ここからまた国道下の道を歩き、東北新幹線の高架をくぐり進むと正面に栗橋大一劇場が見え、劇場の左へと進むとすぐ右手に川通神社がある。
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「川通神社」
創建は、備中国高松城主秋庭直政の孫の秋庭大膳亮宗光が慶長8年(1603)当地に移り、上伊草村の香取神社を勧請したことによると伝える。従来、香取神社と称していたが、大正3年、大字小右衛門下組で祀る八幡神社と香取神社を合祀し、川通神社に改称した。(鳥居には香取宮八幡宮と刻まれている)
境内には文化11年(1814)建立の常夜灯がある。往時はここから信州浅間山が望めたという。
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また、暫らく歩くと木柱道標のある分岐の右手に、会津見送り稲荷がある。
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「会津見送り稲荷」
江戸時代、会津藩主の参勤交代による江戸参向に先立ち、藩士が江戸へ書面を届けるための先遣隊が、地水のために通行できず困っていると白髪の老人が現われ、道案内をしてくれた。そのお陰で、藩士は無事に江戸へ着いた。後日、この老人は狐の化身と分かり、稲荷様として祀ったとされており、狐に乗る茶吉尼天を祭神とした珍しい稲荷社である。 |
木柱道標のある分岐を斜め左に入り歩いて行く。この道沿いにはいくつもの木柱道標が立てられている。
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道標の先右手には炮烙地蔵がある。
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「炮烙地蔵」
江戸時代に関所破りをした者等の処刑場に、供養のために建立されたと伝えられている。地蔵菩薩像は宝永7年(1710)に建立された石仏である。
また、エボ地蔵とも言われ、あげた線香の灰をエボ(イボ)につけると治る、といい伝えられている。 |
炮烙地蔵の少し先右手に顕正寺がある。浄土真宗の寺で、慶長19年(1614)に下総国古河領から移転したと伝わる。墓地には栗橋宿を創設し、本陣を勤めた池田鴨之助と代々の墓がある。
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顕正寺の向かいは浄信寺がある。栗橋宿の名主・梅澤太郎右衛門が中興した浄土宗の寺。梅澤は2代将軍、徳川秀忠が日光社参する際、流出しかかった船橋を命がけで守り、褒美とともに名字、帯刀を許された。 |
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今回の日光街道歩きは、この先の東三丁目交差点までとし、交差点を左折し、街道を外れ、栗橋駅に向かう。 |