大山道を歩く

No.5


 生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、相模國を目指し「甲州街道」を歩きます。
   参考資料:八木 牧夫 (著) 「ちゃんと歩ける甲州街道 甲州道中四十四次」
       :大高利一郎(著)「街道を歩く 甲州街道」


第5回 京王線国領駅前〜常性寺〜布多天神社〜小島一里塚跡〜源正寺〜西光寺〜瑠璃光寺薬師堂〜染谷不動尊〜常久一里塚跡〜国府八幡宮〜大國魂神社〜京王線府中駅

R5年11月13日   

 今季一番の冷え込みの中、10:00、京王線国領駅に8名が集合、府中に向けスタート。駅前から右に少し行った国領駅入口交差点を左折し旧甲州街道に入る。
 国領の地名は、かつてこのあたり一帯の土地が武蔵国の国府が管轄する国衙領であったことに由来している。江戸時代は天領であった。

 国領とその先の下布田、上布田、下石原、上石原の5宿を称して布田五宿といい、あわせて1宿の機能を持っていた。現在の調布市はこの5宿が中心となっている。

「布田五宿」
 布田五宿は江戸日本橋から五里三十二町余り(約23.5km)と近く、間の宿的色彩が強かった。本陣、副本陣は無く、旅籠9軒と小宿であった。
 布田五宿は一月を6日ごとに交代する当番制で、両隣の高井戸宿・府中宿へ宿継ぎ業務を行っていた。

 旧甲州街道を暫く進むと左手に圓福寺がある。

「圓福寺」
 円福寺の創建年代は不詳だが、北条泰時の舎弟開壽丸が開山となり鎌倉の切通に創建、武田信玄(法性院機山居士)が中興したと伝えられる。
 鎌倉より多摩川沿いに移転の後、中興二代胎玄(寛永元年1624年)の時に当地へ移転したという。
 境内には天明5年(1785)造立の地蔵尊がある。

 圓福寺の先、布田駅前交差点の角右手に常性寺がある。

「常性寺」
 常性寺の創建年代は不詳だが、鎌倉時代に多摩川沿いに創建したと伝えられている。慶長年間に旧甲州街道沿いの当地へ移転、祐仙法印が成田山新勝寺より成田不動尊を勧請し中興したといい、調布不動尊と称されている。
 境内の地蔵堂前の馬頭観音塔は文政7年(1824)の建立で馬橋の馬捨て場にあったもの。これは布田五宿をはじめ、八王子などの馬持ちが供養のために建てたもので、中に「八王子馬買」の字がある。

 常性寺を出て暫く進むと左手に蓮慶寺がある。

「蓮慶寺」
 蓮慶寺は、戦国時代に布田郷を領していた中将出羽守が、当地に古くからあった真言宗閻魔寺を、天文元年(1532)に日蓮宗に改めて開基したという。開山は池上本門寺第十二世佛乗院日惺聖人で、朗惺寺を開山、本妙院を再興していた名僧。
 慶安3年(1649)徳川三代将軍家光から寺領10石9斗の御朱印を拝領、金龍寺と同様朱塗りの山門(赤門)を許されていた。
 本堂は甲州街道よりの参道正面にあり、その前には、御朱印寺を表わす朱塗りの表門がある。

 蓮慶寺から少し進み、調布駅北口交差点の手前右手に、布多天神社の参道が続いている。長い参道を進み、布多天神社に入る。

「布多天神社」
 創建年代は不明。社伝ではおよそ1940年前の垂仁天皇の御代の創建とされる。平安時代初頭の延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳の武蔵国多磨郡に記述がある式内古社である。
 元の社殿は現在の布田5丁目にあったが、文明年間(1469〜87)に多摩川が大氾濫を起こしたことをきっかけとし、文明9年(1477)に現在地に遷座し、菅原道真公を合祀した。
 室町時代の天正18年(1590)年4月に豊臣秀吉が小田原の北条を攻略する際、人々を安堵させるために出した「太閤の制札」が神社所蔵として残る。
 また往古広福長者という人が当社に七日七夜参籠して神のお告げをうけ、布を多摩川にさらし調えて朝廷に献った。これが本朝における木綿のはじめという。帝はこの布を調布と名づけられ、以来このあたりを調布の里とよぶようになったといわれる。

 再び旧甲州街道に戻り暫く進み、小島町一丁目交差点の手前右手の駐車場に一角に小島一里塚跡碑が立っている。江戸日本橋より6里目で、解説板には推定樹齢2百年のエノキが塚木であったと記されている。


 小島一里塚跡を過ぎると下石原宿に入る。下石原交差点を過ぎ暫く進むと左手に常演寺がある。

「常演寺」
 常演寺の創建年代は不詳ながら、良賢(延宝7年1679年寂)が中興したという。
 参道入口に地蔵祠「多摩川三十三所第十七番天台宗常演寺」の石標が立っており、多摩遍路の札所であった。この石標と並び、嘉永3年(1850)建立の、奉納仁王尊常夜燈一基がある。

 常演寺を過ぎ、少し進んだ左手に金山彦神社がある。刀鍛冶により創建されたといわれていて、金属加工業などの方々からの信仰が厚い神社である。


 金山彦神社の少し先左手に源正寺がある。

「源正寺」
 源正寺は、里正善右衛門の先祖太田対馬守盛久が開基、南樹泉(天文24年1555年寂)が開山となり創建、達直衡公が中興したという。
 参道口に小屋掛けした六地蔵があり、隣に天明3年(1783)建立の日本廻国供養塔が立っている。

 この先で街道は国道20号線から分岐した道と合流し、上石原宿となる。西調布駅入口交差点の先、中央自動車道の手前左側に西光寺がある。

「西光寺」
 西光寺の創建年代は不詳ながら、かつては聖天院と號す修験道の寺院だったといい、聖天坊応永三十四年(1427年)云々と記載のある書が江戸時代にあったという。慶安年間(1648-1651)には徳川家光より寺領14石2斗の御朱印状を拝領、辨盛法印(延宝元年1673寂)が寛文年間(1661-1672)に天台宗に改めたという。
 明治12年(1879)の火災により、弘化4年(1847)造立の山門、享保年間(1716〜36)造立の仁王門などを除いて多くが焼失している。
 仁王門は、市内に残る唯一の仁王門で、年代も十八世紀初頭と特定できる貴重な建物である。正面両脇間に仁王像を安置し、また楼上に銅鐘を釣るので、仁王門でもあり鐘楼門ともいう。寺の記録によると、西光寺中興の大僧都弁雄が宝永年間(1704〜10)に建てたと記されており、釣鐘にも弁雄の名前が銘記されているので、この時の再建であることが明らかである。
 門脇には、弘化3年(1846)建立の常夜燈が立っている。「秋葉大権現」「榛名大権現」「鎮守両社宮」、台座には「宿内安全」など刻まれている。調布市内で最大のもの。その隣に新撰組局長近藤勇座像がある。近藤勇は天保5年(1834)多摩群上石原村で生まれた。

 西光寺を出るとすぐに中央自動車道の下をくぐり、右手にK塀の旧家を見ながら暫く進むと左側に瑠璃光寺薬師堂がある。

「瑠璃光寺薬師堂」
 仙台藩典医であった松前意仙は諸国遍歴の末にこの地に住み着き、貞享3年(1686)石像瑠璃光薬師如来立像を彫り上げ、墓穴を掘り、自ら入定し成仏した。薬師堂にはこの像が安置されている。
 境内にある行人塚は、石薬師像を造った松前意仙の墓である。

 薬師堂を過ぎ少し進むと府中市に入り間もなく右手に常夜燈が立っている。嘉永5年(1852)の建立で、竿石には「秋葉山大権現」「諏訪大明神」「稲荷大明神」と刻まれている。


 常夜燈を見て暫く進むと右手に観音院がある。

「観音院」
 観音院は、神明山金剛寺と号し、創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に「境内年貢地、街道にあり、神明山と號す、天台宗、多摩郡世田谷領深大寺村深大寺の門徒、客殿四間半に六間半、本尊正観音、立身の木像長二尺五寸許、開山開基詳かならず」とある。
 山門脇に、宝永7年(1710)造立の地蔵尊、享保3年(1718)建立の庚申塔、文政4年(1821)建立の馬頭観音などがある。

 観音院の裏手に神明社がある。

「神明社」
 下染屋神明社の創建年代等は不詳ながら、往古日本武尊の御衣を染め、入れた瓶を埋めた地に明神を勧請したとも伝えられ、また弘長年間(1261-1264)の創建とも伝えられる。稲荷社を文永年間(1264-1247)に合わせ祀ったといい、明治4年村社に列格したという。
 参道口に嘉永6年(1853)建立の秋葉山常夜燈がある。また、下染屋についての説明版がある。それによると、下染屋は現在の白糸台3丁目の旧甲州街道沿いに集落の中心があった。幕末の地誌には、民戸37軒が甲州街道沿いに並んでいた。
 地名の起こりは、調布(てづくりぬの)の布を染めたところで、鎌倉時代には染殿があった所といわれている。もともとは染屋村であったが、その後、上下2村に分かれたが、その時期は不明とのこと。寛永12年(1635)の検地帳には、下染屋となっている由。
 なお、染屋の地名は、南北朝時代の資料にも載っている。

 また暫く進み西武多摩川線の踏切を越え不動尊前交差点の左側に染屋不動尊がある。

「染谷不動尊」
 江戸時代は、玉蔵院といい、染谷八幡神社の別当寺であった。この境内には国の重要文化財である銅造阿弥陀如来像安置する小堂(宝物殿)がある。
 銅造阿弥陀如来像は、鎌倉時代の弘長元年(1261)、上野国八幡庄にて造立された善光寺式の阿弥陀像である。鎌倉時代末の元弘3年(1333)、南朝の忠臣・新田義貞公が鎌倉攻めに際して陣中守護のため奉戴したと伝わる。以来南朝守護の神像として奉安され続けたが、承応2年(1653)に玉川洪水のため染屋(現在の白糸台周辺)に移される。
 境内にはには上染屋についての説明碑があり、それによると上染屋の集落はもともと多摩川のほとりにあったが、度重なる洪水を避けてこの地に移ったようである。地名の起こりは俗説として調布(てづくりぬの)を染めたところであったとか、鎌倉時代に染殿のあったところなどといわれている。古くは一つの村落であったが、いつのころからか上染屋と下染屋に分かれた。

 不動尊前の信号を左折して道なりに進み、最初の信号を右折。品川街道と標識のある道を進むと左手に常久一里塚跡の碑が立っている。
 常久一里塚は日本橋から7里目の一里塚。江戸初期に整備された甲州街道の一里塚であるため、現在の旧甲州街道からは外れて品川街道と呼ばれる道沿いにある。
 この道は江戸初期の甲州道中でもある。薬師堂から甲州街道の南側を並行して走り、東府中の駅前で再び旧甲州街道に合流する。


 東府中駅前で合流した道を進み、京王線の踏切を渡って暫く進むと左手に八幡宿の説明版がある。八幡宿国府八幡宮の周囲の村落であったが、甲州道中が開設されると街道筋に移転した。
 この少し先左手に武蔵国府八幡宮と彫られた石柱が立っている。長い参道を進んだ先に社がある。

「武蔵国府八幡宮」
 奈良時代の聖武天皇の代(724-749年)に、武蔵国の一国一社八幡宮として創建したと伝える。また武蔵国府の守護神たる国府八幡の地位にあったと推定されている。
 現在は大国魂神社の境外社であり、神門と水盤は大国魂神社から移築したもの。

 八幡町を過ぎると府中宿に入る。

「府中宿」
 府中宿は、甲州街道の約7里半(約30km)に位置する4つ目の宿場町であり、安永6年(1777)飯盛旅籠が公許されたもの。国府総社(大國魂神社)が存在する武蔵国の中心部であり、現在は、東京都府中市に位置し、現在でも府中市役所など主要施設はこの宿場の中心部近くにある。
 府中宿は新宿、番場宿、本宿の三町により構成されていた。天保14年(1843)の甲州道中宿村大概帳によると、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠29軒、問屋場3軒、総家数430軒、人口2762人、宿場の長さ11町6間であった。

 暫く進むと左手に、大きな欅の木が茂るところに大國魂神社がある。

「大國魂神社」
 大國魂神社は景行天皇41年に大神からのお告げを受けて創設したとされる武蔵国の鎮守である。大化元年(645)、大化の改新の際に国府が置かれたことを機に、武蔵国内の諸神、さらには国内著名の6ヶ所の神社をここ1ヶ所に集めて祀ったことから武蔵総社六所宮と称された。
 現在の社殿は、寛文7年(1667)徳川家綱によって改築されたものである。

 今回の街道歩きは、ここ大國魂神社前交差点までとし、ここから北に続くケヤキ並木を通り、京王線府中駅にて解散。


 府中市のシンボルとも言える、参道沿いの見事なケヤキ並木は、永承6年(1051)に源頼義・義家父子が奥州平定の祈願をし、平定後の康平5年(1062)に苗千本をした。その後に徳川家康は「馬場」を寄進、欅を捕植した。


第6回に続く      



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