大山道を歩く

No.6


 生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「成田街道」を歩き、成田山新勝寺をお詣りすることになった。
   参考資料:土井 正和 (著)「40代からの街道歩き―成田街道編―」


第6回 京成佐倉駅前〜佐倉新町〜佐倉順天堂記念館〜妙胤寺〜酒の井の碑〜大崎馬頭観音堂〜伊篠の松並木跡・宗吾道道標〜公津の杜入口〜公津の杜駅

R5年2月6日   

 10:00、京成佐倉駅前に前に、7名が集合、晴天の下、南口から南へ坂を上ると突き当りに佐倉市立美術館があり、左折し成田街道に入る。この辺りが中心街の佐倉新町である。


「佐倉宿」
 佐倉宿は、老中土井利勝によって築かれた佐倉城の城下町。商人町であった新町通りでは、今も間口が狭く奥行きが長い町家が残っている。

 新町通りを歩き左手に明治の呉服商駿河屋(今井家住宅)、その先右手にある佐倉囃子の歴史、伝統を継承する博物館佐倉新町おはやし館(今日は休館日のため見学せず)を見て進む。


 佐倉新町おはやし館を過ぎ、突き当りの手前を左に折れた先右手に宗圓寺がある。

「宗圓寺」
 宗圓寺は、松本城主堀田加賀守正盛が、弟堀田佐兵衛安利の冥福を祈り寛永16年(1639)に創建、寛永19年(1642)に佐倉への転封に伴い、当地へ移転した。
 本堂裏の墓所に佐倉順天堂を開設した佐藤泰然と養子として迎え、泰然とともに佐倉順天堂を発展させた尚中の墓がある。

 宗圓寺の先に堀田家の菩提寺である甚大寺がある。

「甚大寺」
 甚大寺は、寛永寺などを創建した慈眼大師天海僧正が元和元年(1615)山形城下に創建、山形城主伊豆守堀田正虎公が開基となり元禄14年(1701)に中興、堀田相模守正亮公の佐倉転封に際して、当地へ移転したという。以来堀田家の菩提寺となり、墓所に堀田正俊、正睦、正倫らの墓がある。
 境内の隅に佐倉城鯱鉾が保管されていた。佐倉城の数少ない当時を偲ぶものである。

 街道に戻り、道なりに暫く進み、突き当りを左折した先右手奥に教安寺がある。

「教安寺」
 教安寺は、花井左門(浄徳院殿雲竜心白居士)の夫人東専院殿松誉春貞大姉を開基として、欣蓮社厭道波大和尚を開山に迎え寛永2年(1625)創建したという。花井家は松平忠輝の家老職を務めていたものの忠輝の失脚に伴い、佐倉城主にお預けとなっていたという。

 教安寺をでて少し行った左手にある天保元年(1830)創業のそば処川瀬屋、そしてその先左手にある明治時代から続く商家石渡家住宅を見ながら進む。


 右に折れていくと、最後の佐倉藩主・堀田正倫が明治23年(1890)に建てた邸宅で、建物7棟が国の重要文化財になっている旧堀田邸があるのだが、今日は月曜日のため休館なので、残念だがパスをする。

 その先右手に、江戸時代から呉服太物を扱う老舗商家の三谷家住宅がある。母屋と並んで袖蔵が建つのは明治時代の商家の特徴でもある。袖蔵は明治17年(1884)の建築で、母屋もその頃のものと考えられる。


 三谷家住宅を過ぎ暫く進み本町交差点の角に佐倉順天堂記念館がある。

「佐倉順天堂記念館」
 佐倉は、江戸時代には西の長崎、東の佐倉といわれたほど西洋医学(蘭医)が盛んだった。
 順天堂は天保14年(1843)当時の佐倉藩主堀田正睦が招いた蘭医の佐藤泰然が開いた医院兼蘭学塾で、西洋医学による治療と医学教育が行われた。
 記念館では、当時の順天堂で用いられていた医学書や医療器具などを展示している。敷地内に佐藤泰然の像が立っている。
 隣では佐倉順天堂医院が開業している。

 また暫く進むと右手に、私が終戦直後に2年ほどお世話になっていた昌柏寺がある。現在は当時の面影はなく、本堂も立て替えられており、幼稚園を運営している。


 昌柏寺の先右手に2体の地蔵があるY字路を右に坂(藤坂)を下り、上った先の信号を左に行くと左手に妙胤寺がある。

「妙胤寺」
 妙胤寺は、西安元年(1299)に真言宗の僧侶により建立され、弥勒院と称していたが、後に日蓮宗と改宗。本佐倉城主千葉勝胤の帰依をうけて祈願所となったことから、勝胤の「勝」をとって常勝山、「胤」をとって妙胤寺となった。
 また、本堂内には日蓮宗の大信徒であった加藤清正の像が祀られていることから清正公の寺とも称されている。
 参道に、講談や浪曲の名作天保水滸伝で知られる平手造酒が寄り掛かったという(2代目)がある。

 妙胤寺をでて進むと右手に清光寺がある。

「清光寺」
 清光寺は、室町時代の末期の弘治2年(1556)に月峰上人による開山と伝えられている。浄土宗知恩院に属し本尊は善光寺式三尊仏で正安2年(1300)の紀年銘がある。二世の峰誉無算和尚は、徳川家康の父広忠の分骨を安置供養し、佐倉の城主は将軍の命により、廟所の管理をしていた。
 本堂は、佐倉城主、大久保加賀守忠朝により天和年中(1681〜84)に建立されたものであるが、2019年9月の台風15号による暴風で、屋根が飛ばされて天井が抜け落ちるなどの被害に遭ったままである。

 清光寺を出て暫く進み、上本佐倉交差点を左折すると左手に大鷲神社がある。酒々井新宿大鷲神社の創建年代等は不詳ながら、酒々井上宿(通称新宿)の鎮守で、酒々井宿の入口にある神社だが、詳細は不明。新宿は一番新しい宿であり、宿の繁栄を祈願した神社と考えられる。

 大鷲神社の少し先右手に莇(あざみ)吉五郎家住宅がある。莇家は醤油や茶を扱った商家で、明治時代中期以前に建てられた佐倉街道(成田街道)の景観を形成する象徴的な建物である。


 そのすぐ先に酒々井上宿八坂神社がある。創建年代等は不詳ながら、徳川家康が天正18年(1590)に関東入国、酒々井に宿場町が形成された際、宿と市場の守り神として牛頭天王社が勧請されたという。明治維新後、八坂神社と改称、字天野の熊野神社を合祀している。


 大鷲神社からこの先の下宿麻賀多神社付近までがかつての酒々井宿である。

「酒々井宿」
 江戸時代は酒々井町と称し、本佐倉町とともに佐倉の城下町であった佐倉六町の一つであった。
 酒々井宿は徳川家康の関東入りに伴い、千葉氏の城下町を宿場町として再編した町が始まりで、宿場町は江戸に近い西側から上宿・中宿・下宿と横町に分かれていた。
 酒々井宿には宿継ぎの人馬や駕籠などを揃えていたほか、出張の役人や旅人などを泊める宿屋があり、小見川藩などの参勤交代にも使われていた。
 大きな宿場ではなかったが甚内・阿波屋・佐野屋・笹屋・大国屋・中屋・米屋などの宿屋の名が語り継がれている。

 この先右手に島田長右衛門家・島田政五郎家がある。島田家は、徳川幕府の野馬御用を勤めた牧士の家。当時建物の裏には野馬会所と野馬払い場があった。捕獲した野馬は、幕府役人の乗馬用や役馬用のほか、農耕馬として農民に払い下げられた。
 長右衛門家が本家、隣接する政五郎家が分家。現在の建物は明治時代前期の建築。


 この少し先に酒の井の碑の看板があり、矢印に従って左に入っていくと円福院神宮寺(廃寺となっていて、その跡地が小公園になっている)があり、そこに地名酒々井の起源となった酒の井を示すと復元された酒の井戸がある。

「酒の井伝説」
 昔むかし、印旛沼の近くの村に年老いた父親と孝行息子が住んでおった。父親はたいそう酒好きでな、親思いの息子は毎日一生懸命働いて父親に酒を買っていたんじゃ。ところがある日、どうしても酒を買う金がつくれずに、とぼとぼと歩いて家に帰ろうとしていた。その時、道端の井戸から何とも良い香りが「ぷうん」としてきた。井戸の水をくんでなめてみると、それは本物の酒だったんじゃ。さっそく帰って父親に飲ませると、「こりゃうまい酒だ。ありがたい、ありがたい」とたいそう喜んだ。息子はそれから毎日、毎日井戸から酒をくんで飲ませたんじゃ。ところがこの酒は、親子以外の人が飲むと、ただの水になってしまうんじゃな。「きっと、孝行息子の真心が天に通じたに違いない」とみんながほめたたえた。この酒の話しが広まり、村もいつか「酒々井」と呼ばれるようになったということじゃ。

 街道に戻り少し進むと左手に下宿麻賀多神社がある。

「下宿麻賀多神社」
 酒々井下宿麻賀多神社の創建年代等は不詳ながら、酒々井の地は天喜年間(1053)に村落として成立、その際に印旛郡域東南部に数多く鎮座する麻賀多神社が創祀されたと推定されている。
 長禄元年(1457)に千葉輔胤が本佐倉城を築城すると、天正18年(1590)に滅ぼされるまで城地鎮護の神として崇敬されていたという。
 境内の古峯神社、大杉神社、妙見神社、水神社など十社の摂社・末社があることから往時の栄華が偲ばれる。

 下宿麻賀多神社を出て暫く進むと左手に下り松三山碑がある。奥州出羽三山に参詣した記念碑で、左から文政8年(1825)の庚申塔、文政8年(1825)の馬頭観世音碑、文政13年(1830)の出羽三山供養塔が並んでいる。
 この地域では壮年になると講をつくり出羽三山に参詣することになっていた。


 その先に、印旛沼や遠く筑波山を望む浮世絵にも描かれた絶景地下がり松と呼ばれる場所がある。江戸時代には茶店があり、成田詣での人々の休憩所として賑わったという。


 下がり松を過ぎ暫く歩き、酒々井駅入口の交差点から旧道に入るべきところを直進してしまい、中川の石仏をパスしてしまった。
 51号線に合流した先の信号脇の電信柱の下に大崎仁王尊道標がある。寛政2年(1790)の銘で仁王尊と刻まれている。

 この交差点を右に折れ下り坂を行き、左にカーブした左手に大崎成田山道標がある。明治27年(1894)成田山と刻まれている。


 大坂と呼ばれる坂の途中、左手に階段があり、その上に大崎馬頭観音堂がある。この馬頭観音は江戸時代に馬を使った運送業者たちによって祀られていた。また天保10年(1839)の銘がある成田山への道標がある。


 大阪を上りきり再び51号との合流点に伊篠の松並木跡・宗吾道道標がある。国道51号線に沿った旧成田道にあり、約800mにわたり松並木が存在していた。通称杢之進並木(もくのしんなみき)といわれ、享保年中(1716〜35)に天領代官小宮山杢之進が植樹したと伝えられている。
 江戸中期以降、成田山の参詣者に木陰を提供していたが、昭和末期に松喰虫の被害で枯れてしまった。現在では宗吾道道標・石碑が残り旧成田道を伝えている。


 右側の旧道を暫く進み51号と再度合流する信号の手前に、成田不動尊の護摩を焚くための材木を用立てるため、信者が寄附した土地を記念した成田山護摩木山供養碑がある。

 その先の信号の先を左手の旧道へと進む。坂を下ると野中にぽつんと地蔵尊が立っている。伊篠の竹之下地蔵尊で、地元の女人講中によって建てられたという。
 地蔵のすぐ横に用水が流れているが、地蔵が賽の河原で子供を救うという信仰に由来するといわれている。子育て、火防、病気平癒など、あらゆる願いを叶えてくれる延命地蔵として信仰されている。


 坂を上り暫く進み、公津の杜入口交差点で今回の成田街道歩きを終え、ここを左に折れ、公津の杜駅へ出て帰路につく。



第7回に続く      


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