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「開雲寺」
開雲寺は天応元年(781)、下野薬師寺戒壇院第五世・恵雲律師によって現在上墓地のある塔ノ下に、中国より請来の薬師如来を御本尊として瑠璃光院東光寺として開山された。
文亀2年(1502)年、宇都宮左小将成綱朝臣が多功岩見守満朝に命じて、東光寺を現在地に移し、伽藍を再興、澄海上人を講じて阿弥陀如来を御本尊として安置し、円明山開雲寺と改称した。
江戸時代には徳川将軍家の日光東照宮参拝道中の休泊所となる。慶長9年(1604)に徳川将軍より寺領七石並びに寺中竹木免除の朱印を賜わり、葵紋の使用が許された。
明治に入り、元年(1868)より、真岡県・日光県等が統合され栃木県となるまでの約4年間、開雲寺に仮庁舎がおかれ、明治9年(1876)、明治天皇の奥羽御巡幸に際しては開雲寺において御休憩された。山門前に「明治天皇御駐輦之處」碑がある。
境内に徳川三代将軍手植えの槙があったが、現在は、根の部分だけが残りその前に記念碑が建っている。 |
開雲寺をでて暫く進むと右手路傍に、石仏石塔群がある。如意輪観音像、十九夜塔、馬頭観音など4基があったが、いずれも風化が進み、新しいものに立て替えられている。
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また暫く歩くと右手に鞘堂地蔵尊がある。
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「鞘堂地蔵尊」
天授6年/康暦2年(1380)小山・宇都宮の戦いで、小山義政が宇都宮基綱を破った。村人が戦死者の鞘を拾い集め、ここに埋葬し御堂を建て石像地蔵を安置した。
8代将軍・徳川吉宗日光社参の時に境内で休息をしている。明治時代からは「安産地蔵」としても信仰された。 |