大山道を歩く

No.7


 生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「成田街道」を歩き、成田山新勝寺をお詣りすることになった。
   参考資料:土井 正和 (著)「40代からの街道歩き―成田街道編―」


第7回 公津の杜駅〜公津の杜入口〜不動塚〜一本松跡と馬頭観音〜不動尊旧跡〜京成成田駅〜表参道〜薬師堂〜成田山新勝寺〜京成成田駅〜成田山新勝寺

R5年4月24日   

 成田街道歩きも最終回となり、10:00、京成本線公津の杜駅に4名が集合、3月並みのちょっと寒い中スタート。駅前から南へ暫く歩き、公津の杜入口交差点を左折し成田街道に入る。
 その先の信号のある交差点を右斜めに進み、暫く歩き並木坂上交差点を右折。暫く進み右に大きくカーブした右手に不動塚がある。

「不動塚」
 成田山は、天慶2年(939)寛朝大僧正がご本尊不動明王を捧持し、難波(大阪府)の津より海路を東上、横芝光町尾垂ヶ浜に上陸(御本尊上陸聖地)され、陸路を進み公津が原(成田市西南部)において平将門の乱を鎮めるため不動護摩供を修し、閉廷後この地に堂宇を建立したと縁起に記され、この不動塚周辺がご本尊不動明王を最初に奉祀した場所と伝えられ、成田山の旧跡地といわれる所以。

 街道に戻り暫く進み、一本松跡交差点の角に一本松跡碑がある。以前はT字路の中央に1本の松があったが排ガスの影響などで枯死、伐採されてしまった。その脇に立つ馬頭観音は安政5年(1858)の道標である。


 また暫く進み京成本線とJR成田線の線路をまたぐ阿利耶橋の脇に、不動尊旧跡がある。

「不動尊旧跡」
 安政5年(1858)、成田山で新本堂完成の折、本尊の仮安置所を設けたこの場所から遷座の行列がスタートした。本来は先に見てきた不動塚に仮安置すべきところ、遠かったためこの地が選ばれた。
 敷地内には道祖神を安置する小堂護摩木山供養塔、数体の地蔵を安置する地蔵堂などが立っている。

 不動尊旧跡を過ぎ更に進み京成成田駅前に到着。ここで成田山参詣に参加の2名と合流し、江戸時代の名残をとどめる町並みの表参道を進む。


 参道途中の三叉路に薬師堂が建っている。

「薬師堂」
 明暦元年(1655)に成田山本堂として、現在の大本堂のある場所に建立された。水戸光圀や、初代市川團十郎が参詣された由緒ある御堂である。
 年々増加する参詣ご信徒に応ずるため、元禄14年(1701)の本堂(光明堂)再建に伴う移築を経て、安政2年(1855)に現在の地に移転改築され、薬師如来を御本尊とする薬師堂と名称を変えて現在に至っている。
 今なお創建当時の趣を残す成田山新勝寺現存最古の御堂として、成田市指定有形文化財に指定されている。

 薬師堂を過ぎ坂を下ると成田山新勝寺総門前に着く。

「成田山新勝寺」
 真言宗智山派の大本山。天慶2年(939)に平将門の乱が起こったおり、朱雀天皇の密勅を受けた寛朝大僧正が不動明王とともにこの地を訪れ、乱平定の護摩祈祷を行った。結願の日に将門の乱が終息した。
 寛朝大僧正が都へ帰ろうとしたところ、不動明王のお告げにより御尊像はこの地に留まり、堂宇を建立、新勝寺が開山された。
 源頼朝水戸光圀二宮尊徳、そして市川團十郎といった多くの著名人が成田山を信仰した。歌舞伎役者の初代市川團十郎が成田不動に帰依し成田屋の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったこともあいまって、成田不動は庶民の信仰を集めた。
 境内には、多くの伽藍があり、仁王門三重塔光明堂釈迦堂額堂は江戸時代の建立で、国の重要文化財に指定されている。

 総門は開基1070年の記念事業により、平成19年(2008)建立。荘厳な雰囲気の総門は、高さ15mの総欅造り。蟇股という欄間にあたる部分には十二支の木彫刻が施されている。また、楼上には八体の生まれ歳守り本尊が奉安されている。


 総門をくぐり、天保2年(1831)再建の仁王門をくぐると本堂前の広場に出る。


 大本堂は成田山新勝寺で最も重要な御護摩祈祷を行う中心道場で、昭和43年(1968)の建立。堂内の御本尊不動明王は、向かって右に矜羯羅童子、左に制咤迦童子を従えている。

 右手には、正徳2年(1712)に建立された重要文化財の三重塔がある。塔内には大日如来を中心に五智如来が奉安され、周囲には「十六羅漢」の彫刻がめぐらされている。雲水紋の彫刻がほどこされた各層の垂木は一枚板で作られた珍しいもので、一枚垂木と呼ばれている。

 本堂にお参りし、参道に戻り、川魚の卸問屋として明治43年(1910)創業のうなぎ屋川豊本店で、成田街道完歩の打ち上げを行う。

 京成成田駅に戻り帰路につく。

終わり      


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