中森友のバス停の手前右手に、来迎寺がある。永正14年(1517)の創建という浄土宗のお寺で今市宿の如来寺の末寺。参道には享保21年(1736)、安永2年(1773)建立などの四基の如意輪観音十九夜塔が並んでいる。
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この先、中森友バス停の手前右手に、寛政9年(1797)の建立で男體山と刻まれている常夜燈がある。男体山は山岳信仰の聖地で日光二荒山神社の奥宮が祀られている。 |
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森友交差点を渡った先のY字路を右に3度目の杉並木に入る。暫く進むと右手に老杉が10本ほど並んでいる。森友の旧鎮守森跡といわれ、日光杉並木植栽以前の並木といわれる。
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また暫く進むと左手に桜杉がある。杉根元から1.5m上の割れ目に桜の種が入って芽をふき、杉の体内を通って地面に根をおろしたものである。異種の2本の木が共存する大変珍しいものである。
その先に江戸日本橋より33里目の七本桜の一里塚がある。北塚の大杉の根元に大人4人が入れる程のスペースがある広い空洞があることから並木ホテルと呼ばれている。塚は特別史跡、杉は特別天然記念物に指定されている。
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この先右手の第一接合弁の建屋を見て進み、東武日光線のガードをくぐり暫く進み、小倉町交差点の手前で国道119号に合流し、その先で例幣使街道が合流する。その角に追分地蔵尊が鎮座する。
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「例幣使街道」
京都から日光東照宮へ幣帛を奉納する勅使が通った道。元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されたが、その後正保3年(1646)からは、毎年京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされた。
その勅使が通る道を例幣使街道と呼んだ。 例幣使は京都から中山道を下り、倉賀野(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木を経て日光に至った。
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「追分地蔵尊」
日光街道と例幣使街道の追分に安置されたことから追分地蔵尊と呼ばれ、古くから地元信仰の対象として崇められている。製作年代は不明だが室町時代と思われ、吉宗の日光社参時にはこの地に祀られていた記録もある。
伝説では、江戸時代初期、ある石工が大谷川原に埋まった石にノミを打ち込んだところ、石から血がにじみ出て、掘り起こしてみると、大きな地蔵で、これを村人達が運んで行くと、追分の所で動かなくなったので、そこに安置することにしたという。
今回は小倉町交差点までとし、ここを右折し東武日光線下今市駅から帰京する。
おまけ 下今市駅
SL大樹が土・日曜を中心に下今市駅から鬼怒川温泉駅まで運行されている。下今市駅には機関庫があり、運航日以外でもその雄姿がみられる。
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