大山道を歩く

No.17


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮のお詣りを目指します。

第17回 徳次郎(山王団地入口バス停)〜薬師堂〜智賀都神社〜石那田の一里塚〜お願い地蔵〜杉並木寄進碑〜大沢交差点

令和4年4月25日   

 新型コロナウイルス感染拡大に伴い見合わせていた街道歩き、4ヶ月ぶりに再開。10:00、JR宇都宮駅に、5名が集合、バスにて移動。前回の終着、山王団地入口にて下車しスタート。

 山王団地入口交差点の角に大谷道道標が立っている。昔は大谷観音へ行く道が続いていたが、今は廃道になり、道標のみが残っている。


 歩き出して間もなく富屋小学校があり、この辺りが徳次郎宿の江戸口(南口)であった。

「徳次郎宿」
 徳次郎宿は、上、中、下の3宿から成る宿場町で、これらに古道旧日光街道沿いの門前村、田中村、西根村を加え徳次郎六郷と呼ばれていた。
 天保14年(1843)の『日光道中宿村大概帳』によれば、徳次郎宿の本陣は2軒、仮本陣1軒、脇本陣3軒、仮脇本陣1軒が設けられ、旅籠が72軒あり、日光道中最大級規模の宿駅であった。宿内の家数は168軒、人口は653人であった。

 徳次郎の地名の起こりは宝亀9年(778)日光二荒山より智賀都明神を勧請した際、日光山の久次良氏(久次郎氏)の外領ということで、外久次良(外久次郎=とくじら)とされ、宇都宮氏家臣の新田徳次郎がこの地に徳次郎城を築いたことから徳次郎と書くようになったとされる。


 富屋小学校を過ぎ暫く歩くと「お食事処瀬戸内海」が角に立つ信号があり、その向かいに薬師堂がある。

「薬師堂」
 山門は宝暦元年(1751)に、当村の斎藤吉右衛門によって寄進されたものである。当初、徳次郎城跡西側に開山した成就院の山門として建てられたが、寺院の廃寺に伴い当地に移された。
 薬師堂は、江戸時代中期頃に建てられたお堂で、堂内には彩色と彫刻を施した立派な厨子が収められ、その中に薬師如来立像があった。
 境内には六地蔵石憧、如意輪館音像十九夜塔、三面六臂馬頭観音像がが安置されている。

 薬師堂を過ぎ、徳次郎交差点の角に、「神社入口道約五丁田中道」と刻まれている神明宮への道標、田中道道標がある。


 徳次郎交差点を過ぎ少し行った先右手に、中徳次郎宿跡の標識が立っている。そしてその先左手には、見世蔵(小日野屋)が建っている。明治初年頃の創業で、徳次郎を代表する商家として栄えた小日野屋が所有する石蔵で、商店と住宅を兼ねて長い間使用されてきた貴重な建物である。


 暫く進むと右手に二本の大きなケヤキが立っているのが見える。智賀都神社である。

「智賀都神社」
 宝亀9年(778年)に日光二荒山神社を勧請して創建したと伝えられる。奈良時代の宝亀9年(778)に、日光三社権現(二荒山神社祭神)を千勝森に勧請したのが始まりといわれ、徳次郎六か郷(徳次郎町)の鎮守。五穀豊穣、家内安全、無病息災に利益があるとされる。
 鳥居の両脇のケヤキは推定樹齢700年の大木で、「長寿の夫婦ケヤキ」といわれ、栃木県指定天然記念物に指定されている。

 智賀都神社前の交差点を右に入り、その先の十字路を左に折れ、宝木用水(二宮堰)に沿って進む。
 宝木用水(二宮堰)は、田川から水を引き込み、徳次郎と宝木地区を経て、宇都宮に流れる人口の川で、江戸時代末期、二宮尊徳が設計し、弟子の吉良八郎が村人を指導したもの。


 宇都宮市大網町入口碑が建っているところで日光街道に合流し、暫く進むと右手に徳次郎上町屋台庫が建っている。この屋台は、黒漆塗り造り、錺金具付きの彩色彫刻屋台で、江戸時代の文化5年(1808)に建造されたもの。彫工は日光五重塔彫物方棟梁を務めた後藤周治正秀である。
 この辺りが上徳次郎宿跡である。


 暫く進み、船生街道入口交差点の角に、江戸日本橋より30番目の一里塚石那田の一里塚(六本木の一里塚)がある。その先には、昭和26年(1951)と翌年に山桜1800本、楓200本、ツツジ1500本が街道筋に植樹されたのを記念した日光街道植樹記念碑が立っている。


 また暫く進むと右手に「二宮尊徳先生遺跡 石那田堰 100米」と書かれた案内が立っている。ここを右手に入ったところが石那田堰。嘉永5年(1852)に二宮尊徳の指導・監督の下で田川から取水するための堰が設けられた。
 現在の堰は当時のものではないが、西岸に小さな石の祠が立ち、二宮金次郎像と数基の記念碑が立っている。


 街道に戻り、角にある「宇都宮で一番濃厚なミートソース」とうたっているイタリアンレストラン「日光スパ屋」で昼食を摂る。

 この先右手に、日光市から宇都宮市へ引かれた水道管の水圧を抑えるために建設された6つの接合井のうちの1つ、第五節合弁の建屋がある。
 その先の鎌倉街道入口交差点の手前右手の石段の上に石祠や神道系の馬頭観音である馬力神が祀られている。


 暫く進むと左手に石那田八坂神社御仮屋がある。石那田八坂神社天王祭の折、本殿からご神体が遷座する「お旅所」で、還幸の際はここから八坂神社へ向かう。

「石那田八坂神社」
 明暦元年(1655)、疫病を鎮めるため京都の八坂神社から勧請した。享保8年(1723)に再び疫病がはやり、石造りの本殿を新築して病気平癒を祈った。石那田村の鎮守である。
 七月の天王祭は厄病除けの牛頭天王祭りで、猿田彦(天狗)を先頭に神輿、彫刻屋台が本殿から1km離れた御仮屋から本殿へと練り歩く。

 本殿には行かず、そのまま街道を進むと右手に金勢様という小さな祠がある。祠内に「男石」が安置されている。傍らには「金勢大明神」と刻まれた文化7年(1810)建立の石灯篭や嘉永5年(1852)建立の「道陸人」と呼ばれる道祖神がある。

 その先左手に三基の石塔がある。中央が青面金剛像庚申塔である。


 ここからはまた暫く歩く。松本バス停の先左手にお願い地蔵がある。

「お願い地蔵」
 享保15年(1730)の造立。地蔵尊に自分の患部と同じところに赤い布をつけるとご利益がある。地蔵尊前には三個の丸石があり、願をかけて内一個を持ち上げて、軽ければ願いが叶うというところから占い地蔵とも呼ばれる。

 お願い地蔵に願をかけた後歩を進め、上小池のバス停を過ぎると右手に、石造りの不動尊をご神体とする新渡神社がある。


 この先左手に、首の欠けた地蔵尊と如意輪観音像十九夜塔がある。そして、その先民家の入り口に馬力神が祀られている。


 ここで、宇都宮市から日光市に入る。右手に第四接合弁の建屋を見ながら進む。


 山口交差点の先、Y字路を右に進むと杉並木になり、途中に杉並木寄進碑がある。


 杉並木を抜け大沢交差点に出て、今回のゴールとする。

 大沢交差点からバスにて下今市駅へ出て、東武日光線にて帰路につく。

第18回に続く      



                      日光街道を歩く 目次 

inserted by FC2 system