新政府軍の総督・板垣退助は明治元年(1868)戊辰戦争の時、徳川家康の廟所に籠った大鳥圭介等の旧政府軍を説得し、日光山内を兵火から守ったという。
天海は比叡山で天台宗の奥義を極めた後、徳川家に仕え、日光山の貫主となる。当時の日光は、豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極にあった。家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移して、東照宮の創建に尽くした日光山中興の恩人である。
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「日光山内の玄関口・神橋」
奈良時代の末に勝道上人が日光山を開く際、大谷川の急流に行く手を阻まれ神仏に加護を求めたところ、深沙王(じんじゃおう)が現れ2匹の蛇を放ち、その背から山菅(やますげ)が生えて橋になったという伝説を持つ神聖な橋。別名、山菅橋や山菅の蛇橋とも呼ばれている。
寛永13年(1636)の東照宮の大造替時、現在のような朱塗りの橋が架橋された。将軍社参、勅使、例幣使等の参詣のみに使用され、一般は下流の日光橋を通行する。
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日光橋を渡る。渡り詰が日光街道の終点だ。ついに完歩!
この後は世界遺産にもなっている日光山内の寺社の参詣へ。最初は日光山輪王寺へ。
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「日光山輪王寺」
天平神護2年(766)に日光を開山した勝道上人の創建による四本竜寺を起源とし、日光山や奥日光に立つ堂塔の中心寺院として発展してきた。
総本堂の三仏堂は日光山随一、東日本では最も大きな木造の建物で、平安時代に創建された、全国でも数少ない天台密教形式のお堂。現在の建物は、正保2年(1645)、徳川三代将軍家光公によって建て替えられた。
三仏堂の内陣には、日光三所権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)という三体の大仏さま(高さ7.5メートル)と、東照三所権現本地仏(薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)という掛仏の、2組の三尊仏がご本尊として祀られている。
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次いで日光東照宮へ。
「日光東照宮」
元和3年(1617)、二代将軍・徳川秀忠公により東照社(現・日光東照宮)が建立され、初代将軍・徳川家康公の御霊が久能山東照宮から遷座された。江戸城の真北にあり、北方の守りを固める重要な場所に位置している。
現在の主な社殿群は、三代将軍・家光公が行った「寛永の大造替」の際に立て替えらた。境内には国宝8棟、重要文化財34棟を含む計54棟の建造物が建ち並ぶ。これらの社殿群は平成11年(1999)に世界遺産に登録された。
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陽明門 創建は日光東照宮と同じ元和3年(1617)で、建築様式は三間一戸の楼門で、屋根の作りは銅瓦葺という銅製の屋根瓦で葺かれている。横幅は7m、高さは11m、奥行きは4mの大きさ。
徳川家康の遺言を受けた二代将軍徳川秀忠の発願で、南光坊天海の総指揮の下、大棟梁を中井政清、彫刻を甲良宗弘、絵画・色彩を狩野探幽が担当した。
現在の陽明門は、徳川家康の21回忌に向けて寛永13年(1636)に三代将軍徳川家光が行った寛永の大造替えで建て替えられたもので、更に平成25年(2013)7月から平成29年(2017)3月にかけて行われた平成の大修理を経て、創建当時の極彩色が施された美しい姿が回復された。
いつまで見ていても見飽きないところから日暮の門ともよばれている。
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唐門 東照宮でもっとも重要な御本社の正門。御本社と同じ寛永13年(1636)の築で、屋根の吹き替え以外は往時のままである。
全体が貝殻が原材料の塗料、胡粉(ごふん)で白く塗られ、「許由と巣父」や「舜帝朝見の儀」など、陽明門を超える611もの彫刻が施されている。
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三猿 ご神馬をつなぐ厩・神厩舎の長押上には猿の彫刻が8面あり、人間の一生が風刺されている。中でも「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が有名。 |
眠り猫 家康公が眠る奥社に通じる、東回廊の門の上に据えられた猫の木彫像。左甚五郎作と伝えられて、牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたたねをしているところから日光に因んで彫られたとも言われている。 |
次いで日光二荒山神社へ
「日光二荒山神社」
1200年以上前、日光開山の祖・勝道上人が二荒山(現・男体山)に登拝し、本宮(現・本宮神社)を建立したのが始まりとされ、古来より修験道の霊場として崇敬された。
江戸時代になり幕府によって日光東照宮等が造営されると二荒山神社も重要視され、現在の世界遺産・重要文化財指定の主な社殿が造営された。
境内は、華厳の滝、いろは坂、日光連山を含む3400haに及び、男体山山頂に奥宮、中禅寺湖畔に中宮詞、山内に本社がある。
主神の大己貴命は別名を大国主命(大黒様)といい福の神、縁結びの神として知られている。
二荒山の由来はいくつかあるが、観音菩薩が降臨する補陀落山が二荒に転化したものとされる。さらにこれを空海がにこうと読んで日光の字を当てて地名になったという。
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次いで、日光廟大猷院へ
「日光廟大猷院」
大猷院とは徳川三代将軍家光公の廟所で、祖父である家康を心から深く尊敬していた家光の、死後も家康に仕えるという遺言により、4代将軍家綱によって建造された。家康公(東照宮)を凌いではならないという遺言により、金と黒を使用し重厚で落ち着いた造りになっている。
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日光廟大猷院を参った後、西参道を下ったところで、昼食を兼ね日光街道完歩を記念してささやかな打ち上げをする。
西参道茶屋バス停よりバスにて東武日光駅へ出て帰路につく。
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