山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.9


第9回  上野駅〜旧寛永寺本坊表門〜旧因州池田屋敷表門〜旧博物館動物園駅(京成線)〜
      旧東京音楽学校奏楽室〜上野東照宮〜旧寛永寺五重塔〜お化け灯篭〜大仏山〜時の鐘〜
      清水観音堂〜彰義隊墓所〜不忍弁天堂〜下町風俗資料館〜麟祥院〜湯島天神〜徳大寺〜
      御徒町駅

                                                      H28年4月21日

 10:00、上野駅公園口に5名が集合、夕方から雨という予報なので、降りだす前に終わりたいが・・・
 上野駅公園口前から東京文化会館国立西洋美術館を左に見て進み、信号を左折すると右手に旧寛永寺本坊表門がある。そして、その隣りには、開山堂(両大師)山門がある。

「旧寛永寺本坊表門(黒門)」
 黒門は、寛永期に寛永寺本坊の表門として寛永2年(1625)に、現在の東京国立博物館正門の位置に建てられた。江戸期には、数々の火災を免れただけでなく、慶応4年の戊辰戦争(上野戦争)では、本坊の他多くの伽藍が焼失した中で戦火を免れ、さらには関東大震災や東京大空襲らもくぐり抜けてきた。なお、門扉には上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の戦闘の激しさがうかがえる。






開山堂(両大師)
 開山堂は、東叡山の開山である慈眼大師・天海大僧正をお祀りしているお堂で、天海僧正が尊崇していた慈惠大師・良源大僧正もお祀りしているところから、一般に両大師≠ニ呼ばれ、庶民に信仰されてきた。
 ちなみに多くの神社や寺院で見かけるおみくじの考案者はこの慈惠大師といわれる。大師が観音菩薩に祈念して偈文を授かった観音久地が起源という。
 開山堂の初建は正保元年(1644)だが、現在のお堂は平成五年に再建されたものである。





 開山堂の前から東京国立博物館前を通り過ぎたところに、旧因州池田屋敷表門がある。そして、この先の交差点の角に、京成線旧博物館動物園駅の出入り口が残されている。

「旧因州池田屋敷表門」
 この門は、もと因州(現在の鳥取県の一部)池田家江戸屋敷の表門で丸の内大名小路(現在の丸の内3丁目)に建てられていたが、明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。
 のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれ、昭和29年さらにここに移建して修理を加えたものである。
 創建年代は明らかではないが、形式と手法からみて、江戸時代末期のものである。屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷表門として最も格式が高い。



「旧博物館動物園駅(京成線)」
 博物館動物園駅は、昭和8年(1933)の京成本線開通に合わせ、東京帝室博物館・東京科學博物館・恩賜上野動物園や東京音樂學校、東京美術學校などの最寄り駅として開業した。しかし、老朽化や乗降客数の減少が響いたため、平成9年(1997)に営業休止、平成16年(2004)に廃止となった。廃止後も駅舎やホームは現存している。







 旧博物館動物園駅の出入り口と道路を挟んだ反対側に、旧東京音楽学校奏楽室があるが、残念ながら、改修中で幕に覆われ、その外観を見ることはできなかった。

「旧東京音楽学校奏楽室」

 明治23年(1890)に完成した旧東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)の本館中央部にあった講堂兼ホール。ルネッサンス様式を取り入れた建物は日本最古の洋式音楽ホールとして、国の重要文化財に指定されている。館内には、日本最古といわれる、徳川頼貞候から寄贈を受けたパイプオルガンがある。
 滝廉太郎山田耕作三浦環など、この舞台から多くの音楽家が巣立っていった。
現在改修中 改修前の姿

 奏楽室の横から、東京都美術館の脇を通り、上野動物園入口の前を通り過ぎると、立派な騎馬像「小松宮彰仁親王像」が建っている。

「小松宮彰仁親王像」
 小松宮彰仁親王は、江戸時代末期から明治時代に主に軍人として活躍した皇族の一人。征東大将軍として鳥羽・伏見の戦いに、会津征討越後口総督として戊辰戦争に、旅団長として西南戦争に参戦した。明治35年(1902)には明治天皇の名代として、イギリス国王エドワード7世の戴冠式にも出席している。
 明治10年に博愛社が創立されると総長に就任、その後日本赤十字社に改名されると総裁となり、赤十字活動の奨励・発展に尽力。現在皇族が行っている社会活動公務の基礎となった一人である。
 この銅像は、明治45年(1912)に建立されたものである。


 小松宮彰仁親王像の前を過ぎると右手に上野東照宮の大石鳥居がある。鳥居をくぐり、表参道を進む。参道の両側には、諸大名が寄進した約200基の石灯籠が並び、東照宮が近づくと青銅灯籠が50基ほど並んでいる。

「上野東照宮」
 上野東照宮は、寛永4年(1627)津藩主藤堂高虎と天台宗僧侶天海僧正により、東叡山寛永寺境内に家康公をお祀りする神社として創建され、正保3年(1646)には正式に宮号を授けられ「東照宮」となった。
 現存する社殿は、慶安4年(1651)に三代将軍・徳川家光公が大改修し、日光東照宮をモデルに、透塀に囲まれた中に金箔をはりつめた壮麗な社殿を建立したものである。
 参道の突き当りにある唐門は、日光陽明門のミニチュアともいわれる門で、上部には松竹梅の彫刻、門の左右には左甚五郎の作といわれる昇り龍と下り龍の彫刻が見られる。

 東照宮を後に参道を戻ると、左手に旧寛永寺五重塔が見える。また、右手には東照宮ぼたん苑がある。牡丹は今がちょうど見ごろだ。

「旧寛永寺五重塔」
 旧寛永寺五重塔は、寛永8年(1631)に下総国古河藩主の土井利勝が、東照宮造営の際に寄進したものだが、火災に遭い焼失し、寛永16年(1639)同じ土井利勝により再建されたもので、第五層のみが銅板葺で、他は瓦葺となっている。高さは地上から先端の宝珠 まで36m、第一層には釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒の四方四仏が祀られている。
 東照宮五重塔は、後に寛永寺の所属となり、現在は東京都に寄付されて上野動物園内の施設になっている。

「東照宮ぼたん苑」
 上野東照宮ぼたん苑は、昭和55年(1980)に日中友好を記念して開苑した回遊式の日本庭園。現在は、中国牡丹、アメリカ品種、フランス品種を含め500株以上の牡丹があでやかに咲き誇る。

 東照宮参道の南側、植え込みの中に巨大な石灯籠が建っている。これが「お化け灯籠」である。

「お化け灯籠」
 徳川家康の家臣だった佐久間勝之により、寛永8年(1631)に寄進されたものである。
 勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで一万八千石を領した。
 燈龍の大きさは、高さ6.06m、笠石の周囲3.63mと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ばれた。
 佐久間勝之が寄進した京都南禅寺、名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈龍に数えられる。




 お化け灯籠のすぐ南側に小高い丘がある。これが大仏山である。丘を登ると、正面に大仏パゴダが見える。

「大仏山」
 この場所に最初に大仏が建ったのは寛永8年(1631)、粘土に漆喰塗りの釈迦如来坐像だった。 その後、万治年間 (1660) に青銅製の釈迦像となり、元禄11年 (1698)には大仏殿も建立された。
 しかし、幕末、安政2年(1855)の大地震で首が落下。修復されたが、明治になって東京府が堂を撤去、露座となり、そして関東大震災で再び首が落ち、修復されることなく胴体部分が太平洋戦争の金属供出令で供出され、上野の大仏様は消えてしまった。
 しかし、昭和42年(1967)関東大震災の50回忌にあたり上野観光連盟が願主となって大仏パゴダを建立。昭和47年(1972)寛永寺に保管されていた顔面部がレリーフとして安置され現在の姿となった。
 大仏パゴダには、本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られている。パゴダとはミャンマー様式の仏塔のことで、「釈迦の住む家」であるとされている。

 大仏山の近くの高台に時鐘堂が建っている。この鐘は、江戸の町に時を告げていた、時の鐘といわれるものだ。

「時鐘堂(時の鐘)」
 この鐘は、寛文9年(1669)に設けられたが、何度か造り直され、現在の鐘は天明7年(1787)に改鋳されたもの。
 現在も正午と朝夕6時の計3回、毎日時を告げている。
 芭蕉が「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と詠んだ、上野の鐘はこの鐘といわれている。
 江戸時代、時の鐘は上野や浅草のほか、日本橋石町、内藤新宿天龍寺など11ヵ所にあり、1日12回鳴らされていた。





 大仏山から南に下ってくると左手に清水観音堂が見えてくる。

「清水観音堂」
 清水観音堂は、京都東山の清水寺を模した舞台造りのお堂で、寛永8年(1631)上野寛永寺を築いた天台宗の天海大僧正により建立され、元禄11年(1698)に現在の場所に移転してきた。
 また、御本尊も清水寺より恵心僧都作の千手観音像を迎え、秘仏としてお祀りしてある。
 このお堂は、何度かの火事や上野戦争、関東大震災や東京大空襲などの被害に遭わず、上野に残る最古の建物である。
 境内にある月の松は、江戸時代の浮世絵師歌川広重の「名所江戸百景」において「上野清水堂不忍ノ池」そして「上野山内月のまつ」として描かれている。
 この月の松は、江戸時代の植木職人の技の粋を凝らして作り上げたものだが、明治初期の台風により被害を受けて永らく失われていたが、浮世絵にも描かれていた江戸の風景を復活させるため、平成24年(2012)に復元されたものだ。


 清水観音堂の東側に、上野戦争の戦死者をの供養塔である彰義隊墓所がある。そして、その南側には、上野山のシンボルでもある西郷隆盛銅像が建っている。

「彰義隊墓所」
 十五代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応4年(1868)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志を募った。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士などが集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙し、戦争が起こる。いわゆる「上野戦争」である。上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。
 生き残った小川ら隊士は、明治7年(1874)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となったこの地に彰義隊戦士の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。

「西郷隆盛銅像」
 日本の武士・軍人・政治家である西郷隆盛(1828〜1877年)の顕彰を目的として建立された銅像で、明治の著名な彫刻家・高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作)である。明治31年(1898)、西郷隆盛の夫人も参列して除幕式が行われた。
 西郷像は、江戸城無血開城の功労者ということで皇居前に建てられる計画があったが、西郷は西南戦争で明治政府と戦ったため、朝敵として亡くなっている。朝敵の像を皇居前に建てるということは許されず、代わりに選ばれた場所が上野ということである。

「上野恩賜公園」
 上野恩賜公園は、明治6年(1873)の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に、日本で初めて公園に指定された。
 ここは、江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり、大正13年(1924)に宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜」の名称が付いている。
 当初は、寛永寺社殿と霊廟、東照宮、それに境内のサクラを中心にした公園であったが、その後、博物館や動物園、美術館などが構築され、文化の薫り高い公園へと衣替えされた。
 総面積約53万uである。




 上野公園内を通り抜け、不忍池の池畔に出て不忍辯天堂へ向かう。

「不忍辯天堂」
 不忍池は、かつて上野の山一帯が「忍岡」と呼ばれていたことから名付けられたという。つまり、高いところが「忍岡」で、低地が「不忍池」ということなのだ。
 不忍池辯天堂は、寛永2年(1625)に江戸の鬼門を護るため、京の比叡山延暦寺に倣って上野の岡に東叡山寛永寺を創建した慈眼大師・天海が、常陸国下館城主・水谷勝隆という人に不忍池を琵琶湖に見立てて池の中に竹生島を模した小島を築かせ、竹生島宝厳寺の弁財天を勧請して弁天堂を建てた。
 最初のうちは文字通りの離れ小島で、船を使って行き来していたようだが、後に誰でも気軽に往来できるようにと、石橋が架けられた。

 弁天堂から池畔の遊歩道を歩いていると「駅伝の碑」が建っているのを見つけた。大正6年(1917)に、 3日間かけて京都と東京の間(508km 23区間)で 駅伝が行われた。 そのゴール地点がここであるという。
 これが駅伝のはじめとされ、これを契機として、 3年後の大正9年(1920)に 箱根駅伝が誕生した。(なお、全く同じ形の碑が、駅伝の出発地である京都にも建てられている。)

 不忍池の南東の角に面して、ノスタルジックな街並みを再現している台東区立下町風俗資料館がある。

「台東区立下町風俗資料館」
 古き良き江戸の風情をとどめる大正時代の東京・下町の街並みを再現するとともに、台東区を中心とした下町地域にゆかりの資料、生活道具や玩具、さらに季節やそれに応じた年中行事に関連するものなど、さまざまな資料を展示している。
 1階は今から100年ほど前、大正時代の長屋を再現、四季折々の下町の風情と暮らしが体感できるす。2階には台東区を中心とした下町地域にゆかりの資料や生活道具が展示されている。


 下町風俗資料館の近くのファミレスで昼食を摂った後、不忍通りを不忍池に沿って歩き、池之端一丁目交差点を左折、すぐに天神下交差点を右折して、春日通りを暫らく歩くと、右手に麟祥院がある。

「麟祥院」
 三代将軍徳川家光の乳母で、江戸城大奥で権勢を振るった春日局が隠遁した寺で、境内奥には春日局の墓がある。
 ちなみに麟祥院とは、春日局の法号である「麟祥院殿仁淵了義尼大師」に由来する。
 明治20年(1887年)には井上円了が、この寺の境内の一棟を借りて東洋大学の前身である「哲学館」を創立した。そのため「東洋大学発祥之地」でもあり、碑も建てられている。


 麟祥院を出て、春日通りを少し戻ると右手に、湯島天神の大きな鳥居が見える。鳥居をくぐった左手が学問の神様を祀る湯島天神だ。

「湯島天神」
 社伝によれば、雄略天皇2年1月(458)、雄略天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建されたと伝えられている。南北朝時代の正平10年(1355)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀した。この時をもって正式な創建とする説もある古社である。
 菅原道真をまつり、学問の神様として知られている。また、梅の名所でもあり、江戸でも屈指の行楽地として賑わったという。
 賑わった理由は、富くじ(今でいう宝くじ)である。湯島の富くじは、谷中の感応寺(後の天王寺)、目黒不動と並んで「江戸の三富」といわれ、幕府が公認した富くじであった。

 湯島天神を参拝した後、本日最後の場所である徳大寺へ。春日通りを御徒町駅へ向けて歩き、JRのガードのすぐ手前、アメヤ横丁の通りを左に入り少し進んだ左手に徳大寺がある。

「徳大寺」
 アメヤ横丁の商店街の中にある日蓮宗の寺院で、本尊は大曼荼羅。開運摩利支天を祀ることから摩利支天山とも呼ばれる。
 摩利支天は実態が見えず、自在の通力があるとされ、一心に念ずれば様々な力を得られ、他者から害されることもなく、財産を盗まれることがなく、すべての災いから逃れられると伝えられている。戦いを勝利に導く武神で古くは武士たちの信仰を集めていた。
 創建は今からおよそ600年前、安置されている摩利支天は聖徳太子の作とも伝えられている。
 「下谷の摩利支天さん」として呼ばれ江戸っ子たちに親しまれ、大黒天、弁財天と並ぶ福徳の三天と呼ばれるようになった。

 徳大寺参拝後、アメヤ横丁を戻り、御徒町駅前に出て解散。


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