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「野木神社」
およそ1600年前、仁徳天皇の時代の建立。平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂が延暦21年(802)にここに詣で、勝どきをあげたといわれている。
田村麻呂は、蝦夷の反乱を抑えられたのは神の助けとして、そのお礼に社殿を新築し、宮地を現在の場所に定めた。
鎌倉時代になると、源頼朝が社領として田地を寄付したり、源実朝が神馬を奉納するなど、源氏の信仰が厚かったようである。
江戸時代には、古河藩主の崇敬も厚く、現在の社殿は、文政2年(1819年)に土井利厚によって再建されたものである。
野木神社には毎年フクロウが子育てにやって来る。フクロウは野木町の「町の鳥」にも選ばれており、町内に数か所あるといわれている生息地の中で最も有名なのがこの野木神社。
鳥居横にはフクロウのモニュメントがある。
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野木神社の参拝を終え街道に戻ると、その先で国道4号に合流し、少し行った先左手に野木宿入口の標識がある。野木宿の江戸(南)口で土塁と矢来柵があった。標識の向かい側に昭和6年(1931)建立の馬頭観音がある。
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そしてその少し先の塀の前に野木宿の説明版がある。この場所に熊倉本陣があり、熊倉七郎右衛門が勤め問屋を兼ねていた。その向かいに熊倉脇本陣があった。
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「野木宿」
野木宿は古河三宿の一つで、中田・古河の宿場と共に古河藩の管轄であった。元々は野木神社の門前町として小さな集落を形成していたが、文禄年間(1592年〜1595)に街道筋へ出て継立てを始め、慶長7年(1602)には宿場町としての体裁を整えていた。天保14年(1843)当時の野木宿は人口527人、家数126軒、本陣1、脇本陣1、問屋場4、旅籠25軒。
ごく小さな宿場町だっため、日光街道の往来が盛んになるにつれて継立業務はその負担に耐えられなくなり、周辺23ヶ村が野木宿の助郷に割り当てられていた。
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この先左手に、野木神社の別当寺として元和2年(1616)に建立された満願寺があり、門前には十九夜塔が置かれている。
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そしてその先左手に野木の一里塚の標識がある。江戸より17里目で、塚の上には榎が植えてあった。 |
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一里塚跡の先左手に、慶長7年(1602)創建の浄明寺がある。門前には嘉永4年(1851)建立の十九夜供養塔や宝暦10年(1760)建立の青面金剛庚申塔等がある。 |
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