「台陽寺」
慶長10年(1605)宇都宮城主奥平家昌により建立された。最初は城内にあったが、家昌の子忠昌が古河に所替えになり、新しい城主の本田正純が城郭を拡張する際にこの地に移転したという。墓所には戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓がある。
その先左手に熱木不動尊がある。
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「熱木(ねぎ)不動尊」
康平2年(1059)初代下野国司宇都宮宗円が奥州征伐に遠征、城山村多気山頂上に陣を張ったとき、戦勝を祈願して不動尊像三体を造成したという内の一体で、世にも得難い不動明王で、願い事叶うという伝説がある。宇都宮城乾の守護仏であった。
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熱木不動尊を過ぎ少し行くと左手に一向寺がある。
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「一向寺」
応永12年(1405)宇都宮氏第12代当主の宇都宮満綱が願主となり造立したとされる銅造阿弥陀如来坐像は「汗かき阿弥陀」と呼ばれ、異常が起こる前に汗をかいて知らせるという。当初は宇都宮氏菩提寺の長楽寺の本尊であった。
一向寺の向かいに学問の神である菅原道真を祀っている天満宮がある。宇都宮城西の守護神であった。
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一向寺の先左手奥には報恩寺がある。
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「報恩寺」
寛永16年(1639)宇都宮藩藩主奥平家昌の正室・仙遊院(本多忠勝の娘)が寄進したといわれる。茅葺の唐門は創建時そのままの状態といわれ、宇都宮市に残る最古の木造建築物と推定される。
境内には戊辰戦役で戦死した薩摩、長州、大垣藩士の「戦死烈士之墓」がある。
報恩寺の先の信号を左に入った奥に光琳寺がある。
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「光琳寺」
応永32年(1425)の創建。慶長10年(1605)に現在地へ。本堂は戊辰戦争で焼け、昭和4年(1929)に再建された。
境内には戊辰戦争で戦った官軍と旧幕府軍の隔たりなく両方の墓がある。
街道に戻り暫く進み、裁判所前交差点を右折し、その先の信号を日光街道は左に折れるのだが今回はここまでとし、JR宇都宮駅へ向かうことにする。
駅への途中左手に大きな鳥居が見えてくる。宇都宮二荒山神社だ。鳥居をくぐり、95段の石段を登ると本殿がある。
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「宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社」
社伝では、仁徳天皇41年(353)に毛野国が下野国と上野国に分けられた際、下野国国造に任じられた奈良別王(ならわけのきみ)が曽祖父・豊城入彦命をこの地域の氏神として祀ったのに始まると伝える。
その後、承和5 年(838)に現在の地、臼ケ峰に遷座されたと伝えられている。現在の社殿は明治10年(1877)に再建されたものである。
一説によれば、この神社が下野国の一宮(いちのみや)であることから「宇都宮」という地名になったともいう。
地元では、当社に参拝すれば下野国にある全ての神社の御利益を受けられるとされ、人々の信仰を集めている。
宇都宮二荒山神社を参拝後、宇都宮名物の餃子を食べて、宇都宮駅へ向かう。
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