫牛供養塔がある。また、境内には道標を兼ねた文化2年(1805)の十羅刹女神の石柱と堂がある。

 東福寺をお参りした後、東福寺に沿った細い通りを道なりに進み、さらに山手線の線路沿い歩くと白山通り(国道17号)の巣鴨駅前に出る。
 ここを少し右に行くと白山道り沿いに、徳川慶喜巣鴨屋敷跡地の石碑が建っている。

「徳川慶喜巣鴨屋敷跡」
 江戸幕府十五代将軍徳川慶喜が明治30年(1897)から4年間過ごした屋敷跡である。庭は故郷水戸に因で梅林になっており、梅屋敷と呼ばれた。
 慶喜は、明治になってからの生活を静岡で過ごしたが、屋敷の近くを東海道線が開通したため、その騒音を嫌って東京のこの地に転居したのであるが、明治34年(1901)に山手線が開通し、またその騒音を嫌い小石川に転居したのである。

 徳川慶喜巣鴨屋敷跡を見た後、白山通りを山手線を越えると、山手線のさくら並木通りの入口に「染井吉野の碑」ある。昭和55年(1980)近隣住民によって建立されたもので、関八州全国のレリーフがはめ込まれている。

 白山通りを少し進むと巣鴨地蔵通り商店街の入口で、その左手に江戸六地蔵3番のお地蔵様を祀っている眞性寺がある。

「眞性寺」
 医王山 眞性寺。元和元年(1615)祐遍が中興開山した真言宗豊山派である。境内には、正徳四年(1714)地蔵坊正元が勧請し、太田駿河守正儀が鋳造した江戸六地蔵のひとつである、高さ約2.7mの地蔵菩薩がある。他に、寛政五年(1793)の芭蕉句碑がある、。
 江戸六地蔵とは、江戸の主要な街道の出入り口に旅の安全を建てられたもので、眞性寺門前の地蔵通りは江戸時代の中山道に当たり、中仙道の江戸の入り口ということでここに建てられた。

 眞性寺をお参りして、賑わっている「おばあちゃんの原宿」ともいわれている巣鴨地蔵通り商店街を歩いて行くと右手に、とげぬき地蔵として知られる高岩寺がある。

「高岩寺」(とげぬき地蔵)
 万頂山 高岩寺は、慶長元年(1596)扶岳太助が江戸神田湯島に創建された曹洞宗のお寺である。明治24年(1596)下谷よりこの地に移転してきたもので、本尊の地蔵菩薩像(延命地蔵)は秘仏につき非公開である。
 本尊の姿を刷った御影(おみかげ、縦4センチメートル、横1.5センチメートルの和紙に地蔵菩薩立像が描かれている)に祈願・またはその札を水などと共に飲むなどしても、病気平癒に効験があるとされ、「巣鴨のお地蔵様」として信仰されている。
 江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。又四郎が、夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた紙1万枚を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したという。これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされる。その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり、「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来する。
 境内での一番人気は「洗い観音」で、本堂に向かって左手の塀際に立つ石造の聖観音像である。自身の治癒したい部分に相応する観音像の部分を洗う、または濡れタオルで拭くと利益があるという。

 毎月4の日はとげぬき地蔵の縁日で、多くの屋台が並び、巣鴨地蔵通り商店街は大変な賑わいとなる。参道には様々な名物があるが、塩大福、地蔵せんべい、地蔵最中などが定番だ。また、中高年女性をターゲットにした衣料品も多い。

 巣鴨地蔵通り商店街をぶらぶらと歩き、都電荒川線の庚申塚駅の手前、折り戸通り(王子道)との交差点の角に巣鴨庚申堂がある。

「巣鴨庚申堂」(通称 巣鴨庚申塚)
 庚申信仰は、江戸時代ころから盛んになった民間信仰で、人の身体にいる三尸(さんず)という虫が、六〇日に一度訪れる庚申の日の夜に人の罪状を天帝に告げに行くため、人々はこの晩は寝ずに過ごし、寿命が縮められるのを防ぐというものである。
 庚申の神仏には悪疫を退治する青面金剛が本尊とされることが多いが、帝釈天や閻魔も見かける。巣鴨庚申塚の場合は猿田彦大神である。猿田彦大神とは日本神話に登場する神様で、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり道祖神と同一視された。
 巣鴨庚申塚は江戸時代中山道の立場として栄え、旅人の休憩所として簡単な茶店もあり、人足や馬の世話もしていた。江戸名所図会ではそれらの様子がにぎやかに描かれている。
 正面には「猿田彦大神」と1字ずつ書かれた提灯を掲げる山門があり、その脇に「巣鴨猿田彦大神」と書かれた幟が立つ。山門をくぐると、両脇に二匹の石の神猿、基台には「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿が彫られている。さらに手水舎や縁起を記した碑、江戸名所図会入り石碑、榎本留吉翁顕彰碑などがあり、正面に庚申堂がある。

 巣鴨庚申堂をお参りし、折り戸通りを飛鳥山方面に歩き、白山通りを横切り、巣鴨5丁目交差点を左にお岩通りという狭い道に入り、荒川線の踏切を越えると、左手にお岩さんが眠る妙行寺がある。

「妙行寺」
 妙行寺は、寛永元年(1624)赤坂に起立し、四谷鮫ヶ橋南町への移転を経て、東京府による市区改正事業のため明治42年(1909)5月にこの地へ移転した。境内には、四谷怪談のお岩さんの墓所、浅野内匠頭長矩の夫人遥泉院の墓の他、うなぎ供養塔、魚がし供養塔、浄行様がある。
 お岩様が、夫田宮伊右衛門との折合い悪く病身となられて、その後亡くなったのが寛永13年2月22日であり、爾来、田宮家ではいろいろと「わざわい」が続き、菩提寺妙行寺四代目日遵上人の法華経の功徳により一切の因縁が取り除かれたと云われている。
 お岩様に塔婆を捧げ、熱心に祈れば必ず願い事が成就すると多くの信者の語るところであり、四谷怪談を上演するときには、今でも芸能関係者が参詣に訪れるという。

 妙行寺をお参りした後、そのすぐ奥にある、江戸三大閻魔の一つを祀る善養寺に参る。

「善養寺」
 善養寺は、天長年間(824-833)に開基である慈覚大師が上野山内に創立したと伝えられる天台宗の寺院で、正式には薬王山延寿院善養寺という。東叡山寛永寺の末寺で、本尊は薬師如来像である。
 江戸時代の寛文年間(1661-72)に下谷坂本(後の下谷区善養寺町、元台東区上野公園)に移転した後、境内地が鉄道用地の拡張にかかるといいうことで、明治45年(1912)にこの地へ移転した。
 本堂には高さ約3メートルの木造閻魔王坐像が鎮座し、広く信仰を集めていることから「おえんまさまの寺」とも呼ばれ、また、杉並区松ノ木3丁目に所在する華徳院、新宿区新宿2丁目に所在する太宗寺とともに、江戸三閻魔の一つとしても親しまれてきた。
 境内には、江戸時代中期に陶工・絵師として活躍した尾形乾山の墓などがある。尾形乾山は、画法を兄光琳に、陶芸を野々村仁清に学び、京都の鳴滝などで作陶に励み、享保16年(1731)に江戸下谷の入谷村に移り住み窯を開いた。寛保3年(1743)に亡くなり、その墓が江戸琳派の酒井抱一らにより発見された。

 善養寺をお参りした後、荒川線新庚申塚駅近くで昼食を摂り、本妙寺へ向かう。白山通りを巣鴨駅方面に歩き、巣鴨四丁目信号の少し手前を左に折れて行くと本妙寺がある。

「本妙寺」
 本妙寺は、法華宗陣門流総本山本成寺の別院。元亀2年(1571)駿府に創建、天正18年(1590)江戸清水御門内に移転、その後幾度か移転を繰り返し、明治44年(1911)、本郷からこの地へ移転した。 明暦3年(1657)の大火、いわゆる振袖火事と呼ばれる大火災の火元として有名。本堂の右手に、明暦の大火の犠牲者のための供養塔と合掌する如来像がある。
 墓地には、「遠山の金さん」こと幕末の江戸北町奉行、遠山金四郎景元、幕末の剣豪、千葉周作棋聖天野宗歩囲碁家元本因坊歴代の墓などがある。

 本妙寺をお参りした後、その裏手にある慈眼寺へ。

「慈眼寺」
 慈眼寺は、元和元年(1615)了現院日盛が深川六間掘猿子橋に創建。元禄6年(1693)本所猿江に移転、のち身延山久遠寺末から水戸久昌寺末となり、。明治45年(1912)谷中妙伝寺と合併の上、この地へ移転した。
 墓地には、谷崎家の墓所に、京都の法然院から分骨したものという、「細雪」などで知られる作家谷崎潤一郎の墓、自身が生前に設計したという、立方体に近い石で天頂部に家紋が彫られている文豪芥川龍之介の墓、江戸時代後期の洋画・銅版画家の司馬江漢の墓などがある。

 慈眼寺の向かいに、染井霊園の裏門(?)があり、高村光太郎・智恵子夫妻などの墓を参りながら霊園内を散策し、巣鴨門から白山通りに出て、巣鴨駅にて解散。

「染井霊園」
 染井霊園は、もと上駒込の建部邸跡地を東京府が引き継ぎ、明治7年(1874)9月1日染井墓地として開設、その後、明治22(1889)年東京市に移管、昭和10年には染井霊園と改め現在に至っている。
 霊園内には高村光太郎・智恵子夫妻、近代日本美術の礎を築いた岡倉天心二葉亭四迷など多くの著名人の墓がある。
 染井霊園の一帯は、江戸時代に植木の村として名高かったところ。桜の代表的な品種であるソメイヨシノは、幕末から明治にかけての時期に、この地の植木屋がオオシマザクラとエドヒガンザクラを交配させて誕生したものである。



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