山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.6


第6回  駒込駅〜古河庭園〜六義園〜駒込富士神社〜吉祥寺〜南谷寺〜天栄寺〜与楽寺〜
      東覚寺〜大龍寺〜田端文士村記念館〜田端駅

                                                      H27年12月15日

 10:00、駒込駅北口に、7名が集合、まずは旧古河庭園へ。本郷通りを飛鳥山方面に歩き北区に入り、西ヶ原交差点を左に行くとすぐ左手が旧古河庭園の入り口だ。

「旧古河庭園」
 この庭園はもと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅であったが、次男が古河家の養子になった時、古河家の所有となった。
 武蔵野台地の斜面と低地という地形を活かし、北側の小高い丘には洋館を建て、斜面には洋風庭園、そして低地には日本庭園を配したのが特徴である。

 当時の建物は現存していないが、現在の洋館と洋風庭園の設計者は、旧岩崎邸庭園洋館鹿鳴館ニコライ堂などを設計し、我が国の建築界に多大な貢献をした英国人ジョサイア コンドル博士(1852〜1920)で、日本庭園の作庭者は、山県有朋の京都別邸である無鄰菴平安神宮神苑円山公園、南禅寺界隈の財界人の別荘庭園などを作庭した京都の庭師、小川治兵衛(1860〜1933)の手によるものである。

 石造りの洋館の脇を通り、残念ながらバラの花が終わってしまった洋風庭園から、心字池を中心とした日本庭園をゆっくりと散策する。

 旧古河庭園を見学後、本郷通りを戻り、駒込駅前を過ぎ、上富士交差点の手前の細い道を右に折れると間もなく右手に六義園の入り口がある。

「六義園」

 六義園は、元禄8年(1695)、五代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、柳沢吉保自ら設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて造られた「回遊式築山泉水庭園」で、吉保の文学的造詣の深さを反映した繊細で温和な日本庭園である。造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられていた。
 庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来する。
 庭園は中の島を有する大泉水を樹林が取り囲み、紀州・和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として映し出されている。
 明治時代に入り、岩崎弥太郎氏(三菱創設者)の所有となった。

 内庭大門をくぐり、大泉水の周りを、蓬莱島滝見茶屋などを眺めながらのんびりと散策する。ちょっと遅い感もするが、紅葉が見事である。

 六義園の近くで昼食を摂り、本郷通りを本駒込方面に歩く。途中、富士神社入り口の信号を左に折れ、駒込富士神社をお参りする。

「駒込富士神社」
 駒込富士神社の由来は、本郷村の名主が天正元年(1573)、現在の東京大学の地に駿河の富士浅間社を勧請したのが始まりで、寛永5年(1628)その地が加賀前田家の上屋敷となったため、現在地に移った。
 社殿は小高い塚の上に建っており、この塚が富士塚である。
 「一富士、二鷹、三なすび」という古川柳は、一富士は富士神社、二鷹は付近の鷹匠屋敷、三なすびは良質のなすびが駒込で採れたことから詠まれたといわれている。

 駒込富士神社をお参りし、本郷通りに戻って暫らく歩き、吉祥寺前の信号の左手が吉祥寺である。

「吉祥寺」
 太田道灌が江戸城築城の際、井戸を掘ったところ、「吉祥増上」の刻印が出てきたため、現在の和田倉門のあたりに「吉祥庵」を建てたのが始まりといわれる。その後、徳川家康時代に江戸城の拡張に伴って駿河台へ移転。明暦3年(1657)明暦の大火で焼失し現在地に移転した。
 関東における曹洞宗の宗門随一の「旃檀林(せんだんりん)」がおかれ多くの学僧が学んだ。ちなみにこの栴檀林が駒澤大学の起源となっている。

 非常に広い境内は、かつて1000人以上の学僧を抱えた大寺院であったことを物語っているが、第二次大戦でそのほとんどが焼失し、現在は享和2年(1802)に再建された山門と文化元年(1804)再建の経蔵だけが往時をしのばせる。
 境内には、ミョウガ断ちして祈願すると痔のやまいに効ありといわれる茗荷稲荷神社、八百屋お七・吉三郎の比翼塚鳥居耀蔵二宮尊徳の墓碑などがある。


 吉祥寺をお参りし、再び本郷通りを少し歩くと右手に、江戸五色不動の一つ「赤目不動尊」を祀る南谷寺がある。

「南谷寺」
 元和年間(1615〜24)万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像を授けられ、その後、尊像を護持して諸国をめぐり、駒込村の動坂に庵を開き赤目不動と号した。
 寛永年間(1624〜44)三代将軍家光が鷹狩の途中に動坂の庵に寄り、目に留まり、現在地に移された。
 赤目を目赤と言い換えたのは家光ということなので、四神相応説などに基づいて江戸に五不動を配置するため、すでにあった「目黒」や「目白」と同様な呼び方に変えさせたのであろう。 
 ちなみに動坂の地名は赤目不動があったことによる「不動坂」が由来で、いつのころからか「不」の文字がなくなって動坂と呼ばれるようになったのだとか。

 南谷寺を参拝した後、その少し先、駒本小前交差点の前にある天栄寺に寄る。

「天栄寺」
 
門前に「江戸三大青物市場遺跡」「駒込土物店跡」の標柱があり、神田および千住とともに、江戸三大市場の一つで、幕府の御用市場であった。
 起源は、元和年間(1615〜1624)といわれている。初めは、近郊の農民が、野菜をかついで江戸に出る途中、天栄寺境内の”さいかちの木”の下で毎朝休むことを例とした。すると、附近の人々が新鮮な野菜を求めて集まったのが起りといわれている。土地の人々には”駒込辻のやっちゃ場”と呼んで親しまれた。
 また、富士神社一帯は、駒込なすの生産地として有名であり、なす以外に、大根、人参、ごぼうなど、土のついたままの野菜である”土物”が取り引きされたので土物店(つちものだな)ともいわれた。
 駒込青果市場は昭和12年に巣鴨に移転し豊島青果市場となっている。

 天栄寺をお参りした後は、駒本小前交差点で本郷通りと別れ、田端方面に向かう。駒込病院前を通り、動坂を下り、不忍通りを横切り、谷田橋交差点の一つ先の細い道を右に入り、突き当りを左、そしてすぐに右に折れると左手に与楽寺がある。

「与楽寺」
 与楽寺は江戸時代、江戸六阿弥陀の四番札所として多くの参詣者が訪れたところ。 阿弥陀如来は女人成仏の本尊として有名である。
 六阿弥陀とは、太陽が真西へ沈む彼岸の前後に、東から南を通って西の寺院へ順に参拝するもので、巡拝を終えて真西に沈む夕日を拝むことで、西方浄土すなわち極楽浄土へ行くことができると、信じられていたものである。
 本尊の地蔵菩薩は、弘法大師作といわれ、むかし、この寺に、ある夜賊が押し入ったが、多くの僧が出て来て追い払った、翌朝本尊の足が汚れていたので、以来賊除け地蔵と号したという伝説がある。

 与楽寺をお参りした後、寺の前の道(与楽寺坂)を右に、そして、少し先を左に行き、田端駅に通じる通りを横切って行ったところに東覚寺がある。

「東覚寺」
 東覚寺は、延徳3年(1491)源雅和尚が神田筋違に創建、根岸への移転を経て、慶長年間にこの地へ移転したと伝えられる。
 通りに面して不動堂があり、その前に一対の体中に赤紙が貼られた金剛力士像がある。これは、通称赤紙仁王と呼ばれ、病を患った人がその部分に相応する箇所に赤紙を仁王像に貼ると治癒されると言われており、現在においても赤紙を貼る人が絶たない。 その後、病が治癒すると、草履を供えるものとされており、その風習も現在残っている。
 なお、仁王像は寛永18年(1641)8月21日に賢盛の時代に造立されており、当時江戸市中において疫病が流行っていたのでそれを鎮めようとして建立されたものとされている。

 東覚寺の前の通りを右にしばらく歩き、八幡坂通りを左に折れ坂を下ったところの右手、八幡神社と並んで大龍寺がある。

「大龍寺」
 大龍寺の創立は不明であるが、慶長年間(1596-1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781-1789)になって、湯島霊雲寺の観鏡光顕が中興して「大龍寺」と改称したと伝えられている。
境内には、俳人・歌人の正岡子規の墓があり、子規寺の別名で知られている。

 大龍寺参拝の後、八幡坂通りを上り、少し行った先の信号を右に、そして、田端高台交番前の信号を左に行き、右にカーブした右手に田端文志村記念館がある。

「田端文志村記念館」
 田端文士村記念館は、田端で活躍した文士や芸術家の功績を次代に継承し紹介することを目的に設立された記念館。
 文士芸術家たちの作を展示し、その業績や暮らしぶりなどをご紹介している。
 田端は、明治の中頃、雑木林や田畑の広がる閑静な農村であった。しかし、上野に東京美術学校(現・東京芸術大学)が開校されると、次第に若い芸術家が住むようになり、明治33年に小杉放庵(画家)が下宿し、36年に板谷波山(陶芸家)が田端に窯を築くと、その縁もあって、吉田三郎(彫塑家)・香取秀真(鋳金家)・山本鼎(画家・版画家)らが次々と田端に移り住み、画家を中心に“ポプラ倶楽部”という社交の場も作られ、まさに<芸術家村>となった。
 大正3年に芥川龍之介(小説家)が、5年に室生犀星(詩人・小説家)が転居してきて、二人を中心にやがて、萩原朔太郎(詩人)・菊池寛(小説家)・堀辰雄(小説家)・佐多稲子(小説家)らも田端に集まり、大正末から昭和にかけての田端は<文士村>としての一面を持つようにもなった。

 田端文志村記念館を見学した後、田端駅前に出て解散。



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