大山道を歩く

No.18


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮のお詣りを目指します。

第18回 大沢交差点〜王子神社〜日光杉並木〜大沢(水無)の一里塚〜並木ホテル(七本桜一里塚)〜下今市駅

令和4年5月23日   

 10:00、JR宇都宮駅に4名が集合、バスにて移動。前回の終着、大沢宿のあった下大沢にて下車しスタート。

「大沢宿」
 もともと大沢村と呼ばれていたが、元和3年(1617)に徳川家康の日光鎮座に伴って宿駅となり大沢宿となった。
 元和年間には大沢御殿が建造され徳川将軍家の日光参詣に際し宿泊所として使用されたが享保年間までに処分され、享保13年(1728)以降、将軍社参時等の休息所には沿道にあった龍蔵寺が用いられた。
 天保14年(1843)の『日光道中宿村大概帳』によれば、大沢宿の本陣は1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が41軒あり、宿内の家数は43軒、人口は278人であった。
 宿並は度重なる大火に見舞われ、歴史ある建物を焼失している。

 歩き始めて間もなく、歩道橋の手前右側の細い路地を入っていくと王子神社がある。王子神社は正治2年(1200)源頼朝をまつって建てられた。大沢宿の鎮守で境内には元禄12年(1699)建立の御神燈や樹齢約200年、樹高35.5mの大いちょうがある。


 王子神社から更に道なりに進むと上り坂になり、竹林を抜けると龍蔵寺に着く。龍蔵寺は明治に現在地に移転する前は、大沢小学校の場所にあった。4代将軍・徳川家綱以降の日光社参では大沢御殿に代わって将軍の休憩所になった。
 本堂前に六尺藤の藤棚があり春には紫色の雨が降ったような絶景が広がるというのだが、残念ながら終わってしまっていた。

 来た道を戻り街道を北に進む。大沢郵便局の先から日光街道杉並木が始まる。徳川家の家臣・松平正綱、正信の親子2代が20数年を費やして植えた杉並木である。日光街道例幣使街道会津西街道を合わせて約5万本を植樹したという。植樹開始当時の杉は樹齢390余年になる。


 杉並木保護のため車両は通行禁止なので、杉並木の中央をゆっくり歩くことができる。右手に小さな社が現れる。八坂神社だ。境内には文政5年(1822)建立の御神燈があり、鳥居前には二本の杉の根元が癒着した二又杉の切株がある。


 杉並木の中を暫く進むと右手に第三接合弁の建屋が見える。日光道中沿いに六ケ所残っている接合弁のうち唯一機能している。

 その先に江戸日本橋より32里目の両塚を残している水無の一里塚がある。水無という地名は諸説あり、一説では名主の家に梨の木があり、水分の多い甘い実をつけたので「水梨」と呼ばれ、それが「水無」に転じたという。


 水無の一里塚を過ぎていったん国道119号に出るが、その角に延命地蔵尊を祀る水無の地蔵堂がある。境内には六地蔵石幢、十九夜塔、享保15年(1730)建立の念仏供養塔等がある。


 国道119号を暫く行った右手に山伏千手院跡がある。日光山の「里山伏」として東照宮渡御祭の行列に供をした。如意輪観音像十九夜塔や男女双体道祖神等がある。その少し先左手に大正4年(1915)建立の馬頭観音がある。


 国道119号から再び杉並木に入るとすぐ先右手に枝ぶりが大きく樹形樹相を備えた大杉、森友並木太郎がある。地上から10mのところにクロモジが寄生している。
 暫く杉並木を進み、右手に第二接合弁の建屋を見て進み、下森友交差点の手前で国道119号に合流する。


 中森友のバス停の手前右手に、来迎寺がある。永正14年(1517)の創建という浄土宗のお寺で今市宿の如来寺の末寺。参道には享保21年(1736)、安永2年(1773)建立などの四基の如意輪観音十九夜塔が並んでいる。


 この先、中森友バス停の手前右手に、寛政9年(1797)の建立で男體山と刻まれている常夜燈がある。男体山は山岳信仰の聖地で日光二荒山神社の奥宮が祀られている。


 森友交差点を渡った先のY字路を右に3度目の杉並木に入る。暫く進むと右手に老杉が10本ほど並んでいる。森友の旧鎮守森跡といわれ、日光杉並木植栽以前の並木といわれる。


 また暫く進むと左手に桜杉がある。杉根元から1.5m上の割れ目に桜の種が入って芽をふき、杉の体内を通って地面に根をおろしたものである。異種の2本の木が共存する大変珍しいものである。

 その先に江戸日本橋より33里目の七本桜の一里塚がある。北塚の大杉の根元に大人4人が入れる程のスペースがある広い空洞があることから並木ホテルと呼ばれている。塚は特別史跡、杉は特別天然記念物に指定されている。


 この先右手の第一接合弁の建屋を見て進み、東武日光線のガードをくぐり暫く進み、小倉町交差点の手前で国道119号に合流し、その先で例幣使街道が合流する。その角に追分地蔵尊が鎮座する。

「例幣使街道」
 京都から日光東照宮へ幣帛を奉納する勅使が通った道。元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されたが、その後正保3年(1646)からは、毎年京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされた。
 その勅使が通る道を例幣使街道と呼んだ。 例幣使は京都から中山道を下り、倉賀野(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木を経て日光に至った。

「追分地蔵尊」
 日光街道例幣使街道の追分に安置されたことから追分地蔵尊と呼ばれ、古くから地元信仰の対象として崇められている。製作年代は不明だが室町時代と思われ、吉宗の日光社参時にはこの地に祀られていた記録もある。
 伝説では、江戸時代初期、ある石工が大谷川原に埋まった石にノミを打ち込んだところ、石から血がにじみ出て、掘り起こしてみると、大きな地蔵で、これを村人達が運んで行くと、追分の所で動かなくなったので、そこに安置することにしたという。

 今回は小倉町交差点までとし、ここを右折し東武日光線下今市駅から帰京する。


 おまけ 下今市駅

 SL大樹が土・日曜を中心に下今市駅から鬼怒川温泉駅まで運行されている。下今市駅には機関庫があり、運航日以外でもその雄姿がみられる。


第19回に続く      



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