「瀧尾神社」
天応2年(782)勝道上人が日光二荒山上男体山に二荒山大神を祀ると同時にこれを祀り創建された。
今市の総鎮守で今市宿の市神が移設されている。社宝は山岡鉄舟書の大幟と正宗の太刀。
石の鳥居をくぐると小さな橋(叶願橋)があり、渡る前後に願い事を5回ずつ唱えると叶うという。
社前には今市宿の北木戸があった。
瀧尾神社をでて国道119号沿いの杉並木に入る。右手に杉並木公園が続く。杉並木の保護と、地域の文化継承のために整備された公園で、江戸時代に朝鮮通信使が宿泊した客館はここにあった。
朝鮮通信使は12回来日し、うち3度日光を訪問しており、うち2回は東照宮と大猷院で朝鮮式の参拝を行い、国王の進物を贈っている。朝鮮通信使今市客館跡碑がある。
旧今市市は杉線香の生産日本一を誇り、かつては杉線香生産の動力として水車が利用されていたことから、園内に水車が設置されている。
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公園から杉並木に戻り少し進むと右手に尾神社がある。瀬川村の総鎮守で、境内には嘉永7年(1854)建立の石灯篭や寒念仏供養塔等がある。 |
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暫く進むと瀬川の一里塚があるが、杉並木からはわかりずらい。国道側に標柱があるというのだが...江戸日本橋から34里目の一里塚だ。
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この先を右手に入ったところに移築された古民家がある。天保元年(1830)築の世襲名主「江連家」住宅と慶応元年(1865)二宮尊徳の日光神領農村復興に伴って建築された報徳仕法農家が移築されている。
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この先左手に大日如来堂があり、その向かいには七本杉跡がある。七本の杉の根幹が癒着し、一株になった杉だったが、老朽化により伐採され、切株だけが残されている。
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暫く杉並木の中を進むと右手に砲弾打込杉の標識版が立っている。この付近は明治戊辰の役に官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃した際、前哨戦を行った所である。この杉の幹の凹んでいる所が砲弾が当たって破裂した跡であるという。
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また暫く杉並木の中を進むと右手に野口薬師堂がある。本堂前に置かれた梵鐘が有名。語り伝えでは、明和5年(1768)に村人が石で作った梵鐘を地元の山王権現に奉納しようとしたが、鐘が重すぎて龍頭が壊れてしまい、そのまま放置されているという。
また境内には子孫繁栄を願う道祖神も見られる。
ここからまた更に歩き、国道に合流した先左手に、寛政3年(1791)建立の日光型常夜灯が立っており、「生岡山王」と刻まれている。
暫く進むと生岡神社社標が立っている。その先に、杉並木の中で一番大きく美しいといわれる杉・並木太郎があるのだが、見逃してしまい、左手の「明治天皇七里御小休所」跡まで来てしまった。
明治天皇は明治9年(1876)の東北巡幸で、日光を訪れ、中禅寺湖まで足を伸ばされた。当時の道は石段も多く、ここで馬車から馬に乗り換えられた。往復とも御小休されている。
この先左手に、日光山の神が宇都宮に還る際、大蛇となって大谷川を渡った。そして、この岩の上で、尾を空中に建てたという伝説がある尾立岩が見えるのだが、ここもまた見逃してしまった。
宝殿交差点を過ぎ、JR日光線のガードをくぐり進む。相生町交差点の角に「史跡日光杉並木街道及並木寄進碑」と「特別史跡特別天然記念物日光杉並木街道」碑が立っている。
今回の日光街道歩きは、この相生町交差点までとし、ここを右折し日光駅の前を通り、東武日光駅前で昼食後解散。
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