10:00、高尾駅北口前に9名が集合、小仏に向けスタート。北口を出て、高尾駅前交差点を左折し甲州街道に入り暫く進むと人間界と仏界を結ぶ両界橋に出る。橋のたもとにある石地蔵尊を見て橋を渡り進み、西浅川交差点を右折する。ここは小名路といい、大垂水峠と小仏峠とが分かれる駒木野の追分である。
暫く進み、新旧の地蔵尊が祀られているのを見て進むと右手に小仏関所跡がある。
「小仏関所跡」
小仏関所は、天正年間(1573〜1592)に北条氏照が武蔵国と相模国境の要衝として小仏峠の頂上に築いたのがはじまりと言われ、富士見関ともよばれた。
武田・今川・織田などの周辺の有力氏が滅ぶと麓に一度移され、その後、北条氏の滅亡により、徳川幕府の甲州道中の重要な関所として現在地に移されるとともに整備された。
この関所は、道中奉行の支配下におかれ、元和9年(1623)以降4人の関所番が配備された。関所の通過は、明け六ツ(午前6時)から暮六ツ(午後6時)までとし、しかも手形を必要とした。
この手形を番所の前にすえられた手形石にならべ、もう一つの手付石に手をついて許しを待ったという。特に「入鉄砲に出女」は幕府に対する謀反の恐れがあるとして重視し厳しく取り締まった。
明治2年(1869)1月の太政官布告で廃止され、建物も取りこわされた。今は手形石と手付石が残っている。
この関所の隣の公園になっているところが落合家の跡で、幕末尊皇攘夷に身を投じた関守落合直亮を顕彰した尾崎咢堂(行雄)筆による先賢彰徳碑がある。
先賢彰徳碑の隣に甲州街道駒木野宿と彫られた石碑が立っている。
「駒木野宿」
駒木野宿は、関所に付随する簡易宿場というような位置付けだった。 本陣1、脇本陣1、旅籠12軒、問屋場3軒、総家数73軒、人口355人、宿場の長さ10町。
本陣は関所手前の空き地で、脇本陣はその手前隣の鈴木和夫氏宅。駒木野宿とその先の小仏宿は合宿で問屋の継立業務は15日までを小仏宿、16日から駒野木宿が勤めた。
この辺りから道は下り坂となり、左手に5基の石碑が並んでいる。その右端に甲州街道念珠坂と刻まれた石碑がある。
昔、この辺りに鬼がいて人を襲った。ある時、老婆を襲うと、持っていた念珠の紐が切れ球が飛び散った。鬼はこれに足をとられ、坂下まで滑って大穴に落ちてしまった。以来鬼は現れなくなったという。
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