山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.8


第8回  鶯谷駅〜寛永寺〜旧徳川家霊廟勅額門〜真源寺(入谷鬼子母神)〜小野照崎神社寺〜
      御行の松〜ねぎし三平堂〜子規庵〜鶯谷駅〜東京国立博物館庭園〜地下鉄根津駅

                                                      H28年3月24日

 10:00、生憎の小雨に加え、冬に逆戻りしたような寒さの中、JR鶯谷駅北口に5名が集合。駅前を通っている言問通りに出て左折、寛永寺陸橋を渡り少し歩くと左手が徳川将軍家の菩提寺、寛永寺だ。

「寛永寺」
 寛永寺は、寛永二年(1625)徳川三代将軍家光が、川越喜多院の慈眼大師天海大僧正に命じて創建されたもので、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に建立したものである。
 寺号は、当時の年号をとって「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。
 寛永寺には、家綱、綱吉など、徳川歴代将軍15人のうち6人が眠っている。
 江戸時代の寛永寺は、現在の上野公園の全域に及ぶ広大な寺域を持ち、まさに江戸で最大の寺院だった。ところが幕末の戊辰戦争で、境内に彰義隊がたてこもって戦場と化し、官軍の放った火によって、全山の伽藍の大部分が焼失。現在の寛永寺は、子院であった大慈院の地に明治12年(1879)川越喜多院から根本中堂を移築したものである。

 寛永寺を出て、上野中学校のまわりをまわる。、境内に隣接する霊園には、旧徳川家霊廟勅額門が残っている。

「旧徳川家霊廟勅額門」
 寛永寺の徳川家の霊廟は回廊・拝殿・本殿・奥の院などほとんどが明治維新後の解体や戦災で失われ、現在は、第4代将軍家綱厳有院霊廟勅額門第5代将軍綱吉常憲院霊廟勅額門が残っている。
 勅額門とは天皇直筆の額を賜った門で霊廟への入り口であるが、必ずしもすべての霊廟にあったわけではない。

 霊園と国立博物館の間の道を歩き、忍岡中学校の前を通って鶯谷南口前の陸橋を渡り、言問通りを右に折れ、昭和通に出る右手前に、恐れ入谷の鬼子母神として知られる真源寺がある。

「真源寺」(入谷鬼子母神)

 真源寺は、光長寺第20世高運院日融上人が開山となり、万治2年(1659)に創建したという。
 江戸三大鬼子母神の一つを祀っていることで、入谷鬼子母神の名称で有名な寺院である。そして、下谷七福神の福禄寿も祀っている。
 また、7月の七夕の前後に当寺院の境内で、朝顔市が開かれることで、入谷の名物であることはもとより、東京下町の夏の訪れを伝える行事として、全国的にも知られている。
 江戸三大鬼子母神は、下谷の入谷鬼子母神真源寺、雑司ヶ谷の法明寺境外堂鬼子母神堂、市川市の中山法華経寺をいうが、江戸時代には、中山法華経寺ではなく、本所本佛寺(現杉並区梅里)を指していた。

 真源寺を出て、昭和通を左に進み一つ目の信号を左に折れ少し進むと右手に、小野照崎神社がある。

「小野照崎神社」
 小野篁(おののたかむら:小野小町の父親との伝説もある)を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る。
 仁寿2年(852)この地の住民が上野照崎の地に小野篁を奉斎したのが起源と伝わる。寛永年間(1624〜1643)、寛永寺の建立のため幕府より移転を命じられ、現社地に遷座した。江戸末期、回向院より菅原道真自刻と伝わる像を迎えて相殿に祀り、「江戸二十五天神」の一つに数えられた。
 境内には、慶応2年(1866)造営の社殿や、文政11年(1828)に築かれた富士塚など、江戸時代の遺構が残っている。

 小野照崎神社をお参りした後、その筋向いにある鮮魚店がやっているお店で昼食を摂ったのち、前の道・金美館通りを歩き、金杉通りを越えた次の信号を右斜めに進む。根岸四丁目交差点を過ぎた右手が、御行の松がある西蔵院だ。

「御行の松」
 根岸御行の松は、根岸の大松と人々に親しまれ、『江戸名所図会』や広重の錦絵にも描かれた名松で、江戸名松の一つに数えられ、西蔵院不動堂の境内にある。この松は、樋口一葉の作品「琴の音」や子規の俳句の題材にもなっている。現在の松はその三代目である。
 初代の松は、大正15年に天然記念物の指定を受けた当時高さ13.63メートル、幹の周囲4.09メートル、樹齢350年と推定された。枝は大きな傘を広げたようで、遠くからもその姿が確認できたという。しかし、天災や環境悪化のため昭和3年に枯死。同5年に伐採した。
 二代目の松は、昭和31年に上野中学校敷地内から移植したが、これも枯死してしまい、昭和51年8月、三代目の松を植えた。戦後、初代の松の根を土中より堀り出して保存し、不動堂の中にこの根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。
 御行の松の名の由来に定説はないが、一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したからともいわれる。また、この地を時雨が岡といったところから、別名時雨の松とも呼ばれた。

 御行の松を見た後、根岸四丁目交差点まで戻り右に折れ、暫らく行き、竹台高校前交差点を渡り斜め右の細い道を入った左手にねぎし三平堂がある。

「ねぎし三平堂」
 昭和の爆笑王と賞讃された林家三平の笑いの精神を受け継ぐ東京都台東区の施設で、館内には、林家三平の思い出の品々、台本、衣装、ネタ帳、レコード、名刺、双眼鏡などが展示されている。また高座では、毎月第3土曜日に「三平落語会」が開催されている。
 林家三平は落語家の名門に生まれながら、それまでの古典落語の殻を大きく破った三平落語の世界を創り上げた。自由闊達な話芸は、寄席だけにとどまらず、あらゆるメディアに進出し、神風タレント第一号となった。
 自宅一部を改装して作られた三平堂の前には「銀座の柳四世」と称された1本の柳の木が植えてある。

 ねぎし三平堂は「ドーもスイません」の土曜日と水曜日と日曜日に開堂で、残念ながら今日は閉館していて見学できなかった。ねぎし三平堂の先の角を左に、そして次の角を左に行った右手に子規庵がある。その向かいには、洋画家であり書家でもあった中村不折(1866-1943)が、その半生40年あまりにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有する台東区立書道博物館がある。

「子規庵」
 正岡子規が明治27年に移り住んだ家。旧加賀藩前田家下屋敷の侍長屋であったこの家で、子規は文学の近代化のために力を尽くし、35歳の生涯を閉じた。没後、母と妹が守り続けたが昭和20年の空襲で焼失。26年に再建され、27年東京都文化史蹟に指定される。子規生存当時の面影を残す家と庭が訪れた人々を明治に誘う。

 子規庵の前の道を進み、鶯谷駅北口まで戻る。まだ時間が早いので、国立博物館庭園が一般公開中なので行ってみることに。鶯谷駅南口へ出て、忍岡中学校の前を通り東京国立博物館へ。

「東京国立博物館庭園」
 東京国立博物館
の本館北側に広がる庭園は、池を中心に5棟の茶室を配し、四季折々の花や紅葉に彩られる憩いの 空間である。かつてあった動植物の研究部門「天産部」の名残で、珍しい樹木や野草が植えられているのも特徴。また、5代将軍徳川綱吉が法隆寺に献納した五重塔や、石碑や燈籠などが庭園には遺されている。
 春の桜の季節と秋の紅葉の季節には一般に開放される。

 桜も咲き始めた庭園を鑑賞した後、東京芸術大の先にある和菓子屋でお抹茶を頂き、言問通りへでて、地下鉄根津駅まで歩き解散。


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