「寛永寺」
寛永寺は、寛永二年(1625)徳川三代将軍家光が、川越喜多院の慈眼大師天海大僧正に命じて創建されたもので、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に建立したものである。
寺号は、当時の年号をとって「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。
寛永寺には、家綱、綱吉など、徳川歴代将軍15人のうち6人が眠っている。
江戸時代の寛永寺は、現在の上野公園の全域に及ぶ広大な寺域を持ち、まさに江戸で最大の寺院だった。ところが幕末の戊辰戦争で、境内に彰義隊がたてこもって戦場と化し、官軍の放った火によって、全山の伽藍の大部分が焼失。現在の寛永寺は、子院であった大慈院の地に明治12年(1879)川越喜多院から根本中堂を移築したものである。
寛永寺を出て、上野中学校のまわりをまわる。、境内に隣接する霊園には、旧徳川家霊廟勅額門が残っている。
「旧徳川家霊廟勅額門」
寛永寺の徳川家の霊廟は回廊・拝殿・本殿・奥の院などほとんどが明治維新後の解体や戦災で失われ、現在は、第4代将軍家綱の厳有院霊廟勅額門と第5代将軍綱吉の常憲院霊廟勅額門が残っている。
勅額門とは天皇直筆の額を賜った門で霊廟への入り口であるが、必ずしもすべての霊廟にあったわけではない。
霊園と国立博物館の間の道を歩き、忍岡中学校の前を通って鶯谷南口前の陸橋を渡り、言問通りを右に折れ、昭和通に出る右手前に、恐れ入谷の鬼子母神として知られる真源寺がある。
「真源寺」(入谷鬼子母神)
真源寺は、光長寺第20世高運院日融上人が開山となり、万治2年(1659)に創建したという。
江戸三大鬼子母神の一つを祀っていることで、入谷鬼子母神の名称で有名な寺院である。そして、下谷七福神の福禄寿も祀っている。
また、7月の七夕の前後に当寺院の境内で、朝顔市が開かれることで、入谷の名物であることはもとより、東京下町の夏の訪れを伝える行事として、全国的にも知られている。
江戸三大鬼子母神は、下谷の入谷鬼子母神真源寺、雑司ヶ谷の法明寺境外堂鬼子母神堂、市川市の中山法華経寺をいうが、江戸時代には、中山法華経寺ではなく、本所本佛寺(現杉並区梅里)を指していた。
真源寺を出て、昭和通を左に進み一つ目の信号を左に折れ少し進むと右手に、小野照崎神社がある。 |