「青雲寺」
日暮里から西日暮里にかけての一帯は、江戸時代の中頃から「ひぐらしの里」と呼ばれ、江戸近郊の行楽地として賑わい、青雲寺は、江戸時代に花見の場所として賑わったことから、「花見寺」とも呼ばれていた。また、近くには月見寺(本行寺)、雪見寺(浄光寺)などの寺院もあり、風流を好む江戸の文人墨客が集まったことで知られている。
境内には「南総里見八犬伝」の作者として有名な江戸時代後期の戯作者、滝沢馬琴の筆塚の碑や硯塚の碑などがある。
また、谷中七福神の一つである恵比寿神が祀られている。(1月1日〜10日のみ拝観可)
青雲寺を出て、布袋様の寺として塀に布袋尊が描かれている修性院の先で左の富士見坂を上る。今日は曇っていて富士山は見えないが、晴れていてもマンションが建っているので見えるかどうか・・・
坂を上がると左手に浄光寺がある。
「浄光寺」
浄光寺は、江戸時代までは、諏方神社の別当であった。諏訪台の高台に位置し、展望が開け眺めが良く雪見に適することから「雪見寺」とも呼ばれていた。この近辺には、月見寺(本行寺)、花見寺(青雲寺)などの寺院もあり、風流を好む江戸の文人墨客が集まったことで知られている。
江戸時代、将軍が鷹狩の際に立寄ってから御膳所にあてられ、将軍が来訪した時に腰掛けたとされる「将軍の腰掛けの石」と石の隣には、「三代将軍御腰掛石」という碑が本堂の裏手にある。
また、山門の左手には、元禄4年(1691)に空無上人によって江戸の東部6ヵ所に開眼された「はじめの六地蔵」と呼ばれる江戸六地蔵の3番目として知られる大きな銅造地蔵菩薩立像、文化6年(1809)作の銅造地蔵菩薩坐像、庚申塔等の石造物がある。
浄光寺の隣が諏方(すわ)神社だ。
「諏方神社」
諏方神社は、全国におよそ25,000社あるといわれる諏訪神社(諏訪大社を本社とする諏訪信仰の神社)の一つで、元久2年(1202)豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社より勧請して創建したという。
文安年間(1444〜49)に太田道灌が神領を寄進、さらに江戸時代には徳川三代将軍家光から社領5石の朱印を与えられている。現在の場所に社殿が造営されたのはェ永12年(1635)、以降、かつて新堀村と呼ばれた今の日暮里周辺から、谷中生姜で知られる谷中周辺にかけての総鎮守として人々の崇敬を受け、現在も地域の人々に広く信仰されている。
例年8月の末に行われる例大祭では、境内及び周辺道路に露店が立ち並び、多くの人々で賑わう。
諏方神社から道を戻って富士見坂の降り口の先、左手の奥まったところにあるのが養福寺だ。 |