大山道を歩く

No.9


 生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、相模國を目指し「甲州街道」を歩きます。
   参考資料:八木 牧夫 (著) 「ちゃんと歩ける甲州街道 甲州道中四十四次」
       :大高利一郎(著)「街道を歩く 甲州街道」


第9回 高尾駅北口〜小名路〜小仏関所跡〜駒木野宿〜念珠坂碑〜蛇滝入口〜常林寺〜赤レンガガード〜明治天皇小休所碑〜小仏バス停〜バスにて高尾駅

R6年3月18日   

 10:00、高尾駅北口前に9名が集合、小仏に向けスタート。北口を出て、高尾駅前交差点を左折し甲州街道に入り暫く進むと人間界と仏界を結ぶ両界橋に出る。橋のたもとにある石地蔵尊を見て橋を渡り進み、西浅川交差点を右折する。ここは小名路といい、大垂水峠と小仏峠とが分かれる駒木野の追分である。


 暫く進み、新旧の地蔵尊が祀られているのを見て進むと右手に小仏関所跡がある。

「小仏関所跡」
 小仏関所は、天正年間(1573〜1592)に北条氏照が武蔵国と相模国境の要衝として小仏峠の頂上に築いたのがはじまりと言われ、富士見関ともよばれた。
 武田・今川・織田などの周辺の有力氏が滅ぶと麓に一度移され、その後、北条氏の滅亡により、徳川幕府の甲州道中の重要な関所として現在地に移されるとともに整備された。
 この関所は、道中奉行の支配下におかれ、元和9年(1623)以降4人の関所番が配備された。関所の通過は、明け六ツ(午前6時)から暮六ツ(午後6時)までとし、しかも手形を必要とした。
 この手形を番所の前にすえられた手形石にならべ、もう一つの手付石に手をついて許しを待ったという。特に「入鉄砲に出女」は幕府に対する謀反の恐れがあるとして重視し厳しく取り締まった。
 明治2年(1869)1月の太政官布告で廃止され、建物も取りこわされた。今は手形石と手付石が残っている。

 この関所の隣の公園になっているところが落合家の跡で、幕末尊皇攘夷に身を投じた関守落合直亮を顕彰した尾崎咢堂(行雄)筆による先賢彰徳碑がある。
 先賢彰徳碑の隣に甲州街道駒木野宿と彫られた石碑が立っている。


「駒木野宿」
 駒木野宿は、関所に付随する簡易宿場というような位置付けだった。 本陣1、脇本陣1、旅籠12軒、問屋場3軒、総家数73軒、人口355人、宿場の長さ10町。
 本陣は関所手前の空き地で、脇本陣はその手前隣の鈴木和夫氏宅。駒木野宿とその先の小仏宿は合宿で問屋の継立業務は15日までを小仏宿、16日から駒野木宿が勤めた。

 この辺りから道は下り坂となり、左手に5基の石碑が並んでいる。その右端に甲州街道念珠坂と刻まれた石碑がある。
 昔、この辺りに鬼がいて人を襲った。ある時、老婆を襲うと、持っていた念珠の紐が切れ球が飛び散った。鬼はこれに足をとられ、坂下まで滑って大穴に落ちてしまった。以来鬼は現れなくなったという。


 ここにはかつて高札場があった。その少し先に一里塚があったというが今は何もない。さらに進むと左手の祠の中に地蔵尊と宝永3年(1706)建立の青面金剛像(庚申塔)が安置されている。


 その先左手に、蛇滝旅籠「ふじや新兵衛」がある。軒下には講札が掲げられている。高尾山の蛇滝信仰の講中が宿泊した。建物脇に高尾山中腹にある蛇滝への上行講 是より蛇滝まで八丁と彫られた道標がある。
 蛇滝旅籠の向かいに、昭和20年(1945)8月5日中央線いのはなトンネル付近で列車が米軍機に銃撃され、疎開に向かう学童52名以上が死亡した空襲の供養塔・慰霊碑入口の石碑が立っている。


 この先、圏央道の下、左手の高尾梅の郷まちの広場を過ぎた先左手の分かれ道の左手に、享和3年(1803)建立の是より高尾山道と刻まれた道標が、右手には蛇滝水行道場入口の道標が立っている。


 暫く小仏川に沿って進むと、摺差バス停の先右手に常林寺がある。南朝方の重鎮小山氏の末裔峰尾氏がこの地に開基した。門前に自然石の二十三夜塔がある。


 また暫く小仏川に沿い進み左手に浅川国際マス釣場を見て進み、木下沢橋を渡って左に曲がりさらに右に大きくカーブした先の日影沢の分岐のところに「右小仏峠・景信山」「左日影沢高尾山」の道標が立っている。


 ここを過ぎ、民家の庭に咲くカタクリの花を見て進む。


 JR中央本線高架の赤レンガガードをくぐり進んだ先の大下バス停付近から小仏宿となる。


「小仏宿」
 小仏宿武蔵の国最後の宿場で、難所小仏峠を控え賑わい、小仏川の山女魚が名物であった。本陣、脇本陣共に無く、問屋場1軒、旅籠11軒、総家数58軒、人口252人であった。駒木野宿と合宿で問屋業務は朔日から15日を担当した。

 この先宿外れの右手の青木民雄氏宅に明治天皇小休所跡碑がある。ここは小仏の名主、旅籠屋鈴木藤右衛門宅跡でもある。そしてその3軒ほど手前は鈴木清氏宅で、かつての甲府三度飛脚の定宿、三度屋であった。
 三度飛脚とは、江戸時代、江戸と大坂との間を、毎月三度、日数八日間で往復した定期の飛脚。


 宿が終わると小仏のバス折返所で、今回の甲州街道歩きはここまでとし、バスにて高尾駅まで戻り、昼食後解散。



第10回に続く      



                      甲州街道を歩く 目次 

inserted by FC2 system