甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

                                                       2008.4.19〜21

第2日目

 今日は晴れて観光日和だ! 8:40 宿を出発。平泉に向かう途中にある達谷窟に寄る。門前にある枝垂桜が満開で見事である。

達  谷  窟
 達谷窟の門前にあるわらぶき屋根の御供所と、その前に見事に咲いている枝垂桜。


達谷窟 毘沙門堂 達谷窟 岩面大仏
 達谷窟は、およそ1200年前、この地方を治めていた悪路王を坂上田村麻呂が征伐し、戦勝は毘沙門天のご加護と感じ、その御礼に、悪路王が住んでいた洞穴前に清水の舞台を模て毘沙門堂を勧進したものである。源頼朝も平泉凱旋の折参拝しているとのこと。  毘沙門堂の西側の岩壁には、高さ16.5m、顔の長さ3.6m、肩幅9.9mもある顔面大仏が彫られている。全国で五指に入る大像で、「北限の磨崖佛」として名高い。


蝦蟆ヶ池弁天堂 姫待不動堂 不動堂の裏にて
 毘沙門堂の前庭にある蝦蟆ヶ池と中島に立つ弁天堂。慈覺大師の作と伝えられる八肘の弁財天が祀られている。  姫待瀧の本尊として祀られた大師様不動の大像が祀られている姫待不動堂
 奥に見えるのは金堂。
 不動堂の裏手に群生しているカタクリの花。


 達谷窟を見学後は毛越寺へ。藤島先生が連絡して頂いていたので、毛越寺執事長の藤里さんがお出迎えしてくれ、お話をして下さった。

毛  越  寺  に  て
 毛越寺執事長の藤里さんよりご説明を頂く。  平成元年に建立された、平安様式の新本堂。


毛 越 寺  浄 土 庭 園
 毛越寺は、藤原氏二代基衡が建立した園隆寺と、三代秀衡が完成させた嘉勝(祥)寺をあわせて毛越寺と呼ばれるようになったが、度重なる災禍により全ての建物は焼失したが、現在は藤島亥治郎先生等による発掘調査により、大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されている。特別史跡に指定されている。

毛越寺 伽藍(復元図) 毛越寺 大金堂園隆寺跡
 昭和29年からの発掘調査による資料を基に描かれた伽藍復元図。吾妻鏡などの古記録とも合致するものである。(手前は南大門、中央が金堂園隆寺、左が嘉祥寺、その間に講堂が建っている)  大金堂園隆起跡の礎石。


毛越寺庭園 遣水 毛越寺 常行堂
 昭和50年代の発掘調査により発見された、背後の塔山から清水を池に伝える「遣水」も復元され、毎年5月第4日曜日には遣水の畔で「曲水の宴」が開催される。  現常行堂は、享保17年(1732)に再建されたもので、宝形造りで須弥壇中央に本尊・宝冠の阿弥陀如来、両側に四菩薩、奥殿には秘仏としてあがめられている摩多羅神(またらじん)が祀られている。


毛 越 寺 庭 園 に て
 大泉が池と石組みで荒磯の岬を示す出島とその先に、程よく南西に傾いた高さ約2.5mの立石。毛越寺の象徴的な構図である。  大泉が池とその畔の枝垂桜。


毛越寺に立つ芭蕉句碑
 この地を訪れた芭蕉が詠んだ「夏草や兵共が夢の跡」が刻まれた句碑(右:文化3年(1806)建立の句碑、左:昭和6年(1931)建立の芭蕉真筆の句碑)  新渡戸稲造訳の英文(The summer grass 'Tis all that's left Of ancient warriors' dreams)の句碑。


 毛越寺を見学した後は、隣の観自在王院跡を見学する。

観 自 在 王 院 跡
 観自在王院は、藤原氏二代基衡の夫人が営んだと伝えられており、発掘調査によれば、四隅が丸くなった方形の池(舞鶴が池)には、巨石を積み重ねた荒磯様の石組や中島などがあり、北岸は広庭、それに向かって西に大弥陀堂跡、東に小阿弥陀堂跡、東岸には、鐘楼跡と普賢堂と伝えられる遺跡もある。小阿弥陀堂の北には、基衡夫人墓と称される墓碑もある。特別史跡に指定されている。


観自在王院 大阿弥陀堂跡 観自在王院の車宿跡
 大阿弥陀堂跡に建つ、江戸時代に建てられた小祠。  西側の毛越寺との境に発見された、広い車宿(くるまやどり:参詣に訪れた人が乗ってきた牛車を駐車する舎屋)の跡。


 観自在王院跡を見学した後は、平泉駅近くの芭蕉館で昼食。わんこそばではないが、天ざるだ。午後はまず高館へ。

 高館は、北上川に面した丘陵で、兄・頼朝に追われ、再び平泉に落ち延びた義経が藤原三代秀衡の庇護の下、居館にしていたところであるが、文治5年(1189)頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡の子・泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられている。

高 館   義 経 堂
 高館の丘の頂上に建つ、仙台藩主第四代伊達綱村公が義経を偲んで建てた義経堂  義経堂の中に安置されている義経公の木造。


高 館   に て
 高館の丘から望む北上川とその向こうの束稲山。この山は、かつては、西行が「聞きもせず 束稲山の櫻花 吉野のほかに かかるべしとは」と詠んだ桜の名所であった。  松尾芭蕉は、元禄2年(1689)平泉を訪れ、高館に立ち、眼下に広がる夏草が風に揺れる様を眺め、百年にわたり平泉文化を築き上げた奥州藤原氏の栄華や、この地に散った義経公を思い、「夏草や 兵共が 夢の跡」の句を詠んだのである。丘の外れに、この句を刻んだ句碑が立っている。


 高館より下りてきて、次は柳之御所跡へ。藤原清衡・基衡の居館跡と伝えられてきた柳之御所が、発掘調査により、鎌倉幕府の公式歴史書である「吾妻鏡」に記されている「平泉館」(ひらいずみのたち)の跡で、奥州藤原氏の居館兼政庁跡であることが判明した。

柳之御所跡 柳之御所資料館
 調査を基にした復元整備と史跡公園化が進められている柳之御所跡  柳之御所跡遺跡から発掘された、国内初の印章などの貴重な遺物が展示されている「柳之御所資料館」。


 これで、奥州平泉文化の勉強は終わり。教室で学んだことを、改めて現地にて説明を受けながら見学をすることで、特に、平泉のような埋蔵文化財ついては、大変良く理解することができた。

 今年の7月には、平泉が世界遺産に登録されることと思うが、平泉を更に良く理解してもらうためにも、現地を見る前に、予めその知識を知ってもらう仕組みというものが必要なのではないかと感じた。

 藤島先生はこの後所用があり、ここでお別れ。我々一行は今夜の宿がある花巻温泉郷へと向かう。 先生、有難うございました!

 花巻へ向かう途中、「みちのく三大桜名所」の一つに数えられる「北上展勝地」へ寄るため、北上金ケ崎ICで東北自動車道を下りたのだが、日曜日と桜の見頃が重なり、間もなく渋滞、普通なら15分程で行けるのだが、1時間もかかってしまった。

北上展勝地にて
 北上展勝地には、約1万本の桜があり、特に北上川沿い約2kmにわたる樹齢80年を超える桜並木は、頭上を覆い尽くす桜のトンネルとなっており圧巻である。ノスタルジックな雰囲気の観光馬車も桜のトンネルの下を走っている。「日本のさくら名所100選」にも選ばれている。
 また、レストハウス脇には作詞・作曲者自筆による「北上夜曲の碑」も建っている。


 約40分程ではあるが、北上川沿いの満開の桜のトンネルの下を散策し、見事な桜を満喫し、今夜の宿、花巻温泉郷・志戸平温泉、志戸平ホテルへ。

 広々とした温泉に浸かり、疲れを癒し、今夜もまた賑やかに宴会だ・・・



                        <3日目につづく>


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