大山道を歩く

No.8


 生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、相模國を目指し「甲州街道」を歩きます。
   参考資料:八木 牧夫 (著) 「ちゃんと歩ける甲州街道 甲州道中四十四次」
       :大高利一郎(著)「街道を歩く 甲州街道」


第8回 京王八王子駅〜子安神社〜八日市宿跡碑〜禅東院〜念仏院〜産千代稲荷神社〜笠間稲荷神社〜追分道標・八王子千人同心屋敷跡記念碑〜長安寺〜散田一里塚跡〜多摩御陵入口〜熊野神社〜高尾駅

R6年2月26日   

 昨夜からの雨も上がり晴れて風はちょっと強いが、そんな中、10:00、京王線京王八王子駅に9名が集合、高尾に向けスタート。

 甲州街道に出る前に子安神社に寄る。

「子安神社」
 元子安明神と称し遠く奈良時代の天平宝字3年(759)橘右京少輔なる者が皇后御安産祈願の為に創建されたと伝へられ、氏子である子安明神の両町名も当社の加護を願ってつけられ、その昔源義家が奥州下向の折戦勝を願って当社に欅十八本を船形に植樹された事からこの神苑を船森と称し、近くは代々の徳川将軍家より朱印地六石の寄進を受け、明治初年に子安神社と改称し、政府より郷社の社格を受けた。古来安産祈願のため底抜け柄杓を納める習わしがある。
 子安神社の湧水大明神の池と呼ばれ、常に豊富な水を湛え、涼を求める人達の憩いの場として大切にされてきた。八王子市が誕生した大正6年頃の明神町は、浅川が見渡せる田園風景が広がり、子安神社の湧水が流れ出た小川には水車が廻り、撚糸や精米に利用されていた。
 この付近は湧水が豊富で、水を利用する施設としてかつては織物工場や織染学校、繊維試験場が立地し、八王子織物の礎を築いた。

 子安神社を参った後、八王子駅入口交差点から甲州街道に入り進む。

「八王子宿」
 八王子宿は八王子15宿・八王子横山15宿とも呼ばれ、横山宿・八日市宿が本宿であった。
 戦国時代は北条氏照の支配下にあり、北条氏の枝城として八王子城があったが、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めにより落城。同年、徳川家康の関東入国に伴って八王子に入った大久保長安は八王子の街づくりを始めた。
 代官頭八王子総奉行となった長安は八王子城下3宿を移転し、盆地の中央に新たな甲州街道を設定し、その中心に置いた八幡・八日市・横山の3宿を宿場町・町人屋敷とした。
 天保14年(1843)の甲州道中宿村大概帳によると八王子宿の宿内家数は1548軒、うち本陣2、脇本陣3、問屋2、旅籠34軒宿内人口は6026であった。

 甲州街道を暫く進み、八日町交差点の手前左手に大正9年(1920)に定められていた八王子市道路元標がある。大正8年制定の旧道路法において、各市町村に1個設置するとされた石標で、道路の起点、経過地点として利用された。

 八日町交差点から八幡町交差点までの間が八日町でかつての八日町宿である。この中間の夢美術館東交差点の右歩道に八日市宿跡碑が立てられている。


 八日市宿跡碑の前の脇道を入った左手にとうがらし地蔵がある禅東院がある。

「禅東院」
 禅東院は応永元年(1400)、禅東海巌によって開山された。禅東海巌は片倉城城主長井氏の出身であり、真言宗の僧侶で禅東庵という草庵を結んだ。その後少林寺第二世大室隣徹(元和3年1617年寂)が曹洞宗寺院として慶長年間(1596-1615)に開山したという。
 境内にあるとうがらし地蔵は寛文11年(1671)建立。当時本宿は藪ノ内と呼ばれ、周辺の農家で唐辛子が多く栽培されていた。江戸時代飢饉の際、内藤新宿の「八つ房」と言う問屋に卸し、この地の人々が大変助かったという記録が残っている。
 人々はここで育ったとうがらしをお地蔵様にかけ、いつしか親しみを込めてとうがらし地蔵と呼んだ。

 甲州街道に戻る。八幡町交差点を過ぎるとかつての八幡宿である。ここで左折し、甲州街道から一時離れ暫く進み、中央線の踏切を越えた先左手に念仏院がある。

「念仏院」
 寺の創建年代などは明らかではないが、境内に時の鐘があることで知られる。この鐘は元禄12年(1699)に八日市宿の名主であった新野与五右衛門ほか千人頭や千人同心たちなどの協力によって寄進されたもので、神田鍋町の鋳物師椎名伊豫の作と伝えられている。鐘楼は昭和20年(1945)の空襲で焼失したが、昭和29年(1954)に再建された。現在は時の鐘として突かれることはなくなったが、かつては明け六つ(午前6時)と暮れ六つ(午後6時)の2回、周辺の地域に時を告げていた。

 念仏院の向かいには、高野山真言宗寺院の金剛院がある。僧真清(慶長2年1597年寂)が明王院と号して天正4年(1576)に元跡に創建、第三世覚常の代に初代を開山として寛永8年(1631)当地に移ったという。平成4年別格本山となったという。

 念仏院の隣に、寛永3年(1636)金剛院の開山真清が境内鎮守として創建した上野天満神社がある。


 中央線の踏切まで戻り、踏切を越え左折し線路沿いに歩き、次の踏切のところを右折した左手に産千代稲荷神社がある。

「産千代稲荷神社」
 産千代稲荷神社は、徳川家康の家臣大久保石見守長安が邸宅(陣屋)の鬼門除けとして、慶長年間(1596-1615)に創建したという。
 この神社は、鬼門除けの守護神として創立されたもので、大木が多く繁ったことにより、稲荷森といわれ、狐伝説から、安産・福徳の神としての霊験がある。
 当地は、大久保石見守長安の陣屋跡として八王子市旧跡に指定されている。

 産千代稲荷神社を出て暫く進み、本郷横丁東交差点で甲州街道に戻る。この先本郷横丁の交差点からは八木宿となり、少し先右手に八木宿の鎮守である笠間稲荷神社がある。
 そしてその先が追分だ。追分の名は甲州街道佐野川往還(神馬街道)の分岐点であったことに由来する。


 追分交差点の甲州街道と陣馬街道に挟まれた歩道橋の下に追分道標がひっそりとたたずんでいる。
文化8年(1811)江戸の足袋職人、清八が高尾山に銅製五重塔を奉納した記念として、江戸から高尾山までの三追分、すなわち新宿と八王子追分と高尾山麓小名路の3ヵ所に建てた道標の一つである。「左甲州道中高尾小道」「右あんげ道」と刻まれている。空襲で折れ不明になった部分は復元されている。

 追分の交差点から陣馬街道に少し入ったところに八王子千人同心屋敷跡記念碑が立っている。

「八王子千人同心屋敷跡記念碑」
 天正18年(1590)に北条氏に替わり関東を治めることになったのが徳川家康で、八王子も家康の支配となり、八王子地域の治安維持を主な目的として、9人の頭(かしら)とおよそ250人の同心が八王子に移された。
 翌天正19年(1591)、小人頭を一人増やして10名、同心は500人に増員され、文禄2年(1593年)には八王子城下から、現在の千人町を中心とした地域に屋敷地を拝領して移転してきた。
 さらに慶長5年(1600)頃、同心が新たに召し抱えられて1,000人となり、文字通り千人同心となった。八王子千人同心は、小人頭を起源とする千人頭10名に率いられた同心1,000名からなる頭1名に100名の同心がつく構成である。
 この一帯に千人同心の屋敷が立ち並んでいて、現在も千人町という町名にその名を残している。

 甲州街道に戻り少し進んだ左手に興岳寺がある。

「興岳寺」
 文禄元年(1592年)、武田家家臣の石坂勘兵衛森通が随翁舜悦を開山として招聘し創建した。勘兵衛の子で八王子千人頭の石坂弥次右衛門森信が開基とされている。以後石坂家の菩提寺となった。
 本堂に向かって左側に幕末の八王子千人頭石坂弥次右衛門義礼(よしたか)の顕彰碑が建てられている。義礼は日光勤番として、日光東照宮の守備にあたったが、慶応4年(1868年)戊辰戦争の際、幕府軍と官軍の戦いを未然に防いで日光山を焼失の危機から救ったとされている。しかし、八王子に帰還した義礼は、官軍と一戦もせずに日光東照宮を明け渡したことの非を問われ、責任を取り切腹して果てた。

 興岳寺を出て、千人町の交差点を過ぎた先右手に馬場横丁という石柱が立っている。千人同心が拝領した馬場があったことからこの名が付いたのだというが、現在では馬場があった形跡は何もない。ただ、この碑だけがそれを伝えているだけである。


 暫く進むと長房団地入口交差点に着く。追分からここまでが千人町で、千人同心の拝領屋敷が並んでいた。
 旧甲州街道はここで右折しすぐに左折する。この角に「右高尾山道」「左真覺寺道」と刻まれた道標が立っている。

 暫く進み、国道20号に合流した左手に長安寺がある。

「長安寺」
 陽山嶺暾大和尚を開山として創建され、創建の年代は寛永3年(1626年)という説があるが、明らかではない。また、寺名からは八王子宿の整備に尽力した大久保長安との関係が考えられるが、定かではない。さらに、本堂の屋根の上には徳川家の葵の紋が見えるが、その紋を掲げるに至った経緯なども明らかではない。
 境内には寛延3年(1750)と安永5年(1777)造立の地蔵尊がある。
 本堂に至る参道の敷石は、昭和初期に八王子市内を走っていた路面電車武蔵中央電気鉄道の線路の敷石だったものと伝えられている。

 長安寺を出て少し進んだ左手に八王子市役所横山事務所があり、所内には、オオツクバネガシの巨木が植えられた塚が保存されている。オオツクバネガシは、アカガシとツクバネガシとの間種で高尾山中のものが標識樹(原産地)として発表されたもの。
 この辺りに散田の一里塚があったと考えられている。


 暫く進むと多摩御陵入口交差点があり、右手の道路の右側に武蔵陵墓地参道の道標が、左側に多摩御陵参道の道標が立っている。


 この先、多摩御陵西交差点で右斜めに入る道が旧甲州街道で、少し進んで右に入ったところに山王社がある。

「山王社」
 山王社は、町田武兵衛・雙木勘左衛門が願主となり元禄13年(1700)に勧請、上椚田村原宿の鎮守社として祀られていたという。
 境内に松姫所縁の子育地蔵がある。松姫武田信玄の六女で武田家滅亡後八王子に移り、三人の娘を育てた。松姫は千人同心達の心の支えであったという。

 山王社を出て少し進んだ右手に小さな石地蔵尊が立っている。安永元年(1772)の造立。地蔵尊脇の細道は八王子城に通じていた。


 その先K塀の旧家を見ながら進み、町田街道入口交差点で国道20号と合流する。交差点の先左手に熊野神社がある。

「熊野神社」
 その昔、諸国行脚の旅をしてこの地にたどり着いた老夫婦が、熊野本宮大社を奉斉したとの伝承がある。天正元年(1573)八王子城主北条陸奥守氏照が再建した。
 社殿の側には立派な御神木がある。案内板には昔の恋の物語が書かれている。北条氏照に目を掛けられていた笛吹の若者と氏照の家臣の姫が恋に落ち、この木の下で逢瀬を重ねていたという。その後どうなったかは定かではないとのこと。
 この御神木は樫と欅の根元が一緒になって成長した相生の木なので、縁結びの木として知られるようになった。


 熊野神社を出て進み、高尾駅前交差点で今回の街道歩きを終え、高尾駅前の蕎麦屋で高尾名物のととろ蕎麦を頂き、高尾駅にて解散。

第9回に続く      



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