大山道を歩く

No.20


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮のお詣りを目指します。

第20回 JR日光駅〜相生町交差点〜龍蔵寺・稲荷神社・西行戻り石〜入江本陣跡〜鉢石〜神橋+日光東照宮、日光山輪王寺、大猷院、日光二荒山神社参拝〜東武日光駅

令和4年7月4日   

 日光街道歩きも最終回を迎え、10:20、JR日光駅に7名が集合、終点の日光橋に向けスタート。
 JR日光駅前に立つ、共和2年(1802)男体山、出羽三山の講中が建立した日光型常夜灯を見て、前回終着の相生町交差点にでて右折し日光街道に入る。ここから終点の日光山内入口まで緩やかな上り坂を歩いていく。

 東武日光駅への入り口のところが木戸門跡で、木戸と番所があり参詣人を取り調べた。また、ここには高札場があった。
この辺りから日光街道最後の宿場である鉢石宿が始まっていた。


「鉢石宿」
 もともと鉢石村という村落があったが、元和3年(1617年)に徳川家康を日光山に祀り日光参詣が盛んとなると日光東照宮の門前町として大いに栄えた。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、鉢石宿の本陣は2軒設けられ、旅籠が19軒、宿内の家数は223軒、人口は985人であった。
 当時、入江本陣は御幸町、高野本陣は中鉢石町にあり、参詣者は本陣に投宿して東照宮を参詣した。

 暫く進み、市役所日光庁舎の手前を右に入ると龍蔵寺がある。

「龍蔵寺」
 建保元年(1213)源頼朝の忠臣畠山重忠の子重慶が庵を建てたのがこの寺の始まりと云われている。鎌倉幕府に謀反を企てたと誤解され首を斬られた重慶を弔うために寺が建てられた。
 本堂右手に重慶阿闇梨塔と彫った墓碑がある。また傍らに、戊辰戦争で戦死した芸州藩士墓がある。

 龍蔵寺の裏に、稲荷町の鎮守である稲荷神社があり、境内に西行戻り石がある。

「西行戻り石」
 平安時代末期の歌人・西行法師は東大寺再建の基金集めで旅した奥州平泉からの帰りに僧たちの知恵を試そうとした。日光権現がこのことを知ると小僧に姿を変えてこの石に乗り、西行が「どこへ行く」と尋ねると「冬萌(ほ)きて夏枯草を刈りに行く」と歌で答えたという小僧に驚いて、日光山に入らず引き返したとう伝説がある。

 街道に戻り御幸町の信号を過ぎると左手に日光市郷土センターがあり、その向かいに「手打生蕎麦 魚要」があり、ここが入江本陣「御宮御菓子屋本陣兼帯」跡で、入江家が勤め家伝の蒸菓子、麩和餅は日光御宮御用達であった。

 その先の綿半は創業天明7年(1787)練羊羹の老舗で、日光山輪王寺御用で寺紋章鎹山を掲げている。また、その先のふじやは名物日光湯葉の老舗で、ここも日光山輪王寺御用で寺紋章鎹山を掲げている。


 その先、ゆば料理のさん・フィールドの隣にある敷地が高野本陣の入り口で、その奥に往時の土蔵と日光山本坊納戸役を勤めた高野通文が江戸末期に建碑した芭蕉句碑があるというが未確認である。


 その先、日本生命の脇を入った路地に地表から高さ40cmほど隆起した石がある。鉢石(はついし)といい、日光山を開いた勝道上人が托鉢の途中、大谷川岸辺のこの石に座って日光山を仰いだと伝わる。「鉢を伏せたような形状」が名の起こりで、地名の由来にもなっている。


 街道に戻ると左手に、観音寺の入り口があり上っていく。

「観音寺」
 創建は弘仁11年(820)、空海が自ら彫った千手観音像を祀ったのが始まりとされる。中世には6つの支坊(宝珠院・円長坊・真乗坊・守蔵坊・安養坊・宝蔵坊)を擁する真言密教の道場だったが、戦国末期に衰退。寛永4年(1627)に天海大僧正から鉢石山無量寿院観音寺の三号を賜り天台宗に改宗した。
 山門をくぐる手前に、六地蔵が並んで訪れる人を迎えてくれる。その右手に観世音道という石段がある。観音寺の裏手にある龍崖山に続く道で、石仏に導かれながら登ると観音堂が現れる。案内板によるとここが観音寺の発祥の地という。

 観音寺をでると間もなく神橋が見えてくる。その手前左手に、板垣退助の銅像が、右手には天海大僧正の銅像が立っている。


 新政府軍の総督・板垣退助は明治元年(1868)戊辰戦争の時、徳川家康の廟所に籠った大鳥圭介等の旧政府軍を説得し、日光山内を兵火から守ったという。

 天海は比叡山で天台宗の奥義を極めた後、徳川家に仕え、日光山の貫主となる。当時の日光は、豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極にあった。家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移して、東照宮の創建に尽くした日光山中興の恩人である。

「日光山内の玄関口・神橋」
 奈良時代の末に勝道上人が日光山を開く際、大谷川の急流に行く手を阻まれ神仏に加護を求めたところ、深沙王(じんじゃおう)が現れ2匹の蛇を放ち、その背から山菅(やますげ)が生えて橋になったという伝説を持つ神聖な橋。別名、山菅橋や山菅の蛇橋とも呼ばれている。
 寛永13年(1636)の東照宮の大造替時、現在のような朱塗りの橋が架橋された。将軍社参、勅使、例幣使等の参詣のみに使用され、一般は下流の日光橋を通行する。


 日光橋を渡る。渡り詰が日光街道の終点だ。ついに完歩!

 この後は世界遺産にもなっている日光山内の寺社の参詣へ。最初は日光山輪王寺へ。


「日光山輪王寺」
 天平神護2年(766)に日光を開山した勝道上人の創建による四本竜寺を起源とし、日光山や奥日光に立つ堂塔の中心寺院として発展してきた。
 総本堂の三仏堂は日光山随一、東日本では最も大きな木造の建物で、平安時代に創建された、全国でも数少ない天台密教形式のお堂。現在の建物は、正保2年(1645)、徳川三代将軍家光公によって建て替えられた。
 三仏堂の内陣には、日光三所権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)という三体の大仏さま(高さ7.5メートル)と、東照三所権現本地仏(薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)という掛仏の、2組の三尊仏がご本尊として祀られている。


 次いで日光東照宮へ。

「日光東照宮」
 元和3年(1617)、二代将軍・徳川秀忠公により東照社(現・日光東照宮)が建立され、初代将軍・徳川家康公の御霊が久能山東照宮から遷座された。江戸城の真北にあり、北方の守りを固める重要な場所に位置している。
 現在の主な社殿群は、三代将軍・家光公が行った「寛永の大造替」の際に立て替えらた。境内には国宝8棟、重要文化財34棟を含む計54棟の建造物が建ち並ぶ。これらの社殿群は平成11年(1999)に世界遺産に登録された。

陽明門  創建は日光東照宮と同じ元和3年(1617)で、建築様式は三間一戸の楼門で、屋根の作りは銅瓦葺という銅製の屋根瓦で葺かれている。横幅は7m、高さは11m、奥行きは4mの大きさ。
 徳川家康の遺言を受けた二代将軍徳川秀忠の発願で、南光坊天海の総指揮の下、大棟梁を中井政清、彫刻を甲良宗弘、絵画・色彩を狩野探幽が担当した。
 現在の陽明門は、徳川家康の21回忌に向けて寛永13年(1636)に三代将軍徳川家光が行った寛永の大造替えで建て替えられたもので、更に平成25年(2013)7月から平成29年(2017)3月にかけて行われた平成の大修理を経て、創建当時の極彩色が施された美しい姿が回復された。
 いつまで見ていても見飽きないところから日暮の門ともよばれている。
唐門  東照宮でもっとも重要な御本社の正門。御本社と同じ寛永13年(1636)の築で、屋根の吹き替え以外は往時のままである。
 全体が貝殻が原材料の塗料、胡粉(ごふん)で白く塗られ、「許由と巣父」や「舜帝朝見の儀」など、陽明門を超える611もの彫刻が施されている。
三猿  ご神馬をつなぐ厩・神厩舎の長押上には猿の彫刻が8面あり、人間の一生が風刺されている。中でも「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が有名。 眠り猫  家康公が眠る奥社に通じる、東回廊の門の上に据えられた猫の木彫像。左甚五郎作と伝えられて、牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたたねをしているところから日光に因んで彫られたとも言われている。

 次いで日光二荒山神社

「日光二荒山神社」
 1200年以上前、日光開山の祖・勝道上人二荒山(現・男体山)に登拝し、本宮(現・本宮神社)を建立したのが始まりとされ、古来より修験道の霊場として崇敬された。
 江戸時代になり幕府によって日光東照宮等が造営されると二荒山神社も重要視され、現在の世界遺産・重要文化財指定の主な社殿が造営された。
 境内は、華厳の滝いろは坂日光連山を含む3400haに及び、男体山山頂に奥宮、中禅寺湖畔に中宮詞山内に本社がある。
 主神の大己貴命は別名を大国主命(大黒様)といい福の神、縁結びの神として知られている。
 二荒山の由来はいくつかあるが、観音菩薩が降臨する補陀落山が二荒に転化したものとされる。さらにこれを空海にこうと読んで日光の字を当てて地名になったという。


 次いで、日光廟大猷院

「日光廟大猷院」
 大猷院とは徳川三代将軍家光公の廟所で、祖父である家康を心から深く尊敬していた家光の、死後も家康に仕えるという遺言により、4代将軍家綱によって建造された。家康公(東照宮)を凌いではならないという遺言により、金と黒を使用し重厚で落ち着いた造りになっている。


 日光廟大猷院を参った後、西参道を下ったところで、昼食を兼ね日光街道完歩を記念してささやかな打ち上げをする。

 西参道茶屋バス停よりバスにて東武日光駅へ出て帰路につく。

おわり        



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