大山道を歩く

No.13


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮のお詣りを目指します。

第13回 小金井駅前〜小金井の一里塚〜慈眼寺〜金井神社〜小金井宿本陣跡〜蓮行寺〜石橋愛宕神社〜石橋交差点〜石橋駅

令和3年7月6日   

 新型コロナウィルス感染拡大によりお休みしており、4ヶ月ぶりの街道歩きだ。10:10、JR宇都宮線小金井駅に5名が集合、梅雨の最中だが降らず照らずの天候の下スタート。駅前通りを進み国道4号を超えた先の旧街道を右に折れるとほどなく、旧道の両側、二つの塚がほぼ原形をとどめている小金井の一里塚に着く。

「小金井の一里塚」
 日本橋から22番目の一里塚で、当初の塚は四角形で、東側に松、西側はエノキを植えた。現在はどちらもエノキで、東側はクヌギも混在する。

 小金井の一里塚を過ぎ、下野小金井交差点を超え少し歩くと右手に領主陣屋跡の菅井製菓が見える。

「領主陣屋跡」
 この地を領した下総佐倉藩出張陣屋跡。佐倉藩堀田氏の所領は、下野国内では塩谷郡と都賀郡に分布しており、小金井陣屋は都賀郡の所領支配を行っていたものと言われている。
 小金井の地は、もとは壬生藩領で、元禄9年(1696)に天領となり、宝暦13年(1763)に佐倉藩領、天明7年(1787)に再び天領、寛政11年(1799)には再度佐倉藩領という変遷をたどり、以後は佐倉藩領として幕末を迎えた。

 領主陣屋跡のはす向いに慈眼寺がある。

「慈眼寺」
 建久7年(1196)、関東の豪族新田義兼公により新田一族の祈願所として建立された真言宗の古刹。慶安2年(1649)の徳川家綱の日光社参までは将軍の小休所とされていて、享保13年(1728)の8代将軍吉宗の日光社参以降は昼休所となった。境内には御成御殿が建てられていた。
 広い境内には本堂をはじめ、江戸時代に建てられた観音堂や鐘楼などが整然と並んでいる。本尊は十一面観世音菩薩。

 慈眼寺に隣接して金井神社がある。

「金井神社」
 金井神社は、国土開拓の祖神である磐裂命、根裂命を祀る。往古は金井村字余又の地にあったが、宝暦4年(1754)に現在地に遷座し、小金井宿本陣隣りの鎮守として発展した。社名の金井には、黄金の湧き出づる井戸の意があり、また願いが叶うに通ずる縁起の良さがある。
 覆堂に覆われた本殿は一間社三方入母屋造りという建築様式で、壁面には天保〜嘉永期(1830〜50年代)の制作と推定される壮麗な壁画彫刻がある。

 金井神社のすぐ先左手の屋敷門が小金井宿本陣跡だ。

「小金井宿」
 小金井宿は、江戸から14番目の宿場で、現在の国道4号沿いの小金井駅前交差点の北側に展開しており、南(江戸側)から下町・中町・上町より構成された。天保14年(1843)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が43軒あった。宿内の家数は165軒、人口は767人であった。
 小金井という地名は、近くに小金井と呼ばれた湧水の池があり、「旱魃のときにも枯れることがなかった、池の中から黄金が出てきた」という伝承に由来する。この井から「金井村」という村名が生じ、のちに「小金井村」となった。

 この先の小金井北交差点を右に曲がると突き当りに蓮行寺がある。

「蓮行寺」
 元徳元年(1329)、日秀上人の開基で、一説には日行上人の創建ともいわれる。徳川将軍の日光社参の際には、宇都宮城主がこの寺で控え、迎えるのが例であった。
 境内には、丹頂鶴の像を配した枯山水の庭がある。

 街道に戻り暫く進むと右手に薬師堂がある。

「薬師堂」
 現在は上町公民館となっており、境内には歴代の住僧の墓石と思われる文化4年(1807)の卵塔墓、天保10年(1839)の十九夜塔などがある。
 この薬師堂の本尊は奈良時代の僧である行基の作ともいわれ,現在は慈眼寺が保管してる。

 この先暫く歩くと、左手にガラス張りの下野市役所が見え、その先日産自動車とミニストップの間の路地を入り、最初の十字路を右に曲がる。ここが旧日光街道だ。

 左手に広々とした畑が見えるのどかな道を暫く歩き、突き当りを右に折れ国道4号に戻る。また暫く歩き、日本ニューホランドの先左に入る路地の角に、下石橋一里塚の看板がありこれに従い日本ニューホランドの裏手の雑木林のところに下石橋一里塚の案内板が立っている。下石橋一里塚は日本橋から23番目の一里塚である。


 国道に戻り、下石橋交差点の角、正門脇に巨大字母観音像が立つ丸大食品の前を通り、またしばらく歩く。下石橋北交差点の手前左手に、トタン屋根の下に、宝永7年(1710)と享保3年(1718)造立の地蔵菩薩立像や延享4年(1747)建立の十九夜塔等9体の石仏石塔群が旧道側を向いて祀られている。
 路地を挟んだ側に、宝治2年(1248)創建の下石橋村の総鎮守、星宮神社の社標が立っている。


 国道352号の高架をくぐり、さらに、本町交差点を渡ると左手の石橋愛宕神社に着く。

「石橋愛宕神社」
 天平宝字3年(759)創建と伝わる。石橋宿等13か村の郷社であった。愛宕塚古墳上に鎭座したが東北線複線化工事により大正2年(1913)に稲荷神社境内に遷座。本殿には愛宕神社と稲荷神社を合祀し,境内にある朱色の社は分社と書かれている。朱色の木製祠が昭和62年(1987)に改修したもので,石宮は昔の稲荷神社である。
 昭和48年1973東北新幹線敷設にともない愛宕塚古墳の石棺石下敷座2トンの石と屋根ふた5トンの巨石を境内に運んで保存した。社殿玉垣手前に並んでいる。経緯は女神碑に刻まれている。

 石橋愛宕神社の参道口辺りが石橋宿の江戸口(南口)であった。暫く進み、石橋交差点の手前左手に、石橋本陣跡の石柱が立っている。

「石橋宿」
 石橋宿は、日光街道および奥州街道の15番目の宿駅である。 宿役はこの宿の旧家で元多功城城主多功宗朝に仕え、後にこの地に土着し農民となったと言われる名主伊沢近江守、問屋伊沢出雲守、本陣伊沢越前守の各家が代々交代で勤めた。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、石橋宿には本陣1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が30軒あった。宿内の家数は79軒、人口は414人であった。

 今回の日光街道歩きはこの石橋交差点までとし、右に折れ、石橋駅に向かう。石橋町は、グリム兄弟が生まれ活躍したドイツのヘッセン州にある、シュタインブリュッケン(石橋)村と姉妹都市の関係にあり、それにちなんで駅前のロータリー内にグリム時計台がある。



第14回に続く      



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