大山道を歩く

No.14


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮のお詣りを目指します。

第14回 石橋駅前〜開雲寺〜鞘堂地蔵尊〜星宮神社〜茂原観音道標〜雀宮本陣跡〜雀宮駅

令和3年10月19日   

 新型コロナウィルス感染拡大によりお休みしており、3ヶ月ぶりの街道歩きだ。10:00、JR宇都宮線 石橋駅に5名が集合、曇天の下スタート。駅西口を出て駅前通りを進み、石橋交差点で日光街道(国道4号)を右折すると、その先すぐの右手に開雲寺がある。

「開雲寺」
 開雲寺は天応元年(781)、下野薬師寺戒壇院第五世・恵雲律師によって現在上墓地のある塔ノ下に、中国より請来の薬師如来を御本尊として瑠璃光院東光寺として開山された。
 文亀2年(1502)年、宇都宮左小将成綱朝臣が多功岩見守満朝に命じて、東光寺を現在地に移し、伽藍を再興、澄海上人を講じて阿弥陀如来を御本尊として安置し、円明山開雲寺と改称した。
 江戸時代には徳川将軍家の日光東照宮参拝道中の休泊所となる。慶長9年(1604)に徳川将軍より寺領七石並びに寺中竹木免除の朱印を賜わり、葵紋の使用が許された。
 明治に入り、元年(1868)より、真岡県・日光県等が統合され栃木県となるまでの約4年間、開雲寺に仮庁舎がおかれ、明治9年(1876)、明治天皇の奥羽御巡幸に際しては開雲寺において御休憩された。山門前に「明治天皇御駐輦之處」碑がある。
 境内に徳川三代将軍手植えの槙があったが、現在は、根の部分だけが残りその前に記念碑が建っている。

 開雲寺をでて暫く進むと右手路傍に、石仏石塔群がある。如意輪観音像、十九夜塔、馬頭観音など4基があったが、いずれも風化が進み、新しいものに立て替えられている。


 また暫く歩くと右手に鞘堂地蔵尊がある。

「鞘堂地蔵尊」
 天授6年/康暦2年(1380)小山・宇都宮の戦いで、小山義政が宇都宮基綱を破った。村人が戦死者の鞘を拾い集め、ここに埋葬し御堂を建て石像地蔵を安置した。
 8代将軍・徳川吉宗日光社参の時に境内で休息をしている。明治時代からは「安産地蔵」としても信仰された。

 鞘堂地蔵尊の先左手に星宮神社がある。鞘堂新田村の鎮守。人々の背負う星々(一生)を守護している。境内には多数の石祠がある。


 星宮神社を過ぎ、北関東自動車道高架下を過ぎると間もなく宇都宮市に入る。暫く進み茂原観音入口バス停の先左手に、茂原正観音道の道標が立っている。茂原観音へはここから約1.5kmもあるのでパスすることに。


 左手に陸上自衛隊宇都宮駐屯地を眺めながらひたすら歩き続ける。安塚街道入口交差点を過ぎた左手に正光寺がある。

「正光寺」
 正光寺は江戸中期、正徳年間(1711〜1716)の開山と伝えられる (江戸初期の創建の説もある)。日光街道の雀宮宿における地域の菩提寺として信仰を守って来た。
 本尊は二尺五寸の阿弥陀如来像、境内には牛頭天王社が祀られている。

 正光寺の先、雀宮駅前交差点の手前左手が雀宮宿本陣跡、そしてその筋向い交差点の角に雀宮宿脇本陣跡がある。

「雀宮宿本陣跡・脇本陣跡」
 雀宮宿本陣は小倉半右衛門が勤め、名主、年寄を兼ね建坪は115坪であった。小倉家は宇都宮氏の家臣として二万石を領したが宇都宮氏が没落するとこの地に土着した。
 脇本陣は芦谷家が勤め名主、問屋を兼ね建坪は94坪余であった。明治14年(1881)明治天皇奥州巡幸の際に休息所となった。

「雀宮宿」
 雀宮宿は、日光街道および奥州街道の16番目の宿駅である。日光道中の整備に伴い、雀宮村が開かれ宿駅となった。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、雀宮宿には本陣1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が38軒あった。宿内の家数は72軒、人口は268人であった。
 横町や裏町のない、1本の通りに沿った純粋な街村であった。宿場は南北方向に5町20間(≒581 m)に渡って広がり、北から順に上町、中町、下町に分かれていた。

「雀宮由来」
 百人一首の歌人藤原実方が陸奥守として任地に赴任すると、妻の綾女が夫のもとに向かったが、この地で病死してしまった。夫も任地で死亡したが霊魂が雀となって飛来し、綾女塚の上まで来て息絶えた。里人が憐れみ塚上に綾女神社を祀り供養した。

 今回はこの雀宮駅前交差点までとし、ここを右折し雀宮駅から帰路につく。

第15回に続く      



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