大山道を歩く

No.16


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮のお詣りを目指します。

第16回 宇都宮(伝馬町)〜延命院〜宝勝寺〜桂林寺〜高尾神社〜上戸祭の一里塚〜光明寺〜徳次郎(山王団地入口交差点)

令和3年12月21日   

 10:00、JR宇都宮駅に5名が集合、駅前から前回の終点伝馬町までバスで行く。この交差点が日光街道と奥州街道の追分である。この辺りが上野本陣跡。今は交差点を少し南に入ったところに庭木の大イチョウを残しているだけだ。

「宇都宮宿」
 宇都宮は二荒山神社の門前町として栄え、地名は下野国「一の宮」や奥州攻めの源氏勢が戦勝祈願をした「討つの宮」を地名の由来にしている。その後宇都宮藩の城下町として発展し、主要街道の要衝、そして鬼怒川の舟運によって江戸と結ばれ、日光道中一番の賑わいであった。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宇都宮宿は南北20町(約2.2km)、東西18町58間(約2.1km)の規模で、本陣は2軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が42軒あった。宿内の家数は1219軒、人口は6,457人であった。


 伝馬町交差点から日光街道に入り少し進んだ左手に、修験寺の名残弥勒堂がある。近隣の人々からは「お三夜さん」の名前の方が馴染深い。今でも堂内にはかつての篤い信仰の名残である「二十三夜尊」と墨書した提灯が天井からぶら下がっている。

 この先左手には、天保3年(1832)武州三峰山(火防の神)の分身を祀ったのが始まりという三峰神社がある。

 三峰神社の先、県庁前通り応接し須賀また右に折れた先左手に延命院がある。

「延命院」
 康平6年(1063) 藤原宗円が大仏師定朝作の延命地蔵菩薩立像(源義家の持仏)を比叡山から奉拝して本尊とする天台宗宝錫寺を宇都宮城内に建立。永正元年(1504) 山城国醍醐寺の僧である良範が歴遊し、寺と地蔵堂を建て、宝珠寺延命院とし真言宗に改宗した。
 木造延命地蔵菩薩立像を安置する地蔵堂は享保年間(1716年〜1736年)の建立で市内最古である。
 山門前には「蒲生君平先生少年時代修学の寺」碑がある。

 街道に戻った先左手に宝勝寺がある。

「宝勝寺」
 鎌倉時代に宇都宮七代城主宇都宮景綱が蓮池から阿弥陀如来像を救い出し、草庵を設けたのが起源という。境内には恵心僧都作と伝わる日限(ひぎり)地蔵尊を祀る地蔵堂がある。

 宝勝寺をでた先の交差点を右に入ったところに、四国金毘羅山の分霊を祀っている琴平神社がある。


 琴平神社の左手奥に桂林寺がある。

「桂林寺」
 応永3年(1396)宇都宮家第12代当主宇都宮満綱によって建立された。戊辰戦争(宇都宮城の戦い)の際、旧幕府軍の会津藩が来襲し、当寺に放火して全てが焼き払われたが、その後再建された。
 本堂には右足に体重をかけ、左足を遊ばせた珍しい立ち姿の木造聖観世音菩薩立像が安置されている。
 墓所には蒲生君平や戊辰戦役で戦死した宇都宮藩士の墓がある。

 桂林寺をでてからはしばらく歩く。松原町バス停の手前のY字路のところに、馬の神を祀ったもので、主に関東、東北地方で信仰の対象であったとされる勝善神の碑がある。

 ここからまた更に歩き、栃木県体育館の前を通りすぎ、中戸祭バス停の先左手に柿塚神社がある。境内の神輿庫には「石橋町無形文化財神輿師」作の神輿が保管されている。


 柿塚神社を過ぎ、上戸祭交差点の先左手に、薬師如来を安置している薬師堂がある。堂脇には文政5(1822)年建立の如意輪観音像十九夜供養塔の石仏石塔群がある


 薬師堂の先を左に入ったところに高尾神社がある。

「高尾神社」
 創始年代は不詳。主祭神は高尾神(水神)で、昭和16年(1941)無各社神社、湯殿神社を境内社として合祀。ほかに水神社、八坂神社を祀っている。
 境内の地蔵堂には妙吉安産子育地蔵尊が安置されている。堂裏に直径約12m、高さ3mの妙吉塚と呼ばれるまるい塚があり宝篋印塔が立っている。基礎部の文字から至徳4年(1387)に建立された「妙吉」または「妙言」の塚と推定されるが、詳細は不明である。
 また、境内左手に狛犬が16体保存してある。

 高尾神社を出て、宇都宮環状線を横断すると間もなく街道の両側に桜の古木並木が始まる。


 並木が途切れた先は杉並木へとなり、その中を進むと上戸祭の一里塚がある。日本橋から28番目の一里塚で、街道の右側には「一里塚」と書かれた石柱が、左側の塚には同じ石柱とヒノキが立っている。昭和58年(1983)に修復整備された。


 上戸祭の一里塚を過ぎ暫く進むと左手に光明寺がある。

「光明寺」
 文禄2年(1593年)宥憲法印により創建。静御前の守り仏(薬師如来)を安置することから「桜本薬師」の呼び名もある。
 徳川将軍、日光ご社参の折りは境内にお茶場を設け将軍の休憩所とした。境内にはぼけ封じ観音があり、ぼけ封じ関東三十三観音霊場第二十三番札所にもなっている。
 江戸時代後期から明治までは寺子屋を開き、近在の子供に読み書き、そろばんなどを教えていた。

 光明寺をでて暫く進み、宇都宮北道路高架をくぐり更に進むと東北自動車道高架の手前に高谷林の一里塚がある。江戸日本橋より29番目で、東塚は昭和58年(1983)に補修され塚木は杉、西塚は原形を残し塚木は桜と桧である。


 東北自動車道高架をくぐった先右手に第六接合井がある。

「第六接合井」
 日光市から宇都宮市へ引かれた水道管の水圧を抑えるために建設された6つの接合井のうちの1つで、大正4年(1915)の竣工当時から改築されずに残る唯一の接合井である。接合井の上屋は赤煉瓦と大谷石を組み合わせた西洋の城郭風の建築物で、登録有形文化財に指定されている。

 今回の日光街道歩きは、この先の徳次郎の山王団地入口交差点までとする。


 山王団地入口バス停より宇都宮駅に戻る。

第17回に続く      



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