大山道を歩く

No.8


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮をお詣りを目指します。

第8回 栗橋駅前〜栗橋八坂神社〜中田宿跡〜鶴峰八幡宮〜中田の松原〜古河の一里塚〜長谷観音〜古河歴史博物館〜古河駅

令和2年2月3日   

 雨天等のため、3ヶ月ぶりの日光街道歩き、10:00、JR宇都宮線 栗橋駅に、5名が集合、晴天の下スタート。駅東口を出て駅前通りを暫く進み、東三丁目交差点を左折し、日光街道に入る。

 ここ栗橋宿は、江戸時代に整備された奥州街道・日光街道の江戸・日本橋から数えて7番目の宿場町である。栗橋宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿を合わせて一宿とする記述も有る。
 栗橋宿は利根川の舟運で栄え、近郷から集積された廻米の積み出しが行われた。この地は関東平野北辺に位置し、関所が置かれ厳重に警備された。
 利根川対岸の中田宿とは合宿で問屋業務は半月交代で勤めた。
 天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると栗橋宿の宿内家数は404軒、うち本陣1、旅籠25軒で宿内人口は1,741人であった。

 日光街道に入り暫く進むと、栗橋駅入口交差点の少し先右手の土手下に、栗橋関所址の碑がある。日光道中唯一の関所で、利根川岸にあり、河川の関所は対岸の地名を冠するため、栗橋関所の正式名は「房川渡中田御関所」といい、明治2年(1869)まで続き、入鉄砲、出女を厳しく取り締まっていた。。


 また少し歩き、八坂神社前信号の左手に栗橋宿の総鎮守である栗橋八坂神社がある。

栗橋八坂神社
 栗橋八坂神社の正確な創建は不詳。元栗橋村(現在の茨城県五霞町)の鎮守として祀られていたが、慶長年間(1596〜1615)、利根川の大洪水のさいに、鯉と亀に囲まれた元栗橋村の神輿(みこし)が流れ着いたことから、現在の場所に、元栗橋村の八坂神社を遷座させたと伝えられている。
 そのため、狛犬ならぬ狛鯉が社殿を守っている。狛鯉も阿吽があり、口を開いた鯉は招福、口を閉じた鯉は除災を意味している。
 現在の本殿は江戸中期・寛保2年(1742年)復興。

 八坂神社をでて、利根川の堤防上に上がり、利根川橋南詰信号を左折し利根川橋を渡り埼玉県から茨城県に入る。


  利根川橋を渡りきったところを左に折れるとその先に、房川渡中田関所跡の解説板がある。関所は当初中田にあったが後に対岸の栗橋に移転した。

房川(ぼうせん)の渡し
 江戸時代、利根川は防衛上の理由から架橋が許されず、船で行き来をしていた。しかし、将軍の日光社参になると、多くの人や物資が通行することになり、臨時の橋が架けられた。その方法は、川幅いっぱいに高瀬舟を並べ、頑丈な虎綱で川岸から固定し、次に船の上に板と砂を敷いて橋とした「船橋」である。

 この先、利根川堤交差点の角に中田宿の解説板がある。

中田宿
 「房川の渡し」を控え、元和10年(1624)に創設された宿で、対岸の栗橋宿とは合宿で問屋業務は半月交代で勤めた。
 天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると中田宿の宿内家数は69軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠6軒で宿内人口は403人であった。

 この先左手に、将軍も立ち寄り旅の安全を祈願した鶴峰八幡宮がある。

鶴峰八幡宮
 治承四年(1180)九月源頼朝が奥羽征伐の折此の地に立寄り軍利守護を祈願したところ、武運が開け御神徳を感じその宿願により、養和元年(1181)、相模国鶴岡八幡宮の分霊を上伊坂(現今の田中)に勧請したのが始まりという。
 後、天福2年(1234)下総国一の宮である香取神宮もまつって、八幡と香取の相殿にしたといい、中世には栗橋方面にまで勢力をもった有力な神社であった。
 境内に、日光街道 旅の神 の社がある。

 鶴峰八幡宮のすぐ先左手に、古刹光了寺がある。

光了寺
 はじめ武蔵国高柳村(現埼玉県久喜市)にあり高柳寺と称し天台宗であったが、鎌倉時代前期の建保年間(1213〜1218)に、当時の住職であった円崇興悦が親鸞上人の教えを受けて西願を名乗り、浄土真宗に改宗したという。その後、6世住職悦信のときに現在地に移ったとされる。
 源義経の愛妾・静御前ゆかりの寺として知られ、静御前の守本尊、蛙蟆龍(あまりょう)の御衣、義経かたみの懐剣・鐙のほか、親鸞上人作と伝える県指定文化財の聖徳太子像などが所蔵されている。
 宝物殿の前には、文化14年(1817)に建立された芭蕉塚(句碑)があり、”いかめしき 音やあられの ひのき笠” (『野ざらし紀行』所収) と刻まれている。

 光了寺の先左手の円光寺、その向かいにある本願寺、そしてその先左手の顕正寺を見ながら進む。

顕正寺
 開基は、茨城県小川町の幡谷信勝で、十六代、善了の時、古河市中田の阿弥陀堂に移し、顕正寺と改めた。慶長年間、幕府の命により栗橋宿を開発した、池田鴨之助の招請により慶長19年(1614)、善了は、寺基を当地に移した。

 暫く進み、JR東北本線の踏切を渡ると広い歩道に松の木が並んでいる。昭和10年代から伐採が始まった中田の松原を復元しようと平成6年にクロマツが植樹された。
 中田の松原は古河城主・永井尚政が寛永7年(1630)に植えさせたと伝わっている。現在の茶屋新田から原町までの約4kmに及び、途中に茶屋や一里塚などもあった。


 宝永元年(1704)創建で茶屋新田の鎮守であった香取神社、茶屋町会議所あたりにあった、二代将軍秀忠日光社参の際に仮設の茶屋が設けられ、以降は立場となった立場茶屋の跡を見て暫く進む。
 国道354号との交差点を過ぎた先右手に、原町女人講中31人が建立したものという十九夜塔がある。台石に「関宿境道」と刻まれ道標を兼ねている。


 その先、古河第二高校の校庭に、明治時代に取り壊された原町(古河)の一里塚が復元されている。江戸日本橋より16里目だ。



 その先右手の民家の門脇に、「左にっこう 右みちのく」と彫られた道標が、さらにその少し先右手には、古河の産土神雀神社祭礼の際に旅人の迂回路となった祭禮道の道標がある。


 少し先右手の、境内に大イチョウがある浄善寺を見て進む。


 浄善寺をでると間もなく三叉路に出る。古河城下の江戸口(南口)で土塁が築かれ番所があったところである。三叉路角に「古河宿灯篭モニュメント」がある。


 三叉路を右折するとすぐ右手に、長谷観世音参道寺標があり、日光街道を外れてここを左に折れる。暫く進むと右手に長谷観音がある。

長谷観音
 日本三大観音の一つである古河長谷観音は今を去る事五百余年前室町幕府を開いた足利尊氏公の血脉をひく足利成氏公により建立された。
 明応2年(1493)足利成氏公六十才のとき、青春時代を過した鎌倉への望郷の念により、又長谷観音信仰によって、古河城の鬼門の地に鬼門除けとして明観山長谷寺を建立し、鎌倉長谷寺より御丈六尺八寸一分の木造長谷観世音菩薩を勧請し安置された。その後、古河城城主代々の祈願寺になり崇敬された。
 長谷観音は、古くより安産、子育虫封じ、開運厄除、出世観音と言われ、霊験あらたかなることは広く世に知られ「日本三大長谷観音」として親しまれている。
 ちなみに、日本三大長谷観音は、大和国(奈良県)初瀬長谷観音、相模国(神奈川県)鎌倉長谷観音、下総国(茨城県)古河長谷観音である。

 長谷観音を参拝した後、横の道を行くとすぐ右手に、古河歴史博物館の案内標識があり、それに従い進み、古河歴史博物館を見学する。

古河歴史博物館
 古河歴史博物館は、平成2年、旧古河城出城跡に開館。周辺景観を生かし吉田桂二によって設計された建物は、平成4年の日本建築学会賞、同8年の公共建築賞を受賞している。
 常設展示は、古河藩家老鷹見泉石が収集・記録した蘭学関係資料、原始古代から近現代の歴史の概観、奥原晴湖河鍋暁斎らの書画作品の紹介等、多彩な資料群を紹介している。
 またホールにはオランダの楽器ストリートオルガンがありその音色を楽しむこともできる。


 古河歴史博物館見学後、鷹見泉石記念館の前を通り、日光街道に出たところの角に、史跡 古河城御茶屋口門址の石碑が立っている。古河藩初代藩主土井利勝がここに茶屋を設け三代将軍家光を出迎えた。以降、歴代の将軍はここから古河城に入った。


 暫く街道を進み、本町二丁目交差点の角に、史跡 古河城下本陣址の碑がある。吉沢家が本陣を務め、建坪は114坪であった。
その向かいには、史跡 古河城下高札場址の碑があり、古河宿の中心であった。


古河宿
 古河宿は日光街道の江戸・日本橋から数えて9番目の宿場である。
 江戸時代の全期を通じて、古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によれば、本陣・脇本陣は1軒ずつ設けられ、旅籠が31軒(大5,中6,小20)あった。宿内の家数は1,105軒、人口は3,865人であった。
 将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における主要な宿場の一つであった。日光社参のときには、従者の数が膨大になるため、通常の宿泊施設だけでは足りずに、城下の武家屋敷や町屋も割り当てられた。

 今回の日光街道歩きはこの本町二丁目交差点までとし、交差点を右折し、古河駅に向かう。

第9回に続く      



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