石見銀山と隠岐の島・壇鏡の滝

2015.10.28〜30


 「日本の滝百選」めぐりの締めくくりとして、隠岐の島・島後にある壇鏡の滝に行く。せっかく島根まで行くので、世界遺産になっている「石見銀山」も訪ねることにした。

 渋谷を20:00に出る高速夜行バスにて山陰路へ。翌朝7:05予定よりやや早く出雲市駅前に到着。ここから石見銀山へと向かう。30分ほど待って、JR山陰本線にて大田市へ。そしてバスにて石見銀山・大森代官所跡には9:13に到着する。

 石見銀山は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。最盛期には、日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、石見銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めていたという。大森銀山とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)と呼ばれた。明治期以降は銅などの鉱物が主に採鉱された。2007年に世界文化遺産に登録されている。

 大森代官所跡バス停近くで自転車を借り、まずは龍源寺間歩へ向かう。銀山川に沿って4kmほどの上り坂だ。山組頭を務めるほど有力な山師だった高橋家のところに自転車を置き、200mほど歩くと龍源寺間歩の入り口がある。「間歩」とは鉱山の掘り口のことをいう。
 
 
龍源寺間歩」は正徳5年(1715)に開発された代官所直営の坑道で、大久保間歩に次いで長く 600mもある。他の永久、大久保、新切、新横相間歩とともに代官所の直営で「五か山」と呼ばれていた。龍源寺間歩は現在、600以上ある間歩の中で唯一一般公開されており、内部はノミで掘った跡が当時のままの状態で残っており、当時の作業の様子を知ることができる。

  龍源寺間歩を見学した後、右手に「山神さん」として親しまれ、鉱山の神様・金山彦命を祀る佐毘売山(さひめやま)神社を見ながら、高橋家まで戻る。

 暫らく下り、新切間歩過ぎたところに清水寺がある。推古天皇の時代に創建された真言宗の古刹寺院で、創設時は天池寺といい、仙ノ山の山頂、石銀地区にあった。延暦17年(798)に清水谷に移転し清水寺と改名、明治22年(1878)に現在の地に移った。

 清水寺は、石見銀山開発に関わった領主、代官らに信仰され、寺宝の「辻ヶ花染丁字文胴服」は徳川家康から拝領されたもので、国の重要文化財に指定されている。(現在、京都国立博物館所蔵) そして、本堂の格天井には、丸に桐、鷹の羽紋、大久保石見守(長安)の家紋である下り藤などが描かれている。


 清水寺から少し下ったところから右に横道を入ると、明治期の産業遺跡・清水谷精錬所跡がある。明治28年(1895)、藤田組が20万円(現在の約20億円)の巨費を投じて収銀湿式精錬法の近代的な精錬所を建てたが、予想より鉱石の品位が低く、また、設計上の問題もあり、わずか1年半で操業を終えている。

 鉱山労働者の信仰を集めていた安養寺、寛永8年(1631)創立で、大森地区の木造建築としては最古といわれる西本寺、その山門は、天文2年(1533)大内義興が大森の銀山を守るために築城された山吹城の追手門の遺構と伝えられている。そしてその向かい側の江戸時代の精錬所・下河原吹屋跡、遺跡の保全に取り組んできた大森小学校を見ていく。

 銀山橋を渡り、石見銀山公園の脇を通ると右手に羅漢寺がある。羅漢寺は、銀山で亡くなった人々の霊と先祖の霊を供養するために建てられた高野山真言宗の寺院。その羅漢寺の向かい側に掘られた3つの石窟には、25年もの歳月をかけて、明和3年(1766)に完成した、501体の羅漢像(五百羅漢像)が安置されている。石組の反り橋を渡り石窟の中の羅漢像を参る。

 羅漢像はすべて色鮮やかに塗りが施されており、泣いているもの、笑っているもの、天空を仰いでいるものなど、様々な表情を浮かべている。

 羅漢寺から、羅漢寺町橋を渡り、街並み地区に入って行く。ここは、石見銀山の政治経済の中心地だったところで、武家や商家、社寺仏閣など様々な建物が混在しているのが特徴で、昭和62年(1987)に重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

 慶長元年(1596)創建の栄泉寺、郷宿・泉屋(旧河北家)の遺宅で、寛政12年(1800)の大火を免れ、街並みの中では最古の建造物である「金森家」、慶長15年(1610)に初代大久保長安に銀山附き役人に採用されて以来、代々代官所役人を務めた河島家の遺宅で、寛政の大火後に再建された旧河島家住宅、街並み交流センターとして活用されている、明治21年(1888)に建てられた白い立派な門を構えた旧大森区裁判所などを見て歩く。

 新町橋を渡ると右手岩山の上に赤い仁王門が見える。万延元年(1860)に再建された観世音寺だ。大森代官所が銀山隆盛を祈願した寺で、岩盤を刻んだ石段を上がったところに赤い仁王門と社殿がある。ここからは、大森の街並みが一望できる。

 その先左手の路地をはいったところに西性寺がある。この寺の経蔵の壁にある、「左官の神様」と呼ばれる松浦栄吉が、漆喰を使って浮き彫りに描いた鏝絵は見事である。

 江戸時代の郷宿・田儀屋の遺宅である青山家住宅を過ぎると右手に熊谷家がある。熊谷家は代官所の御用達を務めた豪商で、家業である鉱山業や酒造業のほかに、代官所に納める年貢銀の検査や秤量を行い、郷宿(代官所へ立ち寄る役人の宿)も経営した。

 およそ1500uの敷地に部屋数が30という建物は、寛政の大火後、享和元年(1801)に建てられ、以後、土蔵などを増築し、明治元年(1668)に屋敷が整った。内部は一般公開されており、熊谷家が日々の生活で使っていた道具や当時の暮らしぶりを伝える家財などが展示されている。

 熊谷家を見学した後は、その少し先左手にある大森代官所跡へ。現在、石見銀山資料館として利用されている建物は、明治35年に建てられた旧邇摩郡役所をそのまま利用している。絵巻物や古文書、銀鉱石や精錬関係の道具などが展示されており、石見銀山の歴史を追体験できる。本来は、まずここを見学してから観光をスタートすべきかもしれない。

 石見銀山資料館を見学後、その少し先にある城上神社へ。城上神社(きがみじんじゃ)は大森町の氏神様で永享6年(1434)に大内氏が石見銀山が栄えることを願って、馬路の城上山(高山)から大森の香語山(愛宕山)に移したしたと伝えられ、その後、銀山を所有した毛利氏によって天正5年(1577)に現在の場所に移されたという。

 拝殿の格子天井には、竜が色彩豊かに描かれている。その下に座り、神前に向かって柏手を打つと、「ピーン」と美しい音がすることから「鳴き龍の天井」と呼ばれている。

 城上神社をお参りした後は、ここから少し離れているところにある「石見銀山世界遺産センター」へ行く。大森代官所跡からバスで7分ほどだ。

 石見銀山世界遺産センターは、石見銀山の歴史と技術を紹介する展示や、石見銀山の調査・研究センターとして、最新の調査成果を公開している施設である。中に30kgの銀塊が展示されていて、持ってみることができるのだが、持ち上げるのはかなりきつかった。

 これで、石見銀山観光を終え、バスにて大田市駅に戻り、JR山陰本線で出雲市駅まで戻ると、ちょうど17時だった。駅前のホテルにチェックインし、街に出て、老舗の蕎麦屋で、出雲・割子そばを食す。美味しかった。

 3日目は、ホテルでゆっくり朝食を摂り、出雲市駅前8:30発のバスで、出雲縁結び空港へ。9:45発のJAC3433便にて隠岐世界ジオパーク空港へ、小型のターボプロップ機で30分のフライトだ。

 空港にはあらかじめ予約をしておいたレンタカー会社の人が来ていて、その場で車を貸してもらう。車は、軽自動車のワゴンRだ。すぐに今回の旅の第一目的地である「壇鏡の滝」へ向う。空港より県道44号線を走り、かたくりトンネルを抜け、その少し先の那久で右折、細い山道をおよそ5kmほど走ると壇鏡神社の駐車場に到着。軽とはいえよく走ってくれる。

 鳥居をくぐっておよそ5分ほどで神社に到着。壇鏡の滝は、神社を挟んで、右側に雄滝、左側に雌滝がある。残念なことに、このところあまり雨が降らなかったのか、水量が少なく、ちょっとがっかりだ。

 これで、「日本の滝百選」は96滝となり、残る4滝はHiroにはちょっと危険なところなので、これで打ち止めとする。よく頑張りました!

 県道44号線に戻り、五箇地区方面に向かい、新福浦トンネルの手前を右に入ったところにある、深浦瀧をみる。こちらも水量が少なく分岐瀧の左半分ほどしか流れ落ちていない。

 まだ少し時間があり、天気も良いので、島後の北端にある白島海岸を見ていくことに。県道44号線から国道485号線に入り、西村という所の「白島崎展望台」の標識のところを左折し少し走ると駐車場だ。ここから少し歩くと展望台があり、こちらは素晴らしい景色だ。

 国道485号線に戻り、空港には予定通り13:30に帰着。車を返して、14:10発のJAC2332便にて大阪伊丹空港へ。こちらもターボプロップ機で、約50分のフライトだ。大阪伊丹空港からは、JAL126便に乗り継ぎ、東京羽田空港に着き、19:30、我が家に帰宅する。

                                               おわり

 
   
 

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