甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

                                                     2015.4.21

 Hiroが参加している「経堂歴史勉強会」のバス旅行で、勉強会の常任講師である宮瀧先生が教鞭をとっている大東文化大学のある埼玉県東松山市を訪ねて来ました。
 小田急線・経堂駅近くのユリノキ公園を、8時20分に今回の参加者20名を乗せバスは出発、環八通り・目白通りから関越自動車道に入り走行、「東松山IC」で下り、最初の目的地「箭弓稲荷神社」へ向かう。箭弓稲荷神社にて、宮瀧教授と合流する。

 東武東上線の東松山駅のすぐ近くにある「箭弓稲荷神社(やきゅういなり)」は、奈良時代の和銅五年(712年)の創建で、1030年(長元3年)に下総国の城主平忠常の討伐に出かけた源頼信がこの周辺に一泊した際に、近くにあった野久稲荷神社に詣でて、太刀一振と馬一頭を奉納すると、その夜に白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んでいくのを目撃し、これは神のお告げだと確信、直ちに敵陣に攻め込んだ頼信は快勝し、立派な社殿を建造し「箭弓稲荷大明神」とたたえたと伝えられる。以来、松山城主、川越城主などの庇護を受け、五穀豊穣、商売繁昌、芸道向上等の神様として信仰を集めている。

箭弓稲荷神社


 「やきゅう」の読み方から、野球必勝の祈願に訪れる人も多く、珍しいバットやホームベースの形をした野球絵馬が人気だとか。

箭弓稲荷神社  野球絵馬


 境内にある牡丹園は大正12年(1923)、東上本線坂戸町駅〜武州松山駅(現在の東松山駅)間の延伸開業の際に、東武鉄道社長根津嘉一郎から奉納されたもので、現在では、3,500平方メートルの敷地に1,300株の牡丹がある。

箭弓稲荷神社  牡丹園


 箭弓稲荷神社を参拝した後、宮瀧教授が教鞭をとる大東文化大に向かうが、途中、大学の近く、岩殿観音の参道の先にある弁天沼に寄る。

 弁天沼は、坂上田村麻呂が悪龍を退治しその頭を岩殿山の麓に埋め、のちにその地に用水池を掘ったところ蛙が住みつかなかったことから別名「鳴かずの池」といわれている。

弁天沼


 弁天沼見学後、岩殿観音の参道を進み、仁王門のところまで行く。参道の両脇には家が建ち並んでおり、かつての正法寺と門前町の繁栄の面影を残しているが、実際に商店の建物のまま残っているのは、仁王門の手前の丁字屋旅館(江戸時代から昭和初期まで営業していた)と向かいの麺屋十番(さぬき系の麺をダシの効いたつゆで出すうどん屋)のみである。

岩殿観音
参    道 丁字屋旅館


 岩殿観音の通称で知られる正法寺は、坂東三十三観音霊場の十番札所である。寺伝によれば養老2年(718年)に、沙門逸海が千手観音像を刻み開山し正法庵と称し、鎌倉時代初期に源頼朝の命で比企能員が復興した。頼朝の妻北条政子の守り本尊だったと伝わっている。天正2年(1574年)に栄俊が中興開山となる。天正19年(1591年)に、徳川家康より寺領二十五石の朱印地を与えられる。

 観音堂には、仁王門からかなり急勾配の石段を上ることになるので、お年寄りの多い我ら一行は仁王門を見るにとどめ、大東文化大学へ向かう。

 大東文化大学・東松山キャンパスは、昭和42年(1966)4月に開設され、現在すべての教養課程が行われている。東京ドーム約6個分相当の広大なキャンパスである。
 宮瀧先生の案内で、学生食堂で昼食だ。いろいろなメニューがあり、ワンコイン(500円)で満腹!
昼食後に、宮瀧先生が相談役をされている應援團の円山団長はじめ3名の4年生の挨拶と、宮瀧先生を含めての校歌を聴かせて頂いた。

大東文化大学・東松山キャンパス


 その後、大東文化大学のすぐ近くにある、埼玉県平和資料館を見学する。埼玉県平和資料館は、風化しつつある戦争の体験を次の世代に引き継ぎ、県民に戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えることにより、平和に対する意識の高揚を図り、平和な社会の発展に寄与することを目的に、平成5年8月に開館した。

埼玉県平和資料館


  常設展示室では、1920〜1940年代の昭和初期から終戦までの期間を中心に、県民と戦争との関わりを歴史的な移り変わりのなかで理解できるような展示がされている。

埼玉県平和資料館
 常設展示室  国民学校の教室の中で、修身の授業を見ながら戦時教育の一端を知ることができる。


 館内には、41mの高さの展望塔があり、展望室(海抜147.5m)からは関東平野が一望できる。今日は曇ってはいたが、新宿副都心や東京スカイツリーが眺望できた。

埼玉県平和資料館  展望室より


 
埼玉県平和資料館を見学した後、隣接する埼玉県こども動物自然公園に。園内に、大東文化大学ビアトリクス・ポター資料館があり、見学する。資料館の外観や中庭、菜園は、ピーターラビットの産みの親であるビアトリクス・ポターが暮らした英国・湖水地方のヒルトップ農場を再現したものである。

ビアトリクス・ポター資料館


 開かれた大学の施設として、一般公開されている資料館には、ビアトリクス・ポターの生涯や「ピーターラビットのおはなし」の出版までの経緯をたどるパネルや希少な私家版のほか、原画や直筆の手紙、24冊すべての初版本など世界的にも評価の高い貴重な資料が展示されている。


 学芸員の方に詳しく説明をしていただく。ピーターラビット・ファンにとっては必見のところである。
ピーターラビット・スーベニアショップもあり、ピーターラビット・グッズを買うことができる。
 ついでと言ってはなんだが、折角動物公園に来たので、東園にあるコアラ舎へ行きコアラを見てくる。

埼玉県こども動物自然公園のコアラ


 最後の見学地は、東松山市に隣接する比企郡吉見町にある「吉見百穴(よしみひゃくあな)」。古墳時代後期の横穴墓群の遺跡で、凝灰岩の岩山の斜面に多数の穴が空いていることから、一見異様な印象を受ける遺跡である。穴の数は219個と言われ、このような遺跡としては日本一の規模である。穴の入り口は直径1メートル程度だが、内部はもう少し広くなっていることが多い。

吉見百穴


 明治20年(1887)、坪井正五郎氏(当時東京大学院生)によって大発掘が行われ人骨、玉類、金属器、土器類が出土した。坪井氏はこの横穴をコロボックル(アイヌ語で「ふきの下」という意味で、アイヌの伝説に出てくる小人)の住居として作られたものと発表したが、その後、日本各地で調査例、資料が増加しその結果、古墳時代の横穴墓であることが分かった。

吉見百穴


 昭和19〜20年に、吉見百穴とその周辺の丘陵地帯に大規模な地下軍需工場が造られた。今でも通行可能な直径3メートル程の開口部を持つ洞窟が地下軍需工場の跡である。縦と横の洞窟がそれぞれ交差し碁盤の目のようになっているのが特徴である。

 太平洋戦争の末期、日本各地の軍需施設は、米軍の大規模な空襲によって大きな損害を受けた。この危機に、当時最大といわれた中島飛行機(現在の富士重工)の大宮工場エンジン製造部門の全施設をこの地下に移設することになったが、本格的な生産活動に移る前に終戦となった。

吉見百穴
地下軍需工場の跡 ヒカリゴケ


 吉見百穴の横穴墓内にはヒカリゴケが自生している。ヒカリゴケはコケ類の一種であり、緑色の光を放出しているように見えるところから、この名がついている。ヒカリゴケは一般的に中部以北の山地に見られるが、関東平野に生育していることは植物学上極めて貴重であり、昭和3年に国の天然記念物に指定されている。


 吉見百穴を見学した後帰路に着く。東松山ICから関越自動車道に入り、三芳PAで休憩。ここでお世話になった宮瀧先生とお別れし、環八通りから経堂に戻り、解散となった。普通の旅ではあまり行かないようなところを見学でき、勉強になりました。宮瀧先生、ビアトリクス・ポター資料館の学芸員の方、吉見町の弓さん、どうも有り難うございました。

                                                  おわり




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