大山道を歩く

No.6


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮をお詣りを目指します。

第6回 東武動物公園駅前〜杉戸宿本陣跡〜宝性院〜大島稲荷神社(恭倹舎)〜茨島の一里塚跡〜神宮寺〜神明神社〜幸手駅

令和元年9月30日   

 10:00、東武動物公園駅前に、6名が集合、晴天の下、東口から歩き始め、本陣跡地前交差点を左折し日光街道に入ると間もなく右手に、本陣門が残る長瀬本陣跡がある。

 杉戸宿は、江戸(日本橋)から5番目の奥州街道日光街道の宿場町である。
 天保14(1843)年の「宿村大概帳」には、杉戸宿の長さ16町55間、道幅5間、家数365軒、人数1663人、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋46軒(大4軒、中7軒、小35軒)とある。

 長瀬本陣跡の先右手に、渡辺金物店跡の案内板が立つ古民家があり、更にその先左手には、米穀問屋であったことから「角穀」と呼ばれた小島定右衛門邸がある。


 角穀のすぐ先左手に、宿場の発展に貢献した古刹「宝性院」がある。


「宝性院」
 開基は、永禄3年(1560)に幸手城主一色義直公が安産と子供の成長を願い、安産不動明王を安置されたことに始まる。
 元和2年(1616)には、杉戸宿本陣の庇護を受けて、本尊大日如来を祀った本堂などの伽藍が整備された。嘉永2年(1849)に再建された不動堂には、武田信玄の子孫・武田信之の揮毫による扁額がある。
 境内には、文化7年(1810)建立の「日光道中」と刻まれた日光街道で最大級という馬頭観音の石像などがある。山門脇には、延宝8年(1680)建立の青面金剛像庚申塔や享保10年(1725)建立の笠付青面金剛像庚申塔がある。
 また、明治期には一時、郡役所や小学校(杉戸学校)が置かれていた。

 宝性院の先右手の豪邸は、渡辺勘左衛門邸。江戸時代からの大地主で、質屋業も営み、明治時代には杉戸銀行を設立している。


  杉戸宿と別れ、国道4号と合流し暫らく歩く。右手駐車場の一角には八幡神社、そしてその先左手に厳島神社を見ながら進む。


 暫らく歩き、大島交差点を右に折れた先左手に大島稲荷神社(恭倹舎)がある。

「大島稲荷神社(恭倹舎)」
 江戸時代の心学者、大島有隣は大島村(現大字大島)で生まれた。29歳のとき、同村の関口保宣とともに江戸に行き、関東心学会の最高峰中沢道二に弟子入り、参前舎に入門。その後、天明5年(1785)に郷里に戻り、保宣、名主藤城吉右衛門と発起して恭倹舎(心学普及のための施設)を創建、当地方の心学の普及に当った。
 この「恭倹舎」は、昭和6年有隣塚と合わせ、大島有隣遺跡として県の指定史跡となっている。
 敷地内の稲荷神社は、戦国時代末期に有隣の祖大島右京亮がこの地に土着した際に鎮守社としたものである。

 恭倹舎を出て日光街道に戻り、少し行った先左手の「山田うどん」の駐車場に茨島一里塚跡の案内板だけがある。江戸から11番目の茨島一里塚は、杉戸宿幸手宿との中間に位置し、塚の上には榎が植えられてあった。

 国道4号を暫らく歩き、上高野小入口交差点で国道4号と別れ左手の道を進む。東武日光線の踏切を越えた先右手、幸手市南公民館の前に上高野村道路元標がある。元は日光御成道との合流点にある橋のたもとに建てられていたもの。道路元標とは市町村の道路の起点となるもので、この地点から他の地点への距離を測定したもの。


 圏央道の下をくぐり暫らく進むと、日光道中・日光御成道合流点に着く。川口・鳩ヶ谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は、家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行した。


 突き当りの合流点を右折した先右手に、太子堂が建っている。明治11年(1878)、この太子堂を仮校舎として「上高野学校」が開校した。上高野小学校は明治6年(1873)八坂神社(現上高野神社)梅林寺栄明宅において創立した。


 太子堂を過ぎると左手奥に神宮寺がある。

「神宮寺」
 源頼朝 が奥州征伐の折に、この地で鷹狩りをし、戦勝を薬師様に祈って開基したとも伝えられ、この故事から鷹尾山誓願院の名がつけられたといわれている。
 戦国時代の天文年間(1532)の兵火に遭い焼失、その後、元亀2年(1571)に武蔵国足立郡鴻巣の勝願寺の不残上人が中興した。その当時は、村名までも神宮寺村と呼ばれていた。
 薬師如来像と脇の十二神将ともに立派な彫刻で春日賢門作といわれている。

 神宮寺をでて、再び東武日光線の踏切を渡り暫らく進み、幸手宿の江戸口(南口)である倉松川に架かる志手橋を渡って幸手宿に入る。

「幸手宿」
 江戸時代に整備された宿駅であり日光街道・奥州街道の江戸・日本橋から6番目、そして日光御成道の6番目の宿場町である。
 幸手宿は、南から右馬之助町、久喜町、仲町、荒宿の4ヶ町より構成されており、天保14年(1843)の「日光道中宿村大概帳」によると、幸手宿の長さ585間(9町45間)、道幅6間、家数962軒、人数3,937人、本陣1軒、旅籠27軒とあり、城下町に併設された宿を除くと、千住宿、越ヶ谷宿に次ぐ日光道3番目の規模を誇った。

 志手橋を渡ったその先右手に神明神社がある。

「神明神社」
 神明神社は宝暦5年(1755)に伊勢皇大神宮の分霊を祀った神社であり、明治6年(1873)4月より旧幸手町の村社の一つとなっていた。
 境内には成田・菅谷両不動尊があり、菅谷不動尊は「たにし不動尊」ともいわれている。眼病の人が、たにしを描いた絵馬を奉納して祈願すれば御利益があるといわれている。

 神明神社の先、幸手駅入口交差点の手前左手に、「明治大帝行在所跡」の記念碑説明板が移設・保存されている。
 明治天皇は明治9年(1876)の奥州巡幸の際、14年(1881)山形・秋田・北海道巡幸の際に幸手を通られ、元本陣の知久家、元名主であった中村家に宿泊している。


 この向かいには、醤油製造業を営んだ岸本家の母屋を改造した民家カフェがある。


 今回の日光街道歩きはこの幸手駅入口交差点までとし、交差点を左折し街道を外れ、幸手駅に向かう。途中左手に、一色稲荷神社がある。一色稲荷神社は、古河公方足利氏の家臣一色氏が守り神として祀られた氏神であると伝えられている。一色氏はこの辺りに城を構えたようで、陣屋稲荷の別名を持っている。


 一色稲荷神社の前を通り、幸手駅前の居酒屋で昼食後解散。

第7回に続く      



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