甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

                                                        2007.5.23

 Hiroが通っている世田谷区生涯大学で教わっている藤島先生が主宰している「綜芸文化研究所」が主催した、NHK大河ドラマ「風林火山」にちなんだ武田信玄ゆかりの甲州をバスで巡る旅に、クラスの人たちと参加してくる。

 8時30分、世田谷区役所前をバス2台連ねての出発。生涯大学のクラスの人達の行いが良いのでしょうか、今日も好天に恵まれ、行く先の甲府は30℃になるとのことである。
 バスは、永福ランプより首都高速に乗り、中央高速へと入り、途中、談合坂SAで休憩し、一宮御坂ICで下り、最初の見学地、甲斐善光寺へ向かう。

 車内では、藤島先生より、今日訪れるところの歴史や現代に伝わっている文化財についての講義?があり、このように事前に知識を入れ、現地でも先生より詳しく説明をして頂けるので、大変良く理解ができる。

 最初の見学地は、定額山浄智院善光寺。長野市にある善光寺を初めとする各地の善光寺と区別するため、甲斐善光寺と呼ばれることが多い、浄土宗のお寺である。

甲 斐 善 光 寺(定額山浄智院善光寺)
 
 永禄元年(1558)、武田信玄によって創建された。越後の上杉謙信との川中島合戦の折、信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れた信玄が、自分の領地である甲斐のこの地に本尊善光寺如来などを移したといわれている。
 武田信玄公建立の七堂伽藍は、宝暦四年(1754)門前の失火により失われた。現在の金堂・山門は、寛政八年(1796)に再建されたもの。
 現在の本尊は銅造阿弥陀三尊像である。これはかつての本尊の前立像であったが、この本尊が信濃善光寺に再度移されるにあたって新しく本尊とされた。重要文化財に指定されている。秘仏であるが平成9年(1997年)からは7年毎に開帳が行われることとなった。

金 堂(本 堂) 三  門
 金堂は、善光寺建築に特有の撞木造(しゅもくづくり)とよばれる形式で、正面梁行き23.6m、正面屋根幅30.8m、側面桁行38.0m、総奥行49.1m、総高27m、建坪310.8坪という、奥行きの長い、東日本最大級の木造建築で、重要文化財に指定されている。  現在のものは、重層の楼門で、桁行16.88m、梁行6.75m、屋根幅22.9m、棟高15m。和様と唐様を折衷した本格的な大建造物で、重要文化財に指定されている。


 次の見学場所は、善光寺の西側500mほどのところにある東光寺。武田信玄は広く仏教を信仰し、寺院・僧侶を崇敬保護したが、なかでも禅法を尊び、諸国から禅の高僧を招き、その教えを政治(民政)・軍政に大きく反映させた。そして、京都や鎌倉にならい、府中(現在の甲府)やその周辺の長禅寺・東光寺・能成寺・円光院・法泉寺を甲府五山に定めた。いずれも武田氏とゆかりの深い寺院である。

法 蓋 山 東 光 寺
 
 東光寺は甲府五山のうち、第二の臨済宗の寺院で、鎌倉建長寺を建てた名僧・蘭渓道隆(大覚禅師)が再興し、信玄公が厚く保護したお寺である。 
 境内には、蘭渓道隆が築いたといわれる見事な「池泉鑑賞式庭園」(県文化財)、室町時代に建てられたという、国の重要文化財に指定されている仏殿(薬師堂)などがある。
 東光寺には、武田信玄の長男義信の墓と武田信玄が滅ぼした諏訪頼重の墓が並んでいる。長男・義信は父・信玄と対立したといわれ、東光寺に幽閉され、自害している。また、諏訪頼重は、名門・諏訪家の当主で、信玄公の諏訪侵攻の時、捕らえられ、東光寺に幽閉され、切腹している。

東光寺 仏殿(薬師堂) 東光寺にて
 仏殿は天正10年(1582)の織田信長の兵火を免れて今日に伝えられたもので、建立年次は明らかではないが、様式からみて室町時代の建築とされている。
 桁行3間、梁間3間、裳階つきで、入母屋造、桧皮葦である。国の重要文化財に指定されている。
 仏殿の前で、藤島先生の説明を受けている参加者。

東光寺 池泉鑑賞式庭園
 この庭園は広さ約1,485平方メートル、法堂の裏手にのびる山畔を活かして上部に組まれた雄渾な中央滝を主景にして左右に展開する石組みをみせ、枯れ流れの末端に変化に富む護岸石組みの竜池をたたえた坐視的池泉観賞庭園として傑出するものである。
 とくに滝石組みの手法は中国の僧蘭渓道隆(大覚禅師)の手になるものと推定され、従来の回遊式庭園から一変して縦の線を強調した禅庭の基準ともみられ、その後の築庭に至大な影響を及ぼしたと考えられる名園である。

武田信玄の長男義信の墓 諏訪頼重の墓
 義信ハ晴信ノ長子。天文7年ヲ以ッテ生マル。母ハ三条夫人ナリ。永禄8年故アツテ幽閉セラレ、同10年逝去ス。東光寺殿籌山良公大禅門ト云ウ。
(石碑記載文章より)
 諏訪頼重ハ天文11年7月武田氏ニ亡ボサレ甲府板垣信形邸ニ幽閉セラレ7月20日ニ自尽セリ時27才祢々夫人ハ武田信玄ノ妹ニテ翌12年正月19日16才ニテ歿ス 二人墓ナリ。   (石碑記載文章より)
 向って右側が諏訪頼重の墓であり、その左側にある小さな墓が諏訪頼重夫人である禰々の墓。禰々は武田信玄の妹であり、16才で亡くなったとのこと


 東光寺の見学を終え、次の見学地、武田神社へと向かう。愛宕トンネルを潜り甲府駅前からくる武田通りを右折すると、その突き当りが躑躅ヶ崎城跡、武田神社である。

  堀に架かる朱塗りの欄干の「神橋」を渡り、鳥居をくぐって参道を行き、拝殿にてお参りをする。
 お参りを済ませた後、昨年5月に完成した「甲陽武能殿」の前で藤島先生より説明を受け、西曲輪跡に建つ「藤村記念館」を見学。
 そして、そこからつづく「お屋形さまの散歩道」を散策し、神社の周りを半周し、旧大手門より境内に入り拝殿前に戻ってくる。

躑躅ヶ崎城跡、武田神社
 躑躅ケ崎(つつじがさき)城は、永正16年(1519年)12月、武田信玄の父、十八代信虎が築城し、石和の十七代信縄の館、川田館から館を移した。ただし、桃山・江戸初期の城のような堅固・豪壮なものではなく、むしろ、武田氏の館と執務所を兼ねたような性格のもので、躑躅ヶ崎館と呼んだ方がふさわしい。以来、信虎、信玄、勝頼と三代63年間にわたって武田家の居館として使われたが、勝頼の代に放棄され、その後、甲府城が建設された時に完全に破却された。
 現在、躑躅ヶ崎城跡は武田神社になっている。周囲3〜6mの土塁と深い堀を巡らせ、東大手門から東曲輪、中曲輪の土塁堀を隔て中道を通って西曲輪へ、当時の面影が偲ばれる。

武田神社 拝殿
 
 武田神社は大正8年に、武田信玄の事績を称える意味合いを込めて建立され、4月12日のご命日には初の例祭が奉仕された。爾来、甲斐の国の総鎮護として祟敬を集め、平成11年にはご創建80年を迎えた。
 甲斐の国の守護神であるばかりではなく、やはり「勝運」のご利益が挙げられる。勝負事に限らず「人生そのものに勝つ」「自分自身に勝つ」というご利益を戴かれるとよいとのこと。

甲陽武能殿 甲陽武能殿前にて
 昨年の5月に完成したばかりの能楽殿(神楽殿)「甲陽武能殿」。その柿落として、武田の杜「林の巻」 という薪能が演じられたとか。  甲陽武能殿の前で、藤島先生の説明を受けている参加者。

甲府市 藤村記念館 お屋形さまの散歩道
 武田神社の境内にひっそりとたたずむ二階建ての洋館は、明治8年、中巨摩郡敷島町亀沢(旧睦沢村)に睦沢学校校舎として建築され、1957年までは学校の校舎として、その後5年間は睦沢公民館として使用された。老朽化により撤去寸前のところを同校舎保存委員会の手で1966年、現在地に移築復元された。館内には大正から昭和初期に使われていた教材など、教育関係の貴重な資料が多数展示されている。
 当時の県令・藤村紫朗氏が勧奨し藤村式建築と呼ばれる擬洋風建築の館は、1967年には国の重要文化財に指定されている。
 西曲輪の甲府市藤村記念館脇からつづく小径で、今は新緑がきれいだ。

空  濠 信玄公御使用井戸
 躑躅ヶ崎館当時からの濠だが、今は空濠になっている。  拝殿脇にある信玄公が使用した井戸。囲いがしてあって中はよく見えない。


 武田神社を見学した後は、雁坂みち(国道140号線)を笛吹川に沿って進み、甲州市(旧塩山市)の恵林寺に着くが、時間も13時を過ぎており、まずは昼食。西参道入口にある信玄館で、信玄公の陣中食として知られる「名物ほうとう」をいただく。

信玄館での昼食


 昼食後は、西参道より恵林寺に入る。仏舎利塔(三重塔)の前を通って開山堂と三門の前にでる。ここでまた、藤島先生の説明を受け、一旦参道を逆戻りして四脚門のところまで行く。
 国指定の重要文化財に指定されている四脚門を観て、参道を進み、山門をくぐり、右手にまわり、庫裏、本堂などを拝観する。

 庫裏から本堂を通って行った先に、「うぐいす廊下」がありキュッキュッという音を聞きながら歩いていくと、等身大の不動明王の安置されている明王殿がある。そして、その裏手に、信玄公の墓と柳沢吉保夫妻の墓がある。

 本堂裏側には、夢窓国師築庭といわれる池泉回遊式庭園が広がっている。

乾徳山 恵林寺
 
 鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していた。甲斐における臨済宗の中心となり、現在は臨済宗妙心寺派の寺院である。
 応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。永禄7年(1564年)には武田晴信(信玄)が寺領を寄進し、美濃崇福寺から快川紹喜を招く。天正4年(1576年)4月には、快川を大導師に信玄の葬儀が行われた。

四 脚 門 参  道
 丹塗りの門であることから通称「赤門」とも呼ばれている。切妻造り、桧皮葺きで、本柱、控柱ともに円柱を用い、柱には粽形が付けられ、柱下には石造礎盤が置かれている。中通しの本柱は控柱より太く大きく、これを桁行に通した頭貫で繋ぎ、その上に台輪を架し大斗・枠・肘木・実肘木を組み、軒先を海老虹梁で繋いでいる。
 国の重要文化財に指定されている。
 四脚門から三門へ向かう参道。

三  門 信玄公 観桜の詠歌碑
 天正10年(1582年)4月3日、天目山の戦いで武田氏が滅亡した後に恵林寺に逃げ込んだ六角義弼の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠軍による焼き討ちにあった。この際、快川紹喜が燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と偈を発して快川紹喜は焼死したことで知られる。
 信長横死後に甲斐を領した徳川家康により再建され、快川の法嗣も招かれた。
 快川国師の招きで恵林寺を訪れた信玄が、見事に咲き競う三門両袖の桜に見ほれて詠んだ「観桜の詠歌」
  誘引(さそわ)ずば くやしから満(ま)しさくら花
       実(さね)こんころは 雪のふるてら
が刻まれている石碑。三門の脇に立っている。

開 山 堂 仏舎利塔

本 堂(方 丈) うぐいす廊下と明王殿
 現在の本堂は明治の再建である。仏殿の本尊として安置されている薬師如来坐像は、鎌倉時代に造られたもので、右手を曲げ手のひらを正面に向け、左手は膝のうえで薬壷をのせている一般的な薬師如来像である。  右手の廊下が「うぐいす廊下」で、その奥が武田不動尊が安置されている明王殿。

うぐいす廊下 武田不動尊
 静かに歩くように!との注意書きがあり、足を一歩進めるごとにキュッキュッと音がする。
 元来は侵入者を知らせるためとのことであるが、なぜ、お寺に・・・
 霊殿(明王殿)に安置されている不動尊像で武田不動尊と呼ばれている。信玄が佛工康清を召し対面して彫刻させたもので、螺髪結跏して剣索をとり不動明王の形を表すが信玄の真像と伝えられる。

武田信玄の墓 柳沢吉保夫妻の墓
 現在の墓は信玄霊廟「明王殿」裏手に位置し、聖域と称される。面積184.8平方メートル。ここに全高349.6cmの五輪塔一基、全高369.6cmの宝篋印塔一基が建立されている。  江戸時代中期、徳川5代将軍綱吉の側近で大老格の地位にあった甲府15万石藩主柳沢美濃守吉保と正室定子の墓。柳沢吉保は甲斐国主として優れた業績を残していて、山梨県の歴史の中でも、武田信玄に次ぐ人物として知られる。

庭  園
 本堂裏側に広がる、京都の天龍寺、西芳寺の庭園を築造した夢窓国師築庭といわれる池泉回遊式庭園。織田信長の焼き打ちに遭い、その後徳川家康が再興し、柳沢吉保によって改修された部分が多いが、上部の須弥山石組は鎌倉時代のものが残され傑出した美しさが随所に見られる。国の名勝史跡に指定されている。

本堂の妻飾り 庫裏の中
 本堂裏手より見る本堂の妻飾り。  庫裏の座敷に掛けられている「風林火山」の額と衝立。


 恵林寺の見学を終え、最後の見学地は、勝沼IC近くのワイナリー「シャトー勝沼」だ。ここで、工場見学をして、ワインの試飲をさせてもらう。あちこちのお寺を歩いてきた後で飲むワインもまた格別だ・・・

ワイナリー シャトー勝沼


 ワイナリー見学後は、勝沼ICから中央自動車道に入り、石川PAで休憩後、永福ICで環七に下り、ほぼ予定通りの18:10に世田谷区役所前に到着。

 好天に恵まれての、甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり、NHK大河ドラマ「風林火山」での記憶の加え、藤島先生の親切な説明で、よく理解でき、本当に楽しい史跡めぐりをすることができました。

 藤島先生、有難うございました。そしてお疲れ様でした。 先生の見学会資料を引用させていただきました。

                               おわり

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