大山道を歩く

No.4


 生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、相模國を目指し「甲州街道」を歩きます。
   参考資料:八木 牧夫 (著) 「ちゃんと歩ける甲州街道 甲州道中四十四次」
       :大高利一郎(著)「街道を歩く 甲州街道」


第4回 京王線下高井戸駅〜覚蔵寺〜宗源寺〜高井戸の一里塚跡〜長泉寺〜大橋場跡〜新一里塚〜給田観音堂〜仙川一里塚跡〜滝坂〜金子大銀杏〜妙円地蔵〜京王線国領駅

R5年10月16日   

 10:00、京王線下高井戸駅前に9名が集合、雲一つない秋晴れの下スタート。下高井戸駅前商店街を抜け、下高井戸入口交差点を左折し甲州街道に入る。暫く進み、桜上水駅北交差点を過ぎると右手に覚蔵寺がある。

「覚蔵寺」
 創建年代は不詳だが、慶長年間(1596-1614)に実成院日相が、真言宗寺院を日蓮宗寺院に改めて中興したと伝えられる。
 日蓮聖人直刻の鬼子母神があるので知られる。文永8年(1271)、日蓮が鎌倉の滝ノ口で危うく処刑されかかったときに、ゴマの餅をくれた老女に感謝し、鬼子母神像をこの老女に与えた。その後、覚蔵寺の13世日曜が、この老女から譲り受け、ここに祀ったものといわれている。

 覚蔵寺から少し進んだ右手に宗源寺がある。

「宗源寺」
 慶長(1596-1614)初年の頃、光伯院日善が創建したと伝えられる。明治5年(1872)に廃寺となった修験道本覚院の不動堂を当寺境内に移設している。
 この不動堂はかつて高台にあったため、高井堂と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源になったとする説もある。

 宗源寺のすぐ先辺りに、下高井戸宿の冨士屋源蔵本陣があり、その前には問屋場があったのが、今は標識もない。

「下高井戸宿」
 甲州街道の江戸から2番目の宿場町。内藤新宿ができる前は江戸から最初の宿場町であったが、後に内藤新宿が設置され、次第に素通りするものが多くなった。
 周辺住民は農業を主としており、一宿で継ぎ立てを勤められず、月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていた。
 天保14年(1843)の「甲州道中宿村大概帳」によると、下高井戸宿の宿内家数は183軒(うち本陣1軒、問屋1軒、旅籠屋3軒)で、宿内人口は890人であった。

 暫く進み、鎌倉街道入口交差点のすぐ先、高速道路下に、日本橋から四里目を示す下高井戸の一里塚があった。五間四方、高さ一丈の塚の上には榎が植えてあったという。今はトヨタモビリティパーツの前に甲州道中一里塚の標識が立っている。


 暫く進み、還八通りとの交差点角辺りに、並木家が勤めていた上高井戸宿の武蔵屋本陣があったのだが、今は標識もない。

「上高井戸宿」
 天保14年(1843)の「甲州道中宿村大概帳」によると、上高井戸宿の宿内家数は168軒(うち本陣1軒、問屋1軒、旅籠屋2軒)で、宿内人口は787人であった。下高井戸宿と合宿で問屋業務は月16日から月末までを勤めた。

 還八通りを横切り、その先の三叉路を斜め左の旧甲州街道に入る。少し先の右ト字路の角に「是ヨリ一里半」と刻まれている井之頭辨財天道道標が立っている。
 井の頭公園の池畔にある弁財天は関東源氏の祖源経基の創建で、延暦8年(789)伝教大師作の天女神を祀っている。

 この先左手に長泉寺がある。

「長泉寺」
 慶安元年(1648)、世田谷の烏山にあった通称「お伊勢の森」に開創したが、2年後火災に遭い、明暦元年(1655)にこの地に移ったと伝えられ、現在の本堂、客殿、庫裏は、平成23年7月に整備されたもの。
 本堂前の観音堂円通閣といい、享保13年(1728)に建立されたもので、西国三十三ヵ所の観音像を安置している。また、堂内に納められている板絵着色西国巡礼図(区指定文化財)は、狩野派の絵師中田小左衛門が描いたもので、近世の風俗を知る上で貴重な資料である。
 門前に、「甲州道中一里塚 日本橋依利四里」と彫られた石碑があるが、下高井戸の一里塚にあったものなのか・・・

 長泉寺を出て暫く進み、烏山下宿バス停の先の路地を左に折れた左手に大橋場跡がある。

「大橋場跡」
 大橋場とは旧甲州街道から烏山神社への参道、大門ぎわの烏山用水に架かる石橋の呼名である。武州千歳村大橋場の跡と彫られた石柱碑が立っている。傍らに正徳2年(1712)地頭名主を勤めた下山家が造立した身代わり地蔵とも出世地蔵とも呼ばれる下山地蔵や元禄13年(1700)建立の庚申塔がある。
 またこの辺りは大正12年(1923)の関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の現場といわれている。

 大橋場跡を過ぎ暫く進む。烏山総合支所交差点を過ぎ少し進んだ右手に、地蔵尊等が路地脇に並んでいる石仏石塔群がある。
 その先給田町交差点御先右手に新一里塚の道標がある。明治3年(1870)に品川県が建てた道標で、「内藤新宿より三里」と刻まれている。
 品川県とは明治2年(1869)布告された「府県施政順序規則」により荏原郡、豊島群の半分および多摩群の一部を含めた地域をいう。


 新一里塚道標の前を過ぎ、給田三丁目交差点の先左手路地を入っていくと右手に給田観音堂がある

「給田観音堂」
 創建年代は不詳だが、徳川家(或いは紀州徳川家)息女の庵室だったとの言い伝えがあるという。
 堂内には、千手観音と昭和32年本観音堂の近くの土中で発見された釈迦如来坐像が安置されている。
 本堂脇にある宝永4年(1707)建立の宝篋陀羅尼経之塔はかつて甲州街道沿いにあって、徳川関係者は必ず下馬したと伝えられている。

 街道に戻り仙川に架かる大川橋を渡り坂を上ると仙川三叉路で国道20号線に合流する。その先右手に昌翁寺がある。

「昌翁寺」
 仙川領主の飯高主水貞政(慶長17年1612年寂)が開基、その師快要法印(寛永14年1637年寂)が開山となり、創建したと伝えられる。
 貞政は今川義元の家臣であったが、家康に仕え戦功により旗本となり下仙川村の地が与えられた。
 境内には正保2年(1645)建立の宝篋印塔、宝永3年(1706)建立の五輪塔がある。

 その先、仙川駅入口交差点の角に、江戸日本橋より五里目の仙川一里塚跡碑がある。かつては街道両側に塚があったが、現在はこの碑が残るのみである。


 更に進み、仙川二丁目交差点を過ぎると、右手に下りになっている道がある。ここが滝坂である。滝坂入口の石の標柱には馬宿 川口屋滝坂旧道と書かれている。川口屋は戦前まで馬方や行商人を相手に旅籠を営んでいた。
 滝坂はその名が示す通り、かつては雨が滝のように流れる急坂で、街道の難所の一つであった。また、甲州街道の裏街道である滝坂道はここで甲州街道と合流しており、滝坂がその名の由来となっている。


 滝坂を下ると再び国道20号線と合流し、滝坂下交差点を過ぎると間もなく右手に大きなイチョウの木が見える。金子の大イチョウだ。寛延元年(1748)伏見稲荷を勧請した際に、一対のイチョウを社前に植栽したものといわれ、樹齢は約250年と推定される。
 古くから親しまれた甲州街道沿いの金子村の名を、この地で育ったイチョウの古木に託し、金子のイチョウと名付けた。


 金子の大イチョウの前を過ぎ、つつじが丘交番前の信号の先右手に金龍寺がある。

「金龍寺」
 建永元年(1206)明庵千光国師栄西禅師により開基されたと伝えられる。文禄3年(1594)世田谷勝光院六世乾晨寺三世岳応守英大和尚が曹洞宗寺院として(中興)開山、慶安2年(1649)には第3代将軍徳川家光から寺領13石4斗の朱印状を拝領している。
 境内には巨大な慈母観世音菩薩像のほか、十八羅漢尊者像や八仏尊など数多くの仏像が立ち並び、大閻魔十王石窟には木彫と石刻の十王を安置している。また、復元高札場がある。

 金龍寺を出て暫く進み菊野台交番前交差点のすぐ先右手に、妙円地蔵がある。

 暫く進み、柴崎駅入口を過ぎ、野川に架かる馬橋の手前、左手の路地を入った左手に、不浄や煩悩を吹き払う金剛夜叉明王像がある。

「妙円地蔵」
 金子村に嫁いできた女性が、恵まれない境遇のためか盲目になり、これを機に深大寺より寿量妙円という法号をもらって尼となり、街道で鉦を鳴らし、念仏を唱えることで喜捨を受けてきた。その浄財をもとに文化2年(1805)地蔵菩薩像を造立し、文化14年(1817)念仏を唱えながら往生した。それ以来この地蔵を妙円地蔵と呼んでいる。

 馬橋を渡り、旧甲州街道入口交差点を左斜めに入り、国領駅入口交差点で今回の甲州街道歩きは終わりとし、左折し国領駅に向かう。
 駅への途中、昇福稲荷大明神が祀られている稲荷神社がある。


 国領駅前へ出て解散。


第5回に続く      



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