大山道を歩く

No.19


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮のお詣りを目指します。

第19回 東武日光線下今市駅〜報徳二宮神社〜如来寺〜瀧尾神社〜瀬川の一里塚〜野口薬師堂〜並木太郎〜相生町交差点〜JR日光駅

令和4年6月13日   

 9:30、東武日光線下今市駅に6名が集合、駅前から小倉町交差点に出て日光街道を右折、二つ目の角を右に折れると突き当りが報徳二宮神社だ。

「報徳二宮神社」
 学問と経営の神様二宮尊徳(金次郎)を祀る神社。
 尊徳命は働きながら勉学に励み、没落した家の再興をきっかけに、報徳仕法という独自のやり方で多くの藩の財政再建、農村復興を次々と成功させた。
 晩年、老中水野忠邦によって幕臣に登用され、農民から武士となった金次郎は日光神領の復興に尽力し、この地で死去している。
 境内には尊徳翁の御遺体すべてがおさめられた県史跡の二宮尊徳の墓や遺品を収蔵した宝物館がある。

 報徳二宮神社を出てすぐ右に進むと如来寺がある。

「如来寺」
 如来寺は、室町時代中期(文明年間)に、茨城瓜連の常福寺第四世超誉上人の高弟 暁誉最勝により創建された古刹。江戸時代には東照宮御造営の際、徳川第三代将軍家光が宿泊するために壮大な御殿が境内に建てられた。
 また、安政3年(1856)には、報徳仕法の祖であり、日光市(旧今市市)の 農村を復興した二宮尊徳翁死去の際、如来寺にて葬儀が行われた。
 境内には、木造地蔵菩薩立像(車止め地蔵)、暁誉上人の五輪塔などの他、下野四番札所や今市宿七福神弁財天などがある。

 如来寺を出て街道に戻ったところが高橋本陣跡で、天保14年(1843)に焼失してしまい、今は鹿沼相互信金が建っている。


「今市宿」
 今市宿は、日光街道の20番目の宿駅である。もと今村と呼ばれていたが宿駅となって住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから今市宿となったと云われ、日光街道のほか、日光例幣使街道(壬生道)会津西街道日光北街道などが集まる交通の要衝に立地する宿駅であった。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、今市宿の本陣は1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が21軒あり、宿内の家数は236軒、人口は1,122人であった。

 少し進むと右手に「(旧)会津西街道相之道通り」の道標が立っている。浄泉寺と玄樹院の間に会津古道があり「間の道」と呼ばれ、転訛して「相の道」となった。会津までは28里ある。

 向かいに今市市道路元標がある。


 春日町交差点を過ぎると右手に「今市宿市縁ひろば」がある。脇本陣跡で、「明治天皇御小休之蹟」碑がある。


 今市宿市縁ひろばの少し先右手に浄泉寺がある。

「浄泉寺」
 元亀3年 (1572)草創の寺で、住時日光上泉村(今の北和泉・野口の境あたり)にあり、寺名を上泉寺と称したが、慶長年中今市宿上町に遷し 如来寺の末寺として建立、浄泉寺に改めたといわれる。
 本尊薬師如来は慈覚大師一刀三礼の御作と伝えられ御丈2尺余、 日光月光12神像は運慶の作と記され、通称薬師さまで通っている。
 境内北側には、子供が夜泣きするとき蕎麦をあげて祈願すると治るという「そば喰稲荷」と呼ばれる沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり)がある。

 浄泉寺をでた先の交差点のところに、瀧尾神社がある。

「瀧尾神社」
 天応2年(782)勝道上人が日光二荒山上男体山に二荒山大神を祀ると同時にこれを祀り創建された。
 今市の総鎮守で今市宿の市神が移設されている。社宝は山岡鉄舟書の大幟と正宗の太刀。
 石の鳥居をくぐると小さな橋(叶願橋)があり、渡る前後に願い事を5回ずつ唱えると叶うという。
 社前には今市宿の北木戸があった。

 瀧尾神社をでて国道119号沿いの杉並木に入る。右手に杉並木公園が続く。杉並木の保護と、地域の文化継承のために整備された公園で、江戸時代に朝鮮通信使が宿泊した客館はここにあった。

 朝鮮通信使は12回来日し、うち3度日光を訪問しており、うち2回は東照宮大猷院で朝鮮式の参拝を行い、国王の進物を贈っている。朝鮮通信使今市客館跡碑がある。
 旧今市市は杉線香の生産日本一を誇り、かつては杉線香生産の動力として水車が利用されていたことから、園内に水車が設置されている。


 公園から杉並木に戻り少し進むと右手に尾神社がある。瀬川村の総鎮守で、境内には嘉永7年(1854)建立の石灯篭や寒念仏供養塔等がある。


 暫く進むと瀬川の一里塚があるが、杉並木からはわかりずらい。国道側に標柱があるというのだが...江戸日本橋から34里目の一里塚だ。


 この先を右手に入ったところに移築された古民家がある。天保元年(1830)築の世襲名主「江連家」住宅と慶応元年(1865)二宮尊徳の日光神領農村復興に伴って建築された報徳仕法農家が移築されている。


 この先左手に大日如来堂があり、その向かいには七本杉跡がある。七本の杉の根幹が癒着し、一株になった杉だったが、老朽化により伐採され、切株だけが残されている。


 暫く杉並木の中を進むと右手に砲弾打込杉の標識版が立っている。この付近は明治戊辰の役に官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃した際、前哨戦を行った所である。この杉の幹の凹んでいる所が砲弾が当たって破裂した跡であるという。


 また暫く杉並木の中を進むと右手に野口薬師堂がある。本堂前に置かれた梵鐘が有名。語り伝えでは、明和5年(1768)に村人が石で作った梵鐘を地元の山王権現に奉納しようとしたが、鐘が重すぎて龍頭が壊れてしまい、そのまま放置されているという。
 また境内には子孫繁栄を願う道祖神も見られる。


 ここからまた更に歩き、国道に合流した先左手に、寛政3年(1791)建立の日光型常夜灯が立っており、「生岡山王」と刻まれている。


 暫く進むと生岡神社社標が立っている。その先に、杉並木の中で一番大きく美しいといわれる杉・並木太郎があるのだが、見逃してしまい、左手の「明治天皇七里御小休所」跡まで来てしまった。


 明治天皇は明治9年(1876)の東北巡幸で、日光を訪れ、中禅寺湖まで足を伸ばされた。当時の道は石段も多く、ここで馬車から馬に乗り換えられた。往復とも御小休されている。

 この先左手に、日光山の神が宇都宮に還る際、大蛇となって大谷川を渡った。そして、この岩の上で、尾を空中に建てたという伝説がある尾立岩が見えるのだが、ここもまた見逃してしまった。

 宝殿交差点を過ぎ、JR日光線のガードをくぐり進む。相生町交差点の角に「史跡日光杉並木街道及並木寄進碑」「特別史跡特別天然記念物日光杉並木街道」碑が立っている。


 今回の日光街道歩きは、この相生町交差点までとし、ここを右折し日光駅の前を通り、東武日光駅前で昼食後解散。


第20回に続く      



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