大山道を歩く

No.5


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮をお詣りを目指します。

第5回 春日部駅前〜春日部八幡神社〜小淵の一里塚跡〜小淵山観音院〜九品寺〜馬頭院観音寺〜三本木の一里塚跡〜関口酒造〜来迎院〜杉戸宿高札場〜東武動物公園駅

令和元年6月18日   

 10:00、東武スカイツリーライン・春日部駅前に、7名が集合。梅雨も中休みか、晴天の下スタート。駅東口を出て駅前通りを進み、公園橋(西)交差点を左折し、日光街道に入る。
 間もなく、慶長年間(1596〜1615)創業で19代続く米穀問屋永嶋庄兵衛がある。屋根には魔除けの鍾馗様が飾られている。


 新町橋(西)交差点の先突き当りに最勝院がある。

「最勝院」
 真言宗智山派寺院の最勝院は、慶安元年(1649)将軍家より寺領15石の朱印状を拝領した御朱印寺で、近郷に末寺を擁した小本寺で、春日部を代表する名刹である。
 三代将軍家光の遺骸が日光東照宮に運ばれる際に立ち寄り亡骸が仮安置されたという。
 境内には春日部の地名に由来となった春日部重行の墓とされる塚や青面金剛庚申塔等の石仏がある。

 最勝院の隣には、粕壁宿の宿役人で、窮民救済に尽力するなど粕壁宿の発展に貢献した見川喜蔵の墓がある成就院がある。



 ここで、日光街道から外れるが、春日部駅の西側にある、春日部の総鎮守である春日部八幡神社に寄る。

「春日部八幡神社」
 春日部八幡神社は、創建年度は不詳ではあるが、元弘年間(1331年から1334年)に、新田義貞の武将、春日部治部少輔時賢(春日部重行)鶴岡八幡宮から勧請したと伝えられている。
 昔は、新方四十余郷の総鎮守で代々領主の守護神社てあり、現在は春日部の総鎮守となっている。
 参道入り口には平安時代の歌人・在原業平が奥州を旅した時にこの辺りで詠んだ都鳥の歌の記念碑が立っている。

   新町橋(西)交差点まで戻る。交差点角に、戦前まで米穀商を営んでいた浜島家の、明治時代前期築の土蔵が残っている。そして、その向かいには高札場跡の標柱が立っている。


 上流に上喜蔵河岸があった大落古利根川に架かる新町橋を渡り、その先の信号を左折する。暫らく進むと右手に日本橋から9番目の一里塚である小淵の一里塚跡の碑がある。傍らに天保3年(1832)建立の庚申塔がある。


 少し進み、国道4号に合流する手前、関宿往還追分道標が立っている。大きい道標が宝暦4年(1754)建立で「青面金剛、左日光道」の文字があり、小さい道標は宝永6年(1709)建立で「左方あうしふ道、右方せきやと道」と刻まれている。


 国道4号に合流し、小淵交差点を過ぎ少し行った先左手に小淵山観音院がある。

「小淵山観音院」
 正嘉2年(1258)に創建した本山修験宗・聖護院門跡の末寺で、修験道の道場や観音信仰の中心地として栄えた。
 本尊は聖観音菩薩で、いぼ取り観音としてご利益があるとされ各地より多くの参拝者が訪れている。
 本堂脇には、修験道の開祖・役の行者を祀るお堂が立っている。
 元禄2年(1689)建立と伝えられる仁王門は、三間一戸楼門形式と言い、向って右に「阿形」左は「吽形」の金剛力士像が安置されており、現在春日部市唯一の仁王門として文化財に指定されている。
 「奥の細道」紀行の芭蕉は、当寺に宿泊したとも言われ、境内に、「毛のいへば唇さむし秋の風」の句碑がある。

 小淵小入口の交差点の先左手に、北緯36度モニュメントがある。


 暫らく国道4号に沿って歩き、本郷交差点を過ぎ、堤根(南)歩道橋の手前を斜め左に進むと間もなく左手に九品寺がある。
 境内街道沿いに、天明4年に、堤根村(杉戸町)の農民42人が協力し新川村(春日部市)の石工に造らせた道標を兼ねた庚申塔「左日光」「右江戸」がある。
 また、寺の向かいには、籠をかつぐ人、荷物を運ぶ人、馬、旅人が休む高野家が営む立場茶屋があった。


 九品寺を出た少し先左手の大六天を祀っている小社を見て暫らく進む。


 堤根(南)交差点で再び国道4号と合流した少し先を右に入ったところに馬頭院観音寺がある。

「馬頭院観音寺」
 創建年代は寛永年間の類焼等により不明だが、中興開山は宥盛和尚(慶安2年(1649)入寂)と伝えられる。本尊の馬頭観世音菩薩像は、伝教大師の作と伝えられており、脇仏には、延命地蔵及び不動明王が三体ある。
 境内には緑泥片岩に阿弥陀如来の種子を刻んだ文永7年(1270)建立の板石塔婆や元文5年(1740)建立の青面金剛像庚申塔等の石仏がある。
 明治6年(1873)には新知学校が設置され、後に堤郷尋常小学校となり、明治35年(1902)に移転されるまで永く馬頭院が使われた。

 馬頭院観音寺を出て、少し先を右手に入ったところに、鹿島神宮からの勧請で、武神であることから武家の崇敬が篤かった鹿島神社がある。

 この先、堤根交差点で国道4号と分かれ、斜め左に入りしばらく進むと、右手の民家の生垣の中に、江戸日本橋より十里目の三本木の一里塚の案内板がある。


 更に進み、杉戸町役場を過ぎ、清地二丁目交差点を渡ると右手に、創業文政5年(1822)銘酒「杉戸宿」の蔵元である関口酒造(旧屋号豊嶋屋)がある。
 祖先には今川義元の養女になり、徳川家康の正室にもなった築山御前がいる。一族は桶狭間の戦いの後、現在の町東端鷲巣に移り住んだという。
 初代がこの地で創業を選んだのは、古利根川の恵みと、村名清地を 「清き地」 と捉えたことが考えられるという。明治時代、明治天皇の東北巡幸では、当家の井戸を御前水として飲まれたという。


 関口酒造の脇の道を入った左手に鎌倉時代に開かれた真言宗智山派の来迎院がある。本尊の不動明王像奥州藤原氏の守護仏で、運慶作と伝わる。
 孝行娘が失明した母親のために21日間祈願すると視力が回復したという伝説から眼病に御利益があると信じられている。


 街道に戻り少し行った右手に復元された杉戸宿高札場がある。もとは関宿道との分岐にあったが、現在は民家が立つため、ここに復元された。天保14年(1843)の「日光道中宿村大概帳」に基づきほゞ原寸大で復元されたものである。


 高札場の先右手奥に近津神社がある。

「近津神社」
 近津神社は、貞亨元年(1684)の創建で清地村の鎮守。見事な彫刻が施された社殿は平成13年(2001)放火により焼失したが、平成19年(2007)に再建され、鎮守の森も整備された。
 元治元年(1864)に地元の石工 石塚元吉と倅の又吉によって造られた狛犬は、他に類をみない特異な姿勢であり、見返り狛犬と呼ばれている。
 参道脇には小さな富士塚も見られる。

 近津神社を出て少し進んだ左手奥に東福寺がある。


「東福寺」
 創立年代は不詳である。 寛正2年(1461)火災により焼失し、一色某が再建したが、天文22年(1554)再び火災にあったため、一色直勝が本堂を新築したと伝えられ、元和元年(1615)上杉戸の地から現在地に移したと伝えられている。
 新編武蔵風土記稿によれば、元和9年(1623)僧栄慎が草創し、文化11年(1814)僧祐教の法流が相続したと言われる。
 明治初期に起こった自由民権運動では杉戸の活動拠点となり、明治22年(1889)市制及町村制が施行されると、一時、町役場が置かれた。

 東福寺
から街道に戻りしばらく進むと、本陣跡地前交差点に出る。この手前右手に、明治天皇が明治9年(1876)の東北巡幸の際休憩されたという、明治天皇御小休所趾の石碑が立っている。ここは、杉戸宿問屋場跡である。

 この交差点は、本陣跡地前といい、この付近が杉戸宿の中心であった。

「杉戸宿」
 杉戸宿は、江戸(日本橋)から5番目の奥州街道、日光街道の宿場町でで、元和2(1616)年に人馬継立を命じられ、成立したと言われている。
 当初は上・中・下町のみであったと考えられ、その後、河原組・新町が宿に組み入れられた。
 天保14(1843)年の「宿村大概帳」には、杉戸宿の長さ16町55間、道幅5間、家数365軒、人数1663人、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋46軒(大4軒、中7軒、小35軒)とある。

 今回の日光街道歩きはここまでとし、交差点を左折し、東武動物公園駅に出て解散。

第6回に続く      



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