池上七福神めぐり

                                                        2023.1.5

 生涯大学30期文化AクラスOBの有志で行っている「歩きま専科」の2023年第一回目は、恒例になった七福神めぐり、今年は「日本橋七福神」を巡った。

 七福神は、七つの災いを除き、七つの幸せを与える神々であり、また、人に七つの道を示し、人々に七つの徳をそなえさせる福神でもある。
 七福神巡りは、谷中の七福神巡りが最初といわれている。有名になったのは、隅田川の七福神巡り、文化元年(1804)向島百花園が開園されてから始まった。その他各地に七福神巡りが始まり、文化文政の頃からとくに盛んになった。

 今回は日本橋七福神を巡る。日本橋七福神は、古い歴史を持つ神社だけで構成され、しかも日本で一番巡拝が短時間でできる七福神。人形町通りなど江戸下町の伝統を持つ街を、下町情緒に触れながら参拝できる。

1.椙森神社 【恵比寿神】
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2.笠間稲荷神社 【寿老神】
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3.末廣神社 【毘沙門天】
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4.松島神社 【大国神】
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5.水天宮 宝生弁財天 【弁財天】
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6.茶ノ木神社 【布袋尊】

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7.小網神社 【福禄寿】
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 10:00、東京メトロ小伝馬町駅に10名が集合しスタート。駅前に立つ伝馬町牢屋敷跡の碑を見て、江戸通りを人形町通りの一本東側の通りに左折し暫く進むと左手に恵比寿神を祀る椙森神社がある。

第一番  椙 森 神 社 【恵比寿神】
 椙森神社は、天慶3年(940)、藤原秀郷平将門の乱鎮定のため戦勝祈願し、戦後白銀の狐像を奉納したとされる。文正元年(1466)には太田道灌が雨乞いに霊験があったとして山城国稲荷山五社大神を勧請して祀った。
 江戸時代には江戸三森(椙森、柳森、烏森)の一つに数えられ、庶民だけでなく松平信綱や松平頼隆といった諸大名からも崇敬を集めるようになった。
 寛文年間(1661〜73)には吉川惟足が大巳貴大神の託宣を受けて恵比寿大神を祀った。江戸時代の富興行を記念した冨塚があり、宝くじ祈願の参拝者も多い。

 恵比須神は「福の神」の代表。鯛を抱いた福々しい相好はなじみ深いものである。恵比須の名は、外国人を意味するエビスの言葉と同一で、本来は異郷から来臨して人々に幸福をもたらすと信じられた神である。漁村では海の神、農村では田の神、山村では山の神、都市では市神、福利を招く神として、商人からも深い信仰が寄せられている。

 椙森神社を詣り、人形町通りに出て人形町交差点に向かって歩く。人形町交差点を左折し進み、久松警察署前交差点の先右手に寿老神を祀る笠間稲荷神社がある。

第二番  笠間稲荷神社 【寿老神】
 笠間稲荷神社は、日本三大稲荷のひとつ茨城県笠間稲荷神社の東京別社。笠間稲荷神社東京別社は、江戸時代末期安政6年(1859)に笠間藩主牧野貞直公が、笠間より御分霊を奉斎して建立されたという。以降、牧野家のみならず日本橋魚河岸の守り神として、五穀・水産・殖産興業の守護神として商人庶民問わず広く信仰を集めた。福徳長寿の寿老神が祀られている。

 寿老神は、中国の神様で、老人星の化身、福禄寿と同体異名であるともいわれ、そのお姿は多様である。富財、子宝、諸病平癒とそのご利益は多岐にわたっているが、なんといっても長寿の神として信仰されている。

 久松警察署前交差点に戻り左折し、二本目を右に折れた先右手に毘沙門天を祀る末廣神社がある。

第三番  末 廣 神 社 【毘沙門天】
 末廣神社は、慶長元年(1596)以前に稲荷祠として鎮座。吉原が現在の地に移る以前の元吉原(葭原)の総鎮守社として篤く信仰されてきた。
 延宝3年(1675)の社殿修復の際に中啓(末廣扇)が見つかったことから末廣神社と名付けられた。幕府に仕える武家からの崇敬も篤く、旗本火消頭に庇護や祭事の奉仕もさせている。七福神の毘沙門天が祀られている。

 毘沙門天(梵名ベイシラマナ)は、仏教の守護神で多聞天とも呼ばれている。鎧、兜に身を包み左手に持っている宝塔より無量の宝物を衆生に与えて福徳を授け、右手の鉾は邪を払い魔を降す徳を示す。心には勇気決断、くらしには財という、物心ともどもの福を施す神である。

 末廣神社を詣り大門通りを左折し進むと左手に大国神を祀る松島神社がある。

第四番  松 島 神 社 【大国神】
 鎌倉時代の元亨年間(1321〜24)以前は、この辺一帯は入り江であった。その中の松が茂った島に「柴田」という一族が住んでおり、その松島の柴田家の屋敷神として設けたのが松島神社の起源である。
 天正13年(1585)に邸宅が一般に公開された。当時は松島稲荷と呼んでいた。地方から多くの人たちが住むようになり、故郷の神々を合祀するように頼んだため、祭神が多く祀られることになった。七福神の大国神が祀られている。

 大黒神は古代インドの闇黒の神で、仏教での戦闘神である。平安以後食を司る台所の神と崇められた。又、日本の神大国主命を大国と混同させ、命のご神徳を合せ、糧食財宝が授かる神として信仰を得た。くろ(黒)くなってまめ(魔滅)に働いて大黒神を拝むと大福利益が得られる。

 松島神社を詣り、すぐ先を右折するとその先水天宮前交差点の角に弁財天を祀る宝生弁財天が境内にある水天宮がある。

第五番  水天宮 宝生弁財天 【弁財天】
 久留米の水天宮は久留米藩歴代藩主(有馬家)により崇敬されていたが、文政元年(1818)9月、9代藩主有馬頼徳が江戸・三田の久留米藩江戸上屋敷に分霊を勧請した。これが江戸の水天宮の始まりである。
 明治4年(1871)有馬家屋敷が移転することになり、それとともに赤坂に遷座したが、翌明治5年(1872)有馬家中屋敷のあった現在の日本橋蛎殻町二丁目に移転した。安産、水難除けの神として知られる。
 境内に弁財天を祀る宝生弁財天がある。久留米藩第9代藩主、有馬頼徳公が、加賀藩第11代藩主、前田斉広公と、宝生流能楽の技を競われた際、弁財天に願をかけ、見事に勝利を収め、それ以来、宝生弁財天と敬われている。

 弁財天さまは、七福神唯一の女神で、弁舌、芸術、財福、延寿を授ける神として、古くから、商人や芸人などの幅広い人々の信仰を集めており、運を開き、福を招く女神である。

 水天宮 宝生弁財天を詣った後、水天宮前交差点を左に折れすぐ右に入った左手に、布袋尊を祀る茶ノ木神社がある。

第六番  茶ノ木神社 【布袋尊】
 お茶ノ木様と町内の人に親しまれている茶ノ木神社の御祭伸は倉稲魂大神。昔この土地は徳川時代約三千坪に及ぶ下総佐倉の 城主(十八万石)大老堀田家の上屋敷であって、この神社はその守護神として祀られたものである。
 社の周囲に巡らされた土提芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植込まれ、芝と茶の木の緑が実に見事であったことから社名が名付けられた。今でも防災・生産の神様として信仰を集めている。七福神の布袋尊を祀っている。

 布袋尊は中国唐代の禅僧で名は契此。小柄で太鼓腹、大きな袋を担って各地を放浪し、吉凶を占い、福を施して倦むことがなかったという。又、未来仏たる弥勒菩薩の化身ともいわれ、昔から崇められてきた。

 茶ノ木神社を詣り、その先を左に折れ、角に小網町郵便局のある交差点を右折、その先の信号を右に折れると左手に福禄寿を祀る小網神社がある。

第七番  小 網 神 社 【福禄寿】
 稲荷神を主祭神とする小網神社は約550年前の文正元年(1466年)悪疫鎮静の神として鎮座。太田道灌公の崇敬も篤く、社名も道灌公が名づけたといわれる。
 社殿(昭和4年建立)が戦災を免れたり、同神社の御守を受け戦地に赴いた兵士全員が無事帰還したことなどから、近年強運厄除の神として信仰を集めている。
 境内には、財運が高まるといわれる銭洗いの井があり、清めた手持ちのお金を、財布などに入れ続けておくと財運があがるとのことで、東京銭洗い弁天とも呼ばれている。福禄寿弁財天が祀られている。

 福禄寿とは、幸福、高禄、長寿の三徳を具えて、これを人に与え、方位除災、商売繁昌、延寿福楽等のご利益を現わされる方である。

 小網神社にはあまりに多くの参拝客が並んでいるので、門前から詣って七福神を巡り終え、人形町交差点に戻り解散。


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