大山道を歩く

No.12


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮をお詣りを目指します。

第12回 小山駅前〜須賀神社〜城山公園〜興法寺〜日枝神社〜喜沢の一里塚〜新田宿本陣跡〜橿原神社〜小金井駅

令和3年3月23日   

 3ヶ月ぶりの日光街道歩き。10:00、JR宇都宮線 小山駅に、5名が集合、快晴の下スタート。前回見残した駅周辺から見ていく。駅西口を出てすぐ左へ進むと左手に常光寺がある。

「常光寺」
 鎌倉時代創建の寺。本尊の阿弥陀如来像には、慶応4年(1868)の戊辰戦争に伴う激戦により受けた弾痕が残っている。
 また、境内にある二十三夜堂は町内の氏神で、二十三夜待ち(おひまち)をしたことから、門前の通りを「三夜通り」という。

 常光寺をでて、日光街道を左折、須賀神社の参道入口を右折し朱塗り灯篭の並ぶ参道を進み須賀神社へ。

「須賀神社」
 承平5年(935)に起こった平将門の乱を平定した藤原秀郷公が京都の八坂神社より御分霊を勧請して祀ったのが始まり。
 3代将軍・徳川家光が東照宮本殿を造営した職人に造らせた朱神輿が奉納されているのだが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、拝観が中止されている。残念。
 境内に、小山評定(ひょうじょう)にまつわる石碑が建てられている。沼部春友宮司は「小山評定は神社の境内で行われ、徳川家康公が戦勝祈願をした」と話す。

「小山評定」
 徳川家三百年の安泰の道筋をつけた重要な軍議で、慶長5年(1600)に、ここ小山の地で開かれた。
 徳川家康は7月24日、上杉景勝を討伐するために会津に向かっていた途上、下野国小山に本陣を置いた。その時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、「このまま上杉を討つべきか、反転西上して石田を討つべきか」を質した。これが世にいう小山評定である。
 このとき、尾張国清洲城主の福島正則が家康のために命を投げ出すことを誓い、続いて遠江国掛川城主の山内一豊が、「家康に城を明け渡してまでもお味方します」と進言。一豊の建議が諸将の気持ちを動かし、家康支持で固まった。
 こうして、家康率いる東軍は、石田三成討伐するため西上することに決した。


 須賀神社の隣に妙建寺がある。

「妙建寺」
 建武元年(1334)建武の中興の時、宗祖日蓮大聖人(1222〜1282)の弟子六老僧の一人伊予房日頂聖人にこの地で教化された、成就院日念聖人に因って建立された。
 現在の本堂は、十八世幽遠院日沾聖人、十九世蓮華院日法聖人により 享保2年(1717)から16年かけて再建された。格天井には百人一首の絵と歌が59枚描かれ、中心には龍が描かれている。寺院建築では珍しいといわれている。

 妙建寺をでるとその先に小山市役所があり、敷地内に小山評定の碑がある。市役所を過ぎた先の交差点を左折し少し進むと右手、思川を望む高台に城山公園がある。

「城山公園」
 小山氏の栄枯盛衰を見守り続けた居城跡。祇園城(小山城)は藤原秀郷の築城にはじまり、小山氏の居城であった。徳川の世になると譜代の本田正純が城主となり城下を整備したが、元和5年(1619)に宇都宮に移封となり、小山城は廃城となった。
 城の名前は京都の祇園牛頭天王社(八坂神社)を境内に勧請したことに由来。二の丸と曲輪は空堀で分けられ、橋が架かっていた。

 城山公園から戻り、駅前上町交差点を左折し日光街道に入り、少し行った右手に光照寺がある。

「光照寺」
 永仁5年(1297)創建と伝わる時宗の寺。明治の戊辰戦争では、大鳥圭介率いる旧幕府軍と宇都宮から南下した新政府軍が小山宿で戦った。境内には新政府軍についた笠間藩士の墓が立っている。

 光照寺をでて暫く進むと左手に興法寺がある。

「興法寺」
 第3代点台座主・慈覚大師が嘉祥2年(849)に建立した妙楽院が起源と伝わる。小山氏代々の祈願所として城内に置かれたが、江戸時代に移転した。
 境内の地蔵尊には戊辰戦争「小山の戦い」の被弾跡がある。

 興法寺の向かい側に、村の鎮守である愛宕神社がある。貞応2年(1223)小山城主小山朝政が鬼門守護のために山城国の愛宕神社を勧請した。狛犬は天明5年(1785)の建立で市内最古のもの。


 愛宕神社をでて暫く歩き、両毛線の踏切を渡り、さらに進み喜沢南交差点を渡ると、すぐ左の4階建てのアパートがあり、その裏側の細い路地の奥に薬師堂観音堂が建っている。
 境内には享保3年(1718)造立の道標を兼ねた念仏供養地蔵尊があり、「右江奥州海道」「左江日光海道」と刻まれている。かつては喜沢追分にあった追分道標である。


 観音堂をでて暫く行くと左手に日枝神社社標が立っている。砂利道の参道には樹齢四百年以上のケヤキがある。参道を進むと小さな神社が集まる日枝神社がある。
 創建年代は不詳。大山昨命(オオヤマクイノカミ)を祭神とする日枝神社のほか、境内に野田神社、大国神社なども立つ。社殿の背後には祇園城の出城跡と考えられる土塁がみられる。


 日枝神社をでるとそのすぐ先が喜沢分岐交差点だ。昔は喜沢の追分と呼ばれ、左の壬生道を行くと壬生宿鹿沼宿などを経て、今市宿に抜けた。芭蕉と曽良室の八島(栃木市・大神神社)を詣でるため、ここから壬生道を進んだ。

 喜沢交差点の角には、男體山と大きく刻まれた道標と明治27年(1894)建立の馬頭観世音、日清日露日支出征馬碑がある。この道標は、江戸時代に建てられた喜沢分岐点の道標は、壬生街道を通っての日光行きを恐れた奥州街道沿線の人たちによりたびたび倒される被害に遭ったため、近くの日枝神社に移設されていたが、平成31年、地元有志の手で107年ぶりに元の位置に復元されたものである。「右奥州」「左日光」と表示されている。


 喜沢交差点で国道4号の脇にある細い道(これが旧日光街道)を入り暫く進むと左手の雑木林の中に喜沢の一里塚がある。日本橋より21里目で、西塚が残っている。


 喜沢の一里塚を過ぎ、東北新幹線に沿いしばらくあるき、羽川ふれあい公園の少し先の二股を左の細い道に入り進むと、国道4号に合流する。
 この辺りに日光街道で最小の宿場・新田宿があった。国道4号を少し行った左手に本陣門(四脚門)がある。新田宿本陣(青木本陣)跡だ。

「新田宿」
 江戸・日本橋から数えて13番目の宿場。宿駅の管理は、当初は小山藩、元和5年(1619)以降は宇都宮藩、元和8年(1622)以降は古河藩、貞享2年(1685)以降は幕府が担った。
 天保14年(1843)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が11軒(大2、中4、小5)あった。宿内の家数は59軒、人口は244人であった。

 この先には幕府代官屋敷跡があり、左手奥には、安政4年(1857)建立の雨引観音が安置されている羽川薬師堂がある。


 ここを過ぎると右手に橿原神社(星宮神社)の参道口がある。満開の桜のもと参道を進み参拝する。

「橿原神社(星宮神社)」
 明治5年(1872)に地元の要望で神武天皇を祭神とする橿原神社になった。それ以前は無限の知恵を持つ虚空蔵菩薩を祀る星宮神社であった。
 本殿は明治39年(1906)東北線の蒸気機関車からの飛び火で社殿が焼失したが、大正3年(1914)に再建された。昭和47(1972)年、新幹線が神社境内の東を通過のため西に移転等、大改築工事を行い、屋根は銅板葺きにて、昭和49年(1974)完成し、現在に至っている。

 橿原神社の先、旧日光街道は銅市金属工業の角を左折してすぐ右の細い道に入る。この辺が新田宿の北端である。
 暫く進むと右手に県営羽川住宅があり、この先は通行不可になるので右折し、一旦国道4号に出る。ファミリーマートの角を左折しすぐ右折、旧日光街道に戻る。

 暫く進み、小山用水親水公園を過ぎ二つ目の交差点で、今日の日光街道歩きは終わりとし、右折して小金井駅に向かう。

第13回に続く      



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