池上七福神めぐり

                                                        2017.1.5

 生涯大学30期文化AクラスOBの有志で行っている「歩きま専科」の2017年第一回目は、お正月でもあり、「深川七福神」巡りを行った。

 七福神は、七つの災いを除き、七つの幸せを与える神々であり、また、人に七つの道を示し、人々に七つの徳をそなえさせる福神でもある。
 七福神巡りは、谷中の七福神巡りが最初といわれている。有名になったのは、隅田川の七福神巡り、文化元年(1804)向島百花園が開園されてから始まった。その他各地に七福神巡りが始まり、文化文政の頃からとくに盛んになった。
 深川七福神は、明治末期ごろに始まり親しまれてきたが、戦災のため、安置してあった各社寺が全焼し一時中断したが昭和45年(1970)正月から復活した。


 11:30、地下鉄門前仲町駅に、9名が集合、風がちょっと冷たいが晴天に恵まれスタート。まずは、駅近くの「門前茶屋」で、深川めしで腹ごしらえ。
 永代通りを東(木場方面)に少し行くと左手に、恵比須神が祀られている富岡八幡宮がある。

富岡八幡宮 【恵比須神】
 富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建された。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得た。「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」である。
 深川七福神恵比須神は境内西側にある恵比寿宮に奉祀されている。

 恵比寿神は、大国主命の御子神にあたる事代主命で、大変釣りを好まれたので、烏帽子に狩衣をまとい、右手に釣竿、左手に鯛を抱えて岩に座った姿をしている。
 もともとは海上安全・航海安全の神とされていたが、のちに商売繁盛の神としても広く信仰されるようになった。

 恵比須神を出て右へ歩き、高速道路の下をくぐり、冬木交差点を右に折れた左手に、弁財天を祀る冬木弁天堂がある。

冬木弁天堂 【弁財天】
 冬木弁天堂は、材木商冬木五郎右衛門直次が承応3年(1654)に江州竹生島(滋賀県)の弁財天の分霊を日本橋茅場町(中央区)の邸内にまつり、宝永2年(1705)にその孫弥平次がこの地に移したと伝えられている。現在の弁天堂は、昭和28年に再建されたもの。深川七福神弁財天を安置している。

 弁財天は、インド名をサラスバティという川の名で、意訳して、大弁天、美音天といわれ、この川の神が、悪声を変じて美声に変える音楽の神、芸術の神であった。仏教の神となり、才智弁舌の神とされ、我が国では、弁才天より弁財天として、財宝を施す福の神として信仰されるようになり、商売繁盛の富有の福徳を授け、芸道音楽の仏神として位置づけられた。
 お姿は、色白美顔の女神で、左手に琵琶を抱き、右手でこれを弾いている坐像が多い。

 冬木交差点へ戻り直進、深川一丁目交差点を右に折れるとすぐ右手が福禄寿を祀っている心行寺だ。

心 行 寺 【福禄寿】
 心行寺は、元和2年(1616年)京橋八丁堀寺町に創立。開山は観智国師の高弟、光蓮社団誉一路屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室養源院殿である。
 寛永10年(1633年)現在地深川寺町に移転した。旧本堂庫裡は大正12年9月関東大震災により焼失、その後昭和7年に再建された本堂庫裡も昭和20年3月戦災のため再度焼失した。現本堂は浅香富三氏設計により奈良平安朝様式に現代風を加味して昭和42年完成したものである。深川七福神福禄寿として親しまれている。

 福禄寿は、星宿の神、南十字星の化身ともいわれて、長寿をつかさどる人望福徳の福神である。背丈が低く、頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年といわれ、杖を右手に、左に長命の鳥、鶴を従え長命と円満な人格を人々に授ける福神である。

 心行寺を出て右へ、左に芭蕉の奥の細道出発点である採茶庵を橋の袂に見ながら海辺橋を渡り、三叉交差点の右斜めの道をまっすぐ進むと突き当り右側が大黒天を祀る圓珠院である。

圓 珠 院 【大黒天】
 圓珠院は、享保の頃旗本永見甲斐守の娘、お寄の方が寄立した後、円珠院殿妙献日寄大姉の法名で、享保15年(1730)末にこの寺に葬られた。深川七福神の一つ大黒天として親しまれている。

 大黒は大国に通じ、大国主命に結びつき福神の形となり、烏帽子、狩衣をつけ、右手に小槌をかざし、左手に大きな袋をかつぎ、米俵の上に座すようになった。小槌と袋は限りない財宝糧食を蔵していることをあらわし人々に財宝を授ける福神である。

 圓珠院の斜め前交差点を左に歩き、平野二丁目交差点を碑有に折れ、間宮林蔵の墓を左手に見て進むと左側角に毘沙門天を祀る龍光院がある。

龍 光 院 【毘沙門天】
 龍光院は、慶長16年(1611)中央区馬喰町に雲光院塔頭として創建、明暦3年(1657)の大火で焼失し、岩井町(千代田区)に移転、天和2年(1682)の大火でも焼失しその年に深川へ移転してきたという。深川七福神の一つ毘沙門天として親しまれている。

 毘沙門天はインド名バイスラバンナの音写で、もともとヒンズー教の財富の神であったクヴェーラ神が仏教に取り入れられ、仏神となったもの。四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)の随一として須弥山の中腹に住み、大勢の夜叉や羅刹を率いて北方を守護している。
 わが国では仏教守護から転じて、国土守護の武神として信仰されるようになった。その姿は、身に甲冑をつけ、左手に宝塔を捧げ、右手には三叉戟(三つまたの槍)を持ち、忿怒の形相で邪鬼を踏みつけ毘沙門立ちをしている。

 龍光院を出て左に行き、阿茶の局の墓で知られる運光院を左手に見ながら次の信号を左に折れ、深川江戸資料館通りに出て暫らく直進。清澄通りを渡って右に行き、清澄庭園に沿って左に折れ、清澄公園入口の交差点を右折し、清洲橋通りを渡ると左に布袋尊を祀る深川稲荷神社がある。

深川稲荷神社 【布袋尊】
 深川稲荷神社は、寛永七年(1630年)の起立で、深川地区では、創立の古い神社である。旧地名深川西大工町から西大稲荷と称した。深川七福神のひとつ布袋尊が祀られている。

 布袋尊は、中国五代のころ、浙江省奉化県に実在した契此という高僧といわれている。大きな袋を持ち、これに食べ物や日常品を入れ、杖をたずさえ、大きな団扇を手にし、身体は低いが、腹は太鼓腹、半裸身、粗衣をまとい、常に笑顔、清貧にあまんじ、諸国を遊行し、子供と遊び、酒脱、楽天的な和尚として親しまれてきた。また人の吉凶、時の晴雨を予知したといわれた。
 中国において、布袋尊を弥勒菩薩の化身として、一般に信仰され、ひろく親しまれるようになり、わが国に伝来し、清廉潔白大気度量を人々に授ける福神として親しまれ、信仰されるようになった。

 深川稲荷神社を出て右に進み、2つ目の交差点を右折し万年橋を渡り、ちょっと寄り道のため左折。右に芭蕉稲荷神社(芭蕉庵跡)を見て、その先、隅田川と小名木川の角にある芭蕉記念館分館に寄り、隅田川に沿って少し歩き、芭蕉記念館に寄る。

芭蕉稲荷神社(芭蕉庵跡) 芭蕉記念館

 芭蕉記念館見学後、向かいの道を直進すると左手に寿老人を祀ってある深川神明宮がある。

深川神明宮 【寿老神】
 深川神明宮は、深川において創立の最も古い神社である。大阪摂津の深川八郎右衛門が、この付近に、深川村を開拓し、その鎮守の宮として、慶長元年(1596)伊勢皇大神宮の御分霊をまつって創建した。
 徳川家康が、この村に来て、村名を尋ねたがないので、深川八郎右衛門の姓をとって、深川村と命名せよといわれた由、以来深川村が発展し、深川地区の各町に冠せられたりし、深川の地名のもとになった。

 寿老神は、寿老人とも書き、中国道教の神である。また中国の老子の化身の神ともいわれている。白髪長寿の老人の姿をして、杖を手にし、杖には人命の長寿を記した巻物を吊し、鹿を伴っている。鹿は、長寿を司る寿老神の神使とされていて、人に延命長寿の福徳を授ける福神として、信仰されてきた。

 これで七福神を巡り終え、深川神明宮を出て左に行き清澄通りを左折、その先の地下鉄森下駅で解散する。

 解散後、希望者のみで、清澄通りを暫らく歩き、両国駅近くに昨年末に開館したばかりの北斎美術館に寄り見学する。

北斎美術館

 北斎美術館見学後、錦糸町の居酒屋「三四郎」にてささやかな新年会をして解散する。

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