山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.7


第7回  西日暮里駅〜青雲寺〜浄光寺〜諏方神社〜養福寺〜本行寺〜観音寺〜全生庵〜
      根津神社〜下町風俗資料館〜浄名院〜谷中霊園〜天王寺〜日暮里駅

                                                      H28年2月18日

 10:00、JR西日暮里駅に8名が集合、まず青雲寺へ向かう。駅前の道潅山通りを左へ。右手の開成学園の一帯が道潅山で、かつて大田道潅が江戸城の出城を作ったという伝説の地だ。その先の信号を左へ折れると間もなく左に青雲寺がある。

「青雲寺」
 日暮里から西日暮里にかけての一帯は、江戸時代の中頃から「ひぐらしの里」と呼ばれ、江戸近郊の行楽地として賑わい、青雲寺は、江戸時代に花見の場所として賑わったことから、「花見寺」とも呼ばれていた。また、近くには月見寺(本行寺)、雪見寺(浄光寺)などの寺院もあり、風流を好む江戸の文人墨客が集まったことで知られている。
 境内には「南総里見八犬伝」の作者として有名な江戸時代後期の戯作者、滝沢馬琴筆塚の碑硯塚の碑などがある。
 また、谷中七福神の一つである恵比寿神が祀られている。(1月1日〜10日のみ拝観可)

 青雲寺を出て、布袋様の寺として塀に布袋尊が描かれている修性院の先で左の富士見坂を上る。今日は曇っていて富士山は見えないが、晴れていてもマンションが建っているので見えるかどうか・・・
 坂を上がると左手に浄光寺がある。

「浄光寺」
 浄光寺は、江戸時代までは、諏方神社の別当であった。諏訪台の高台に位置し、展望が開け眺めが良く雪見に適することから「雪見寺」とも呼ばれていた。この近辺には、月見寺(本行寺)、花見寺(青雲寺)などの寺院もあり、風流を好む江戸の文人墨客が集まったことで知られている。
 江戸時代、将軍が鷹狩の際に立寄ってから御膳所にあてられ、将軍が来訪した時に腰掛けたとされる「将軍の腰掛けの石」と石の隣には、「三代将軍御腰掛石」という碑が本堂の裏手にある。
 また、山門の左手には、元禄4年(1691)に空無上人によって江戸の東部6ヵ所に開眼された「はじめの六地蔵」と呼ばれる江戸六地蔵の3番目として知られる大きな銅造地蔵菩薩立像、文化6年(1809)作の銅造地蔵菩薩坐像、庚申塔等の石造物がある。

 浄光寺の隣が諏方(すわ)神社だ。

「諏方神社」

 諏方神社は、全国におよそ25,000社あるといわれる諏訪神社(諏訪大社を本社とする諏訪信仰の神社)の一つで、元久2年(1202)豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社より勧請して創建したという。
 文安年間(1444〜49)に太田道灌が神領を寄進、さらに江戸時代には徳川三代将軍家光から社領5石の朱印を与えられている。現在の場所に社殿が造営されたのはェ永12年(1635)、以降、かつて新堀村と呼ばれた今の日暮里周辺から、谷中生姜で知られる谷中周辺にかけての総鎮守として人々の崇敬を受け、現在も地域の人々に広く信仰されている。
 例年8月の末に行われる例大祭では、境内及び周辺道路に露店が立ち並び、多くの人々で賑わう。

 諏方神社から道を戻って富士見坂の降り口の先、左手の奥まったところにあるのが養福寺だ。

「養福寺」
 江戸初期元和6年(1620)法印乗蓮が創建、湯島円満寺の木食義高(享保3年没)によって中興されたと伝えられている。
 かつての本堂や鐘楼堂、観音堂、地蔵堂などは第二次世界大戦で焼失し、戦後に本堂、客殿、鐘楼堂が再建された。
 唯一焼失を免れた朱塗りの仁王門は宝永年間(1704〜11)の建立といわれ、中にある仁王像は運慶の作と伝えられており(もっと時代が下ってからの作?)、荒川区の文化財(建造物)に指定されている。
 境内には談林派の俳人西山宗因ほかの句碑や自堕落先生の碑、江戸の四大詩家と称される柏木如亭の柏 山人の碑など多くの文人の碑がある。

 養福寺からさらに諏訪台通りを進むと広い通りに出る。その左の角に経王寺があり、その並びが本行寺だ。
 ちなみに経王寺は明治の初め、上野に彰義隊が立てこもって新政府軍と戦った上野戦争の時に、敗走する彰義隊士が逃げ込んだ寺である。

「本行寺」
 本行寺は、太田道灌の孫の太田資高が大永6年(1526)に江戸城内平河口に建立し、江戸時代に神田、谷中を経て、宝永6年(1709)に現在の地に移転したという。
 景勝の地であったことから「月見寺」とも呼ばれており、花見寺(青雲寺)、雪見寺(浄光寺)などの寺院もあり、風流を好む江戸の文人墨客が集まったことで知られている。
 戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延3年(1750)建碑の道灌丘碑のみが残っている。
 20世日桓(号一瓢)が小林一茶と親交があり、境内には、一茶の句碑「陽炎や道潅どのの物見塚」のほか種田山頭火の「ほっと月がある 東京に来てゐる」の句碑がある。
 また、幕末から明治時代に活躍した永井尚志や儒学者の市河寛斎・米庵親子の墓などもある。

 本行寺の前の道を、谷中銀座通りの方に向かい、「夕やけだんだん」と呼ばれる階段の手前、左斜めの道、坂上北側の宝珠山延命院の七面堂にちなむ「七面坂」を下り、突き当りを左に折れ少し行くと左手に小さな公園「岡倉天心記念公園」がある。

「岡倉天心記念公園」
 横山大観らと日本美術院を創設し、日本の伝統美術の復興に努力した岡倉天心の邸宅兼、日本美術院跡に台東区が作った公園で、昭和42年(1967)に開園した。
 園内には岡倉天心を記念した六角堂が建ち、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている。

 岡倉天心記念公園の少し先を左に折れ、突き当りを右「蛍坂」を上り、左に行き、谷中散歩のシンボル的存在の観音寺の土塀に沿い歩き、赤穂浪士ゆかりの寺、観音寺へ。

「観音寺」
 観音寺は、慶長年間(1596-1615)神田北寺町に起立し、延宝8年(1680)当地へ移転したという。江戸時代の土塀が残る寺として知られている。
 この塀は、名称を「築地塀」といい、土と瓦を交互に積み重ねてつくられた土塀で、その上には更に屋根瓦が重ねられているという変わった形状になっている。
 また、赤穂浪士討入りに名を連ねた近松勘六行重とその異母弟、奥田貞右衛門行高が当寺第6世朝山大和尚の兄弟であったことから、赤穂浪士討入りの会合にもよく使われたという。本堂の右手には赤穂浪士供養塔といわれる宝篋印塔がある。

 観音寺から谷中御廟管理事務所の角を左に折れ、広い道に出て右折、少し行った右手に山岡鉄舟ゆかりの全生庵がある。

「全生庵」
 全生庵
山岡鉄舟居士が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年(1891)に建立された。
 境内には、山岡鉄舟と交流があった落語家の三遊亭圓朝の墓所があり、墓石には山岡鉄舟の筆により「三遊亭圓朝無舌居士」と刻まれている。
 毎年8月11日の圓朝忌には、圓朝が収集した幽霊の絵などの軸物が本堂で展示される。

 全生庵から、その前の三崎坂(さんざきざか)を下り、団子坂下交差点を左折、不忍通りに面した中華レストランで昼食後、不忍通りを進み、千駄木二丁目交差点を右に折れると左手にツツジの名所として知られる根津神社がある。北参道口から入り、社殿の裏側を通り、乙女稲荷神社の鳥居をくぐり抜け、唐門から社殿に参る。

「根津神社」
 根津神社は今から1900年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間(1469〜87)に太田道灌が社殿を奉建している。
 宝永2年(1705)、5代将軍徳川綱吉が世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より遷座した。翌年(1706)完成した権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・西門・透塀・楼門の全てが欠けずに現存し、国の重要文化財に指定されている。
 境内には約5000坪のツツジ苑があり、4月中旬〜5月上旬にかけて、約50種3000株のツツジが咲き競う。

 根津神社の参拝を終え、表参道から不忍通りに出て右に、根津一丁目交差点で言問い通りを左折、暫らく歩くと、上野桜木交差点の角に下町風俗資料館付設展示場がある。

「下町風俗資料館付設展示場」
 不忍池の畔にある下町風俗資料館の付設展示場で、谷中6丁目で江戸時代から代々酒屋を営んでいた「吉田屋」の建物を現在地に移築したもの。 
 明治43年(1910)に建てられた建物は、腕木より軒桁が張り出している出桁(だしげた)造で、また正面入口には板戸と格子戸の上げ下げで開閉する揚戸(あげと)が設けられている。いずれも江戸中期から明治時代の商家建築の特徴を示すものだ。   
 屋内には、秤・漏斗(じょうご)・枡・樽・徳利・宣伝用ポスターや看板など酒類の販売に用いる道具や商いに関する資料が展示されている。

 下町風俗資料館付設展示場の脇の道を少しいった左手に、SCAI THE BATHHOUSE(スカイ ザ バスハウス)がある。

「SCAI THE BATHHOUS」
 スカイ ザ バスハウスは、200年の歴史を持つ由緒ある銭湯「柏湯」を、現代美術ギャラリーに改装したもの。
 外観は瓦屋根に煙突がそびえる風情あるたたずまいだが、館内は天井が高い銭湯の特徴を生かした開放的な空間が広がっている。
 1993年にオープンした、最先鋭の日本のアーティストを世界に向けて発信すると同時に、日本ではまだ紹介されていない海外の優れた作家を積極的に紹介する現代美術ギャラリーである。

 言問い通りに戻り、善光寺坂を上った左手が、数万体が並ぶ石地蔵の寺、浄名院だ。

「浄名院」
 寛文6年(1666)寛永寺36坊の一つとして創建され、享保8年(1823)浄名院となる。表門は享保年間(1716-35)の建立。
 境内には石の地蔵尊がずらりと並び、その数はおよそ2万5000。地蔵信仰の寺となったのは第38世地蔵比丘妙運和尚の代からである。妙運和尚は大阪に生まれ、25歳で日光山星宮の常観庵にこもったとき地蔵信仰を得、嘉永3年(1850)、一千体の石造地蔵菩薩像建立の発願を建てた。明治12年(1879)、さきの一千体の願が満ちると、さらに八万四千体建立の大誓願に進んだ。明治18年(1885)には地蔵山総本尊を建立。各地から多数の信者が加わり、地蔵菩薩像の数は増え続けている。
 境内にある青銅製の大きな地蔵菩薩坐像は、かつて江戸六地蔵第六番の地蔵菩薩像があった深川永代寺が明治維新のとき廃寺になったためと、日露戦争の戦没者を弔うため、明治39年(1906)新たに建立されたものである。

 浄名院を出て、その角を左に折れて進むと桜の名所でもある公園墓地、谷中霊園だ。

「谷中霊園」
 主に天王寺の境内の一部を、明治7年(1874)、染井霊園、雑司ヶ谷霊園、青山霊園と同時に開設された日本初の公園墓地。広さは約10万u、そこに墓碑が7000余りもある。
 霊園内には、15代将軍・徳川慶喜鳩山一郎横山大観渋沢栄一長谷川一夫なども眠っている。
 また、中央園路の半ばには、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなった天王寺五重塔跡がある。塔は総ケヤキ造り、彩色をしていない男性的な印象の塔だったというが、昭和32年、若い男女の焼身心中事件で放火され焼失し、現在は塔の礎石のみが残っている。

 徳川慶喜や横山大観、長谷川一夫などのお墓をお参りし霊園を抜けたところに天王寺がある。

「天王寺」
 天王寺は、かつて感應寺という日蓮宗の寺院だったが、元禄12年(1699)天台宗に改宗して寛永寺の末寺となり、天保4年(1833)天王寺と改めた。
 境内には日蓮宗の寺だったころに建てられた丈六の釈迦如来像がある。合掌する釈迦如来で、天王寺大仏として親しまれた。
 元禄13年(1700)から富くじが興行されると、目黒不動尊湯島天神とともに「江戸の三富」として賑わった。

 天王寺の横手の狭い道を下るとJR日暮里駅南口に出る。文政2年(1819)の創業の羽二重団子の店が駅近くにあるというので、そこで一休みして日暮里駅に戻り解散。


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