大山道を歩く

No.15


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮のお詣りを目指します。

第15回 雀宮駅前〜雀宮神社〜江曽島の一里塚跡〜不動前の不動堂〜蒲生君平勅旌碑台陽寺〜宇都宮二荒山神社〜JR宇都宮駅


令和3年11月29日   

 JR雀宮駅に4名が集合、湘南新宿ラインが安全確認のため遅れが生じ、20分遅れでスタート。その前に、雀宮駅の下りホームに、明治45年(1912)製造の、乗り換えこ線橋の階段下の門柱があり、当時の鉄道建造物の技術伝える貴重な柱というので見てゆく。

 駅西口を出て駅前通りを進み、雀宮駅前交差点で日光街道(国道4号)を右折し、少し進むと右手に、安政5年(1858)建立の馬頭観音と大正11年(1922)建立の生駒神や勝善神が安置されている祠がある。


 そのすぐ先に雀宮神社がある。


「雀宮神社」
 長徳3年(997)八幡太郎義家の創建と伝わる。皇族である御諸別王を祭神としていることから、正徳3年(1713)東山天皇から金文字で「雀宮」と書かれた勅額が下賜され、この額が掲げられていたため、日光社参をする将軍家をはじめとして、諸大名は下馬して参拝したと伝えられる。

 雀宮神社の先、上御田入口バス停の所を左折し一本目を右折する。暫くこの細い道を進む。旧道の痕跡のようだ。浄邦堂の裏を進み突き当りを右に出て4号線に戻る。

 暫く進み左手の陸上自衛隊北宇都宮駐屯地を見ながら進むと左手に、寿鶴(すず)薬師堂がある。堂内には地蔵尊や如意輪観音像等が安置されている。


 その先右手に学問の神・菅原道真を祀る菅原神社がある。この辺りは台新田村立場跡で高札場があった。領内の名主や町年寄はこの神社で宇都宮藩主参勤の送迎を行ったという。


 暫く進むと一里バス停があり、この辺りに江曽島の一里塚があったが、東北線敷設でとりこわされた。江戸から26番目の一里塚で、右の塚には杉、左の塚にはヒノキが植えてあったが今ではバス停と交差点にその名を残しているだけだ。

 また暫く進むと左手に、根方に鳥居と石祠が祀られている大エノキがある。


 その先の西原Y字路を左に進み、JR日光線こ線橋をくぐった先が不動前交差点。そこに不動堂が建っている。堂内には宇都宮朝綱が造立したと伝わる高さ50pほどの不動明王の石像が安置されている。
 傍らの昭和3年(1928)建立の道標には「正面東京ニ至ル 右奥州街道及び日光街道 左裁判所ニ至ル」と刻まれている。


 不動前交差点を斜め左に進み、東武宇都宮線のガードをくぐる。この辺りが宇都宮宿の江戸口(南口)で、木戸、土塁、番所があり、明六つから暮六つまで通行が許された。
 右手に、江戸時代後期の儒学者を顕彰した蒲生君平勅旌碑がある。

「蒲生君平勅旌碑」
 蒲生君平は、高山彦九郎・林子平とともに寛政の三奇人の1人といわれ、明和5年(1768)に宇都宮で生まれた。
 この碑は、蒲生君平の著書や行いが明治維新に大きな功績があったとして、明治天皇の勅命により、藩知事戸田忠友が奉行として、宇都宮の入り口であるこの地建てたものである。内容は「この地が蒲生君平の里である」というもの。

 蒲生君平勅旌碑を過ぎて進むと左手に台陽寺がある。

「台陽寺」
 慶長10年(1605)宇都宮城主奥平家昌により建立された。最初は城内にあったが、家昌の子忠昌が古河に所替えになり、新しい城主の本田正純が城郭を拡張する際にこの地に移転したという。墓所には戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓がある。

 その先左手に熱木不動尊がある。

「熱木(ねぎ)不動尊」
 康平2年(1059)初代下野国司宇都宮宗円が奥州征伐に遠征、城山村多気山頂上に陣を張ったとき、戦勝を祈願して不動尊像三体を造成したという内の一体で、世にも得難い不動明王で、願い事叶うという伝説がある。宇都宮城乾の守護仏であった。

 熱木不動尊を過ぎ少し行くと左手に一向寺がある。

「一向寺」
 応永12年(1405)宇都宮氏第12代当主の宇都宮満綱が願主となり造立したとされる銅造阿弥陀如来坐像は「汗かき阿弥陀」と呼ばれ、異常が起こる前に汗をかいて知らせるという。当初は宇都宮氏菩提寺の長楽寺の本尊であった。

 一向寺の向かいに学問の神である菅原道真を祀っている天満宮がある。宇都宮城西の守護神であった。


 一向寺の先左手奥には報恩寺がある。

「報恩寺」
 寛永16年(1639)宇都宮藩藩主奥平家昌の正室・仙遊院(本多忠勝の娘)が寄進したといわれる。茅葺の唐門は創建時そのままの状態といわれ、宇都宮市に残る最古の木造建築物と推定される。
 境内には戊辰戦役で戦死した薩摩、長州、大垣藩士の「戦死烈士之墓」がある。

 報恩寺の先の信号を左に入った奥に光琳寺がある。

「光琳寺」
 応永32年(1425)の創建。慶長10年(1605)に現在地へ。本堂は戊辰戦争で焼け、昭和4年(1929)に再建された。
 境内には戊辰戦争で戦った官軍と旧幕府軍の隔たりなく両方の墓がある。

 街道に戻り暫く進み、裁判所前交差点を右折し、その先の信号を日光街道は左に折れるのだが今回はここまでとし、JR宇都宮駅へ向かうことにする。

 駅への途中左手に大きな鳥居が見えてくる。宇都宮二荒山神社だ。鳥居をくぐり、95段の石段を登ると本殿がある。

「宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社」
 社伝では、仁徳天皇41年(353)に毛野国が下野国と上野国に分けられた際、下野国国造に任じられた奈良別王(ならわけのきみ)が曽祖父・豊城入彦命をこの地域の氏神として祀ったのに始まると伝える。
 その後、承和5 年(838)に現在の地、臼ケ峰に遷座されたと伝えられている。現在の社殿は明治10年(1877)に再建されたものである。
 一説によれば、この神社が下野国の一宮(いちのみや)であることから「宇都宮」という地名になったともいう。
 地元では、当社に参拝すれば下野国にある全ての神社の御利益を受けられるとされ、人々の信仰を集めている。

 宇都宮二荒山神社を参拝後、宇都宮名物の餃子を食べて、宇都宮駅へ向かう。


第16回に続く      



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