大山道を歩く

No.11


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮をお詣りを目指します。

第11回 間々田駅前〜小山市立車屋美術館〜寝起不動尊〜間々田宿本陣跡〜間々田八幡宮〜千駄塚古墳〜安房神社〜持宝寺〜小山駅

令和2年12月8日   

 10:00、JR宇都宮線 間々田駅に4名が集合、晴天の下スタート。駅東口を出て駅前通りを進み、間々田駅入口交差点で日光街道に入り右折すると、その先すぐの右手に小山市立車屋美術館がある。。

「小山市立車屋美術館」
 平成19年(2007)に国の登録有形文化財に登録された小川家住宅の米蔵を、本格的な美術展示室として改装するとともに、主屋・庭園なども一般公開し、平成21年(2009)4月に開館した。
 小山市乙女に所在する小川家(屋号を「車屋」)は、江戸時代から明治時代にかけて乙女河岸で肥料問屋を営んでいた豪商であり、鉄道の発達にともない、明治末年現在の地に移転した。
 現存する建造物のうち主屋・土蔵・表門・米蔵・肥料蔵の5棟は、乙女河岸の繁栄を伝える貴重な遺産であると同時に近代和風住宅としての価値も高い。

 小山市立車屋美術館を見学して少し行った先右手に、「逢の榎」と刻まれた石碑がある。

 昭和40年(1965)の台風で倒れるまで樹齢300年以上、高さ6間(約11m)もある2本のエノキが絡み合うように立っていた。
 江戸と日光の中間点にあたるところから「間の榎」と呼ばれ、いつしか「逢の榎」となり、縁結びの木として信仰を集めるようになった。

 「逢の榎」の石碑の先右手に、乙女河岸の河川交通安全を願って創建された琴平神社がある。境内には文化10年(1813)建立の手水石がある。


 琴平神社のすぐ先左手奥に龍昌寺がある。

「龍昌寺」
 慶長11年(1606)に華翁玄芳禅師が開いた寺。慶安4年(1651)3代将軍・徳川家光が臨終の際に遺骨を東照宮へ運ぶ途中、本堂脇に「御霊屋」を設営し安置所とした。
 参門を潜った左側の朱色の不動堂には寝起不動立像が安置されている。元亀年間(1570-1573)に不動明王像を背負い旅をしていた模庵和尚が、旅の途中に衰弱で倒れた際、枕元に現れた不動明王のお告げを聞き、旅を続けられたことから「寝起不動尊」と呼ばれ、この地に尊像を祀ったと伝わる。

 龍昌寺をでたすぐ先に「間々田ひも」店がある。間々田紐は手組みの日本古来のひもで、その昔は武士の冑の緒や下げ緒などとして愛用され、現在は婦人の帯紐、男性女性の羽織紐やループタイ紐、ネックレス、眼鏡紐、携帯ストラップなど多種多様に用いられ、栃木県の伝統工芸品に指定されている。


 「 間々田ひも」の店内を見せてもらった後、暫く歩くと左手に問屋場跡の説明版がある。そして、その先に間々田宿本陣跡の説明版がある。

「間々田宿」
 元和4年(1618)に宿駅に指定された日本橋から数えて11番目の宿場である。天保14年(1843年)の「日光道中宿村大概帳」によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が50軒(大5,中17,小28)あった。宿内の家数は175軒、人口は947人であった。
 間々田という地名は、戦国時代の飯田(まんまだ)が起源という。その後、表記は「まま田」になり、日光街道が整備されると江戸―日光間の中間に位置することから「間々田」と表記されるようになった。
 本陣は青木家が勤め建坪157坪で、明治天皇の休息所にもなった。
 
 問屋場とは、宿場の人馬継立業務の一切を取扱う宿役人の詰所にあたる場所で、間々田宿では上原家が勤め名主を兼ねていた。

 間々田宿本陣跡を過ぎ、間々田四丁目交差点の角に八幡宮の参道入口の社標と鳥居が建っている。ここから500mほど行ったところに間々田八幡宮がある。

「間々田八幡宮」
 天平年間(729〜749)の勧請と伝わる。天慶2年(939)、平将門の乱が起こると下野の国の武将・藤原秀郷はここで戦勝祈願をし戦いに臨んだ。
 文治5年(1189)には、奥州藤原氏討伐に向かう源頼朝が参拝。境内に松を植える。この松は「頼朝手植えの松」として氏子に守られてきたが、1905年(明治39年)に枯死した。現在の松は新たに植えられたもので3代目である。
 江戸時代には朝廷より日光に遣わされた例幣使が道中必ず参拝する習わしとなっていたという。
 嘉永4年(1851)日光東照宮の改修を手掛けた宮大工が社殿の再建を行った。
 毎年9月に豊作祈願の奉納相撲が境内で行われる。
 敷地は約2万坪と近隣に類を見ない規模で、一部が間々田八幡公園として開放されている。
 毎年5月5日400年続く奇祭「間々田のジャガマイタ(蛇祭り)」が行われる。釈迦の誕生時に八大竜王が祝福の甘露を降らせた故事に始まる龍神信仰で、間々田八幡宮に7匹の竜頭蛇体が集まり、お祓いを受けた後、境内の池でたっぷり水を飲み、町内に繰り出すのである。

 間々田八幡宮から街道に戻り、しばらく進み、千駄塚交差点を過ぎた先左手に千駄塚古墳の道標があり、参道脇の覆屋内には青面金剛像庚申塔と天保15年(1844)建立の六臂馬頭観音像が安置されている。
参道を進むと正面に千駄塚古墳が見える。

「千駄塚古墳」
 千駄塚古墳は、6世紀に思川の東側の台地に築かれた古墳。墳丘の直径は70m、高さ10mの円墳で2段に築かれ、墳丘のまわりには幅20mの堀がめぐらされている。
 古墳の上に千駄村の鎮守である浅間神社が祀られていることから、別名浅間山古墳ともよばれている。

 街道に戻りまた暫く進み、粟宮南交差点の角にある西堀酒造に寄る。創業明治5年(1872)で、銘酒「若盛」「門外不出」などの蔵元である。


 西堀酒造をでて暫く歩き、粟宮交差点の手前左手に安房神社の参道入口がある。参道を200mほど進むと安房神社だ。

「安房神社」
 平安時代にまとめられた「延喜式」に名を連ねる古社。起源は、千葉の安房神社を勧請したという。
 天慶2年(939)、藤原秀郷平将門討伐に際して戦勝を祈願し、社領を寄進したとも伝えられる。中世には粟宮と呼ばれ、小山氏・佐野氏・結城氏・古河公方などの崇敬を受けた。
 池の島には水神様が祀られている。


 街道に戻り、粟宮交差点で4号線と別れ直進する。暫く進み、国道50号をくぐると、少し先左手に天満宮がある。石鳥居は享和3年(1803)建立。境内には宝篋印塔や嘉永3年(1850)建立の十九夜塔がある。
 この辺りが小山宿の江戸(南)口で土塁や矢来柵があった。

 また暫く進み、角に永島銅鉄店のある交差点を左に折れると、木造の鐘楼門のある寺宝寺が見える。

「寺宝寺」
 772年に弓削道鏡が開基したと伝えられている。享保13年(1728)に8代将軍徳川吉宗が日光社参した際は、歴代将軍が休憩した小山御殿がすでに取り壊されていたため、この寺で休憩した。
 境内に安置されている梵鐘は、寛政4年(1792)に鋳造されたもので、第2次世界大戦中の供出を逃れ、戦前に作成された梵鐘としては、市内ではこの一口のみとなっている。
 木造の鐘楼門の柱には「弓削道鏡根本開基寺」と記されている。

 寺宝寺をでて、街道に戻り少し進んだ左手、見事に黄葉したイチョウ並木と朱塗りの灯篭が並ぶ須賀神社の参道を見て進む。


 須賀神社の参道を見て進むと左手に、唐破風の玄関を残している若松脇本陣跡があり、「明治天皇行在所」碑がある。

「小山宿」
 小山宿は「五街道追分の地」とも呼ばれ、日光街道(日光道中)、壬生通り結城道佐野道栃木道が交差する交通の要所であった。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は2軒設けられ、旅籠が74軒(大11,中27,小36)あった。宿内の家数は423軒、人口は1392人であった。
 当時の日光街道は現在の県道265号線に相当し、街道沿いでは南から下町・中町・上町、他にも横町・新町から構成された。本陣・脇本陣は中町(現在の中央町)にあった。また宿内には、将軍家による日光社参のため、小山御殿が設けられていた。


 今回はこの先、駅前上町交差点までとし、ここを右折し小山駅から帰路につく。

第12回に続く      



                      日光街道を歩く 目次 

inserted by FC2 system