大山道を歩く

No.9


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮をお詣りを目指します。

第9回 古河駅〜正定寺〜永井寺〜雀神社〜はなももプラザ〜塩滑地蔵神社~野木神社〜野木宿道標〜観音堂〜野木駅

令和2年10月26日   

 新型コロナウイルス感染拡大により暫くお休みしていたので、8ヶ月ぶりの日光街道歩きだ。9:50、JR宇都宮線 古河駅に、5名が集合、爽やかな秋晴れの下スタート。駅西口を出て駅前通りを進み、右手にある西光寺を詣でる。

 「西光寺」
 創建時期などは不詳だが、寛文8年(1668)9月25日に西光寺二十三世空阿上人が願主となって再建したとの棟札が残っているという。明治8年(1875)に焼失するまで、木造の閻魔大王が祀られ、多くの人に信仰された。
 本堂前に鎮座する金銅造りの古河大仏(阿弥陀如来)は昭和54年(1979)に再建された2代目。初代は江戸時代前期に700名以上の寄付により建立されたが、第2次世界大戦時の金属類回収令で供出した。また、参道左手側には飛梅天満宮がある。

 西光寺をでて駅前通りを行き、東三丁目交差点を左折し、日光街道に入るが、街道を行かずに市内に点在する古社寺を巡ることに。
 本町二丁目交差点を右折し江戸町通りに入る。少し行った左手に大正9年(1920)築の3階建て石蔵を改修した篆刻美術館、レンガ造りの古河街角美術館があり一般公開している。さらにその先には永井路子旧宅などが並んでいる。

「篆刻美術館表蔵棟・裏蔵棟」(旧平野家表蔵棟・裏蔵棟)
 表蔵・裏蔵とも、ここで酒類卸売業を営んできた平野家の耐火石蔵として、大谷石を用いて、大正9年(1920)に建てられた。
 表蔵は、切妻造・桟瓦葺・平入の石造三階建、この表蔵と中庭をはさんで建てられた裏蔵は、切妻造・桟瓦葺・平入の石造二階建でした。
 どちらも、良き時代の古河市を象徴する建造物として、現在篆刻美術館として、保存・再生・活用が図られている。

 その先、歴史博物館入口交差点の右手奥に土井家の菩提寺正定寺がある。

「正定寺」
 江戸時代初期の大老土井利勝が寛永10年(1633)に玄哲和尚を開山として開いた寺。利勝は家康、秀忠、家光の徳川3代に仕え、大老として徳川幕府の基礎を築いた。
 本堂は2回焼失しており、現在の本堂は天保3年(1832)11代古河城主である土井利位によって再興された。本堂の他に、赤門、黒門、鐘楼堂、春日局が家光から拝領した開運弁財天を祀る堂宇などがある。
 赤門は、8代土井利里が安永4年(1775)に建立、黒門は、東京の土井邸から昭和8年(1933)に移築されたものである。

 正定寺をでてまた暫く進み、突き当りの手前の道を右手に折れると永井寺がある。

「永井寺」
 江戸時代前期の寛永3年(1626)に初代古河藩主永井直勝が開基。直勝は徳川家と豊臣家が戦った小牧・長久手の戦いで、豊臣方の池田恒興を討ち取った猛将だである。境内には市内最大といわれる宝筐印塔がある。

  永井寺をでて、古河ゴルフリンクスの前を通り過ぎると左手が雀神社だ。鳥居には「正一位雀大明神」の額が。

「雀神社」
 今から約1150年前、清和天皇の貞観元年(859)に出雲大社から勧請したものとされ、大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなびこなのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)の三柱の神が祀られている。
 雀神社の名の起こりは、昔この辺りを「雀が原」といったことからその名がつけられたとも、「国鎮めの神」といったのが訛ってスズメになったともいわれている。
 室町時代、初代古河公方足利成氏が天下泰平・国土安穏・武運長久を祈ってこの神社を崇拝して以来、歴代の古河城主に厚く信仰された。
 現在の社殿は、慶長10年(1605)に時の古河城主松平康長が造営したものといわれる。
 春には江戸時代からの磐戸神楽が、夏祭りには獅子舞が奉納される。

 雀神社をでて、杉並通りを駅へ向かって歩き、旧日光街道に出たところで街道を左折する。よこまち柳通りだ。すぐ右手にははなももプラザがある。

「はなももプラザ」
 古河市地域交流センター(愛称:はなももプラザ)は、歴史・文化資源の情報や市民活動の情報発信の場となるよう、また、未来に誇れる魅力あるまつづくり活動の拠点となるようにと、平成24年2月にオープン。150名収容の多目的ホールや会議室が備わっている。
 雀神社の夏祭りで使用された古河屋台(山車)が展示されている。昭和40年代(1965〜74)までは各町が当番制で市中を曳き回し、屋台の上で歌舞伎、手品、漫才などが披露された。
 ここに展示されている屋台は、天保6年(1835)に下野国(現栃木県)で製作された二丁目の屋台を復元したものである。

 はなももプラザの向かいに、古河提灯竿もみ祭り発祥の地碑がある。


 古河提灯竿もみ祭りは20メートル近い竹竿の先に提灯を付け、大勢で激しく揉み合いながら提灯の火を消すという奇祭で、毎年12月第1土曜日に行われている。

 よこまち柳通りを暫く進むと左手に正麟寺がある。

「正麟寺」
 室町時代末期の天正5年(1577)に愕叟が開山。戦国時代に武田信玄と信州の覇を争った小笠原家ゆかりの寺。寺号は古河城主小笠原長時の法号である長時院殿麒翁正麟大居士からとったもの。
 境内には古河藩家老で蘭学者でもあった鷹見泉石の墓がある。

 正麟寺の隣に本成寺がある。

「本成寺」
 もと猿島郡伏木村(現境町)にあったものを、古河城主土井利益の生母である法清院殿の菩提を弔うため、江戸時代前期の延宝年間(1673〜1680)に日禎上人が移したものという。

 ここを過ぎると古河宿が終わり、県道261号線に合流する。合流点に「史跡栗橋道」と彫られた道標がある。


 暫く進むと右手の細い参道の奥に塩滑地蔵を祀る堂宇が建っている。

「塩滑地蔵」
 病気やけがをした庶民が病気平癒を祈願した地蔵尊で、堂前に置かれた塩を体の具合が悪い部分に塗ると回復すると信じられている。御利益を授かったときは、お礼に塩を奉納する。

 塩滑地蔵を過ぎると間もなく茨城県から栃木県へと入っていく。県境を越え少し行くと左手に野木神社の鳥居がある。社殿までは500mほどの長い参道が続き、境内には約1200年前に植樹されたという大イチョウがる。

「野木神社」
 およそ1600年前、仁徳天皇の時代の建立。平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂が延暦21年(802)にここに詣で、勝どきをあげたといわれている。
 田村麻呂は、蝦夷の反乱を抑えられたのは神の助けとして、そのお礼に社殿を新築し、宮地を現在の場所に定めた。
 鎌倉時代になると、源頼朝が社領として田地を寄付したり、源実朝が神馬を奉納するなど、源氏の信仰が厚かったようである。
 江戸時代には、古河藩主の崇敬も厚く、現在の社殿は、文政2年(1819年)に土井利厚によって再建されたものである。
 野木神社には毎年フクロウが子育てにやって来る。フクロウは野木町の「町の鳥」にも選ばれており、町内に数か所あるといわれている生息地の中で最も有名なのがこの野木神社。
 鳥居横にはフクロウのモニュメントがある。

 野木神社の参拝を終え街道に戻ると、その先で国道4号に合流し、少し行った先左手に野木宿入口の標識がある。野木宿の江戸(南)口で土塁と矢来柵があった。標識の向かい側に昭和6年(1931)建立の馬頭観音がある。


 そしてその少し先の塀の前に野木宿の説明版がある。この場所に熊倉本陣があり、熊倉七郎右衛門が勤め問屋を兼ねていた。その向かいに熊倉脇本陣があった。

「野木宿」
 野木宿は古河三宿の一つで、中田・古河の宿場と共に古河藩の管轄であった。元々は野木神社の門前町として小さな集落を形成していたが、文禄年間(1592年〜1595)に街道筋へ出て継立てを始め、慶長7年(1602)には宿場町としての体裁を整えていた。天保14年(1843)当時の野木宿は人口527人、家数126軒、本陣1、脇本陣1、問屋場4、旅籠25軒。
 ごく小さな宿場町だっため、日光街道の往来が盛んになるにつれて継立業務はその負担に耐えられなくなり、周辺23ヶ村が野木宿の助郷に割り当てられていた。

 この先左手に、野木神社の別当寺として元和2年(1616)に建立された満願寺があり、門前には十九夜塔が置かれている。

 そしてその先左手に野木の一里塚の標識がある。江戸より17里目で、塚の上には榎が植えてあった。


 一里塚跡の先左手に、慶長7年(1602)創建の浄明寺がある。門前には嘉永4年(1851)建立の十九夜供養塔や宝暦10年(1760)建立の青面金剛庚申塔等がある。


 浄明寺を過ぎ暫く進むと左手に野木宿道標がある。「是より大平山道」と刻まれており、恩川の渡しを超え日光例幣使道の栃木宿大平山神社への参詣道を案内したと考えられる。
 一般的には道標は道案内だけでなく、村への悪疫侵入を防ぐ道祖神的な信仰も込められていた。


 道標の少し先左手に聖観音を安置している観音堂がある。境内には嘉永3年(1850)建立の十九夜供養塔や寛政12年(1800)建立の馬頭観世音等がある。この辺りが野木宿の日光(北)口で土塁と矢来柵があった。


 ここからしばらくはただ歩くのみで、立派な長屋門の前を過ぎ、友沼交差点で今日の日光街道歩きは終わりとし、野木駅に向かうが、駅まで1kmほどある。


 野木駅にて解散。

第10回に続く      



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