大山道を歩く

No.7


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮をお詣りを目指します。

第7回 幸手駅前〜本陣知久家跡〜聖福寺〜正福寺〜小右衛門の一里塚〜会津見送り稲荷〜炮烙地蔵〜東三丁目交差点〜栗橋駅

令和元年11月4日   

 10:15、幸手駅前に、5名が集合、晴天の下、東口から歩き始め、幸手駅入口交差点を左折し日光街道に入る。

 幸手宿は、江戸時代に整備された宿駅であり日光街道・奥州街道の江戸・日本橋から6番目、そして日光御成道の6番目の宿場町である。
 幸手宿は、南から右馬之助町、久喜町、仲町、荒宿の4ヶ町より構成されており、天保14年(1843)の「日光道中宿村大概帳」によると、幸手宿の長さ585間(9町45間)、道幅6間、家数962軒、人数3,937人、本陣1軒、旅籠27軒とあり、城下町に併設された宿を除くと、千住宿、越ヶ谷宿に次ぐ日光道3番目の規模を誇った。

 日光街道に入ると間もなく左手に、文政2年(1819)の創業で、板垣退助伊藤博文等が宿泊したという「旅館あさよろず」がある。


 その先には、壁面に松尾芭蕉河合曽良のイラストが描かれている、明治36年創業の酒類および食品の卸売販売の永文商店がある。


 そしてそのすぐ先左手に幸手宿本陣知久家跡がある。知久家の初代帯刀(たてわき)は幸手宿の創設に尽力し、代々問屋と名主を兼ねていた。現在は「うなぎ義語家」となっている。


  その向かいが、幸手宿問屋場跡である。ここでは荷物運搬用の人足25人、馬25頭の常駐が義務付けられていた。


 暫らく歩くと左手に、「日光御廻り道」入口の道標が立っている。日光御廻り道は、権現堂川の氾濫に備えた日光社参道の迂回路で、安政年間(1772〜1781)頃に設定されたと考えられ、現在の久喜市鷲宮と加須市川口を経て、栗橋宿に抜けた。将軍の社参時に水害は起こらず、一度も使用されなかった。


 荒宿交差点の先すぐ左手奥に聖福寺がある。

「聖福寺」
 聖福寺は、浄土宗知恩院の末寺として応永年間(1394〜1428年)に開山したと伝えられており、本尊は阿弥陀如来で観音像は運慶作と伝えられている。
 徳川三代将軍家光が日光社参の折、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを初めとし、天皇の例弊使や歴代の将軍が18回にわたり休憩した。
 将軍の間、例弊使の間、菊の紋章の入った勅使門があり、左甚五郎作と伝えられる彫刻も保存されている。
 勅使門は江戸時代に日光東照宮に参拝する江戸幕府の徳川将軍や日光例幣使が通る時以外に門の扉は開けなかったといわれている。

 聖福寺を出て街道を進むと道路正面に正福寺が見える。

「正福寺」
 正福寺は真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王である。
 境内には、県指定史跡の「義賑窮餓の碑」がある。天明3年(1783)に浅間山が大噴火したため関東一円に灰が降り、冷害も重なって大飢饉となった。この時、幸手町の有志21名が金品を出し合って、難民の救援に当った。この善行が時の関東郡代伊那忠尊の知る所となり、顕彰碑を建てさせたという。
 また、境内に権現堂河岸との追分にあった寛政12年(1800)建立の馬頭観世音道標「右ごんげんどうがし 左日光道中」が移設されている。

 正福寺を出て暫らく歩き、国道4号と合流する内国府間(うちごま)交差点を過ぎると右手に埼玉県随一の桜名所、権現堂堤が見えてくる。(残念ながら今は枯れ枝だ)
 中川に架かる行幸橋の手前、権現堂堤に、「明治天皇権現堂堤御野立所」碑がある。権現堂堤は江戸を洪水から守るために寛永18年(1641)に築堤された。明治8年(1875)新権現堂堤が完成し同9年明治天皇奥州巡幸の際、ここに立ち寄ったところから「行幸堤」と呼ばれるようになった。


 行幸橋を渡るとすぐ左折し、一本目を右折し暫らく歩くと筑波道追分道標がある。安政4年(1775)の建立で、「左日光道」「右つくば道」「東川つま道 まいはやし道」と刻まれている。
 「川つま」は現在の茨城県五霞村字川妻、「まいはやし」は茨城県総和町前林のことで、筑波へ行く道順。


ここを左の日光道を進む。暫らく進むと雷電神社の鳥居が見えてくる。雷電社・湯殿社合殿だ。

「雷電社・湯殿社合殿」
 創建時期は不明だが、口碑によると雷電社が元から現在地にあったのに対して、湯殿社は通称を「権現様」といい、外国府間の村の中でも一番の耕地である宮下に鎮座していたが、権現堂川の近くで洪水に襲われることが多かったため、雷電社のそばにに遷座したという。明治5年に村社となり、この時に両社が合殿になったと思われる。
 境内には馬頭観音、青面金剛像庚申塔、弘化2年(1845)建立の如意輪観音像十九夜塔等がある。

 雷電神社の鳥居の前から国道の下道を暫らく進む。左手に真言宗豊山派の真光寺がある。ここに、明治6年(1873)栗橋南小学校の前身となった愛敬学校・聲門学校が開校された。



 真光寺の隣に、小右衛門の一里塚がある。幸手宿と栗橋宿の中間の小右衛門村(現久喜市小右衛門)にあり、江戸の日本橋より13里目に当たる。現在、塚の上には、字堤外(現・権現堂川)から移築されたという弁財天堂が建てられており、塚の高さは西側から約2メートル、約9メートル四方の遺構は、塚の形態と当初の広さを残し、当時の姿を偲ぶことができる。


 ここからまた国道下の道を歩き、東北新幹線の高架をくぐり進むと正面に栗橋大一劇場が見え、劇場の左へと進むとすぐ右手に川通神社がある。

「川通神社」
 創建は、備中国高松城主秋庭直政の孫の秋庭大膳亮宗光が慶長8年(1603)当地に移り、上伊草村の香取神社を勧請したことによると伝える。従来、香取神社と称していたが、大正3年、大字小右衛門下組で祀る八幡神社と香取神社を合祀し、川通神社に改称した。(鳥居には香取宮八幡宮と刻まれている)
 境内には文化11年(1814)建立の常夜灯がある。往時はここから信州浅間山が望めたという。

 また、暫らく歩くと木柱道標のある分岐の右手に、会津見送り稲荷がある。

「会津見送り稲荷」
 江戸時代、会津藩主の参勤交代による江戸参向に先立ち、藩士が江戸へ書面を届けるための先遣隊が、地水のために通行できず困っていると白髪の老人が現われ、道案内をしてくれた。そのお陰で、藩士は無事に江戸へ着いた。後日、この老人は狐の化身と分かり、稲荷様として祀ったとされており、狐に乗る茶吉尼天を祭神とした珍しい稲荷社である。

 木柱道標のある分岐を斜め左に入り歩いて行く。この道沿いにはいくつもの木柱道標が立てられている。


 道標の先右手には炮烙地蔵がある。

「炮烙地蔵」
 江戸時代に関所破りをした者等の処刑場に、供養のために建立されたと伝えられている。地蔵菩薩像は宝永7年(1710)に建立された石仏である。
 また、エボ地蔵とも言われ、あげた線香の灰をエボ(イボ)につけると治る、といい伝えられている。

 炮烙地蔵の少し先右手に顕正寺がある。浄土真宗の寺で、慶長19年(1614)に下総国古河領から移転したと伝わる。墓地には栗橋宿を創設し、本陣を勤めた池田鴨之助と代々の墓がある。


 顕正寺の向かいは浄信寺がある。栗橋宿の名主・梅澤太郎右衛門が中興した浄土宗の寺。梅澤は2代将軍、徳川秀忠が日光社参する際、流出しかかった船橋を命がけで守り、褒美とともに名字、帯刀を許された。


 今回の日光街道歩きは、この先の東三丁目交差点までとし、交差点を左折し、街道を外れ、栗橋駅に向かう。

 栗橋駅の近くに静御前の墓があるので寄ってみる。源義経の内妻であった静御前が、義経の後を追って平泉に向かう途中、この地で悲恋の死を遂げたと言われ、その亡骸は侍女の琴柱がこの地にあった高柳寺に埋葬したと伝わる。墓の上には杉が植えられたが墓石はなく、享和3年(1803)に関東郡代の中川忠英が建立した。

静女塚碑(静御前悲話)
 明治20年にこの地の村人が舞姫として、また人間として静女のことを後世に伝えたいと思い、撰文を岡千仞氏に依頼し建立されたもの。この碑には義経を慕い、この地で逝った静女の逸話が記録されている。

坐泉の歌碑
 江戸時代の歌人、坐泉がこの墓にきて静御前の亡きあとを思い
   「舞ふ蝶の 果てや 夢見る 塚のかげ」
と元禄のころ歌ったもので、それを村人が文化3年3月(1806)に石碑として建てたもの。

 栗橋駅前の居酒屋で昼食後解散。

第8回に続く      



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